caguirofie

哲学いろいろ

#67

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第三節 この理論はやはり 共同主観の歴史的な変遷を捉えることである

《地上の国(共同観念形態)についても わたしは沈黙することができず 必要なかぎり 論じることにした》という視点 おそらくここから《史観》が生まれるのであって すなわちその視点じたいが 人間の全体として 《自己という史観》をかたちづくっていくのであって 《理論》はこれに従いつつ 何らかの共同主観形成への補助となるであろうという前提の上に いまわたしたちは この第五章に着手したのでした。
またこの視点をさらに言いかえるなら――そしてそれは 前節に述べた理論の基本的な性格の言い替えでもあるのですが――歴史は 共同主観の原理が共同観念を それに遵いつつ 主導するということ すなわち 具体的な共同主観の形態の時代的な衣替えの歴史であるということ――そしてそこには 各主観の中に 死者と過去が復活してくるということであった――でありました。
各時代・各世代の連結としての人間の永続性の中にではなく 現在する主観の中のそのいのち(人間)の有限なる永遠において 史観するということは ここで これまでの主張と結び合って 各時代の具体的な共同主観形態の変遷を捉えるというわけです。またそこまで到達したいと 共に願うわけですが この小著ではこの第五章として ともかくその前提となる基本的な事項を 必要な限りそして出来る限りに 考察しておきたいと願いところです。
理論としてのキリスト史観の基本的な性格の第三は なおも躊躇しつつあるかに見えるとしても この理論すなわち 共同主観形態の歴史的・過程的な変遷の把握が 主となるのではないということ だからわたしたちは必ずしも総体としての歴史の把握 その理論体系化には 基本的には向かわないということです。むしろ共同主観の原理に固着しつつ それぞれの時代の具体的な共同主観形態 これを やはり現代の主観形成に資すると思われる程度に そのつど捉えていこうとすることで 基本的には満足すべきだということです。

  • だから歴史家の個々の時代にかんする文献学・実証的な研究は これへと集められ挙げられて 資するということになると言っても 不遜ではないと思われます。またこれは 必ずしも言われるような学問の総合化という方向一般とも同じではないと考えます。

これを例示すると次のようになります。
まづいま ここに次のような一文があります。

それゆえ 人間に従ってではなく

  • 精神アマテラス概念に従うことも 身体の運動もしくは物体つまり欲望に従うことと同じように 《肉の人》に従うという意味で 《人間に従って》いる。そうではなく 霊的な共同主観をとおして 神に従って生きるという場合がある。

神に従って生きる人は とうぜん善を愛する人となり

  • 共同主観の一定の内省=行為の形式が 《善》です。その善を愛する人となり

したがって悪を憎む者となるのである。

  • いまの善である《形式》の停滞あるいはさらに喪失・欠如が 《悪》です。

さらに 誰も本性上

  • 至高の善から造られた存在は 本性上 善であるが 本性上

悪いのではなく 悪い人は本性の欠陥のゆえに悪いのであるから

  • つまり 善から離れ何か悪に就いたということが 欠陥ではなく 善から離れ落ちることじたいが欠陥である。悪は善の欠如であるから 善とは造られた存在がその本性であるから 悪とは存在の欠如つまり 悪それじたいは存在していないというように悪いのである。悪いのであるから

神に従って生きる人は悪い人びとに向かって完全な憎しみを持つのでなければならない。というのはかれは人を欠陥のゆえに憎んではならず むしろ欠陥を

  • つまり 停滞した共同主観つまり 共同観念の子守唄によってなだめられたその眠りもしくは死 これが欠陥であるが むしろ欠陥を

憎み 人を愛すべきなのである。

  • 共同観念の形態・自治の様式じたいは これを律法として基本的に貴び 時に共同主観者として主導してゆくのであるが いまは 人つまりかれの主観を問題としている。共同観念は必ずしも主観の要因ではなく それが生きる一つの可変的な土壌である。

もし欠陥がいやされたならば すべては愛すべきものとなり そこには憎むべきものは何も残らないであろう。

  • またこのように 主観の欠陥が癒されたなら その主観の土壌であった共同観念に対しても その形態・様式の変革を必然的に迫ってゆくであろう。その逆の道筋ではない。しかしながら それでも 全主観つまりすべての人間が その欠陥から癒されるのを俟ってはじめて 共同観念形態の変革へ向かうと言おうとするのではない。逆の道筋ではないというのは この言わば人間の革命という道筋に すべてがあると言い続けることではなく たとえば或る時点で主観共同が新しいかたちとなって 言わば水かさを増して来るならば それとともに同じ道筋において共同観念形態の変革へ向かうであろうと言う。これは 道筋の変換ではなく 同じ道が 社会的に第二次の主観共同化を伴なうであろうと言うに過ぎない。言うところは 共同主観の欠如たる悪を憎むというのであって――その限りで人間の革命というのであって―― 社会的な悪の排除・抹殺と言うのではない。そもそも そのような排除されるべき悪は われわれには存在していないと見るべきだと そう言おうと いうのであった。

神の国について 14・6

たとえばこの文章は 共同主観を かなり原理的に説き明かしています。史観としてもこの視点に立って行為し そしてまた 理論としても この共同主観を 知解行為としの史観のかたちで 歴史という人間の領域に 広めるないし深めるということ 基本的にはこの内容が われわれの理論であり またこれに満足すべきであってよいと思われることです。
さらにもう少し具体的に例示するならば――
一定の時代の歴史学的な研究 あるいはいわゆる歴史小説などを含めて歴史的人物の探究 これらが 共同主観の歴史的な変遷史観の中で行なわれるということは 次のことを意味します。
たとえば日本の戦国時代などをその典型として きわめて具体的な例として 政略結婚といった事例が取り上げられることがあります。つまり その時代の共同観念形態の一つの特徴である封建市民的な身分制の問題 そしてこれにどうかかわるかの問題です。もしいま共同主観史観に立つならば この政略結婚といった身分制の具体的な現われ これにかんして この時代には支配的な制度であって この時代にかんする限りそれは 固定的なものであったというふうな見方は 主観的には 採りえません。というのは 問題は われわれの永遠観の問題は この政略結婚の当事者ないし関係者の主観が問題であり かれら(いまとなっては死者)がどういま復活してくるかが問われるのであるからです。
この共同観念に従いつつ 主観はどう生きたか これに焦点がしぼられます。
はじめに人間(アダム)の罪の結果――罪とは 共同主観原理からの離脱 つまり神にしたがってではなく自己つまり人間にしたがって この世を生きようとした人間知による原罪 すなわち同じくその時点から罪の共同自治としての歴史となった その結果―― その罰としての人間は 死(あるいは時間)を免れなくなったというのに対して 共同主観史観(つまりキリスト史観)に立つならば この罪を犯さない(共同主観者として生きる)ために死を選ぶという事態も この政略結婚の地だの人びとに起こったかも知れないし あるいは むしろ共同観念的な政略結婚という制度的な枠組みとは無関係に その当事者つまり少なくともその男女双方の主観にとっては その結婚こそがむしろ共同主観者として生きる道であったと考えられたかも知れないことも もう一方の極として 想定できなくはありません。
これらすべて 死者(人間)の主観の問題であり その死者の・現在して主観するわれわれの時間にどう復活してくるかの問題であります。われわれの歴史理論は この問題を基本として扱います。

  • この場合 時代の一定の共同主観形態は いま原理的に言って 知解行為としては 一般的にキャピタリスム経済行為原則であると考えられるであろうし 記憶行為としては やはり一般的にデモクラシ組織行為原則であろうし 愛の行為としては ナシオナリスム・ムライスム・イエイスムあるいはスサノヲイスム等さまざまな行為形式であろうと考えられます。

言いかえると 先のアウグスティヌスの文章を借りるなら 現在するわれわれの史観は われわれが共同主観者として 《歴史上の人物を欠陥のゆえに憎んではならず また人のゆえに欠陥を愛してはならず むしろ欠陥を憎み 人を愛すべき》として 信長や秀吉や家康がそれぞれ 肯定・否定の両様の見方がなされるであろうということではなく かれらのそれぞれの主観を捉え(――なぜなら 存在するものは基本的にこれだけだからです――) その欠陥はこれを憎む 憎むことによってかれら人間を愛す 愛すことによってかれら死者がわれわれの現在する主観の中に生きて復活する〔――もしくは 時に 悪霊として 第二の死(つまり 死が死なないという地獄の永遠の火)の中へ さば(捌)かれる――〕ということでなければならない。
《もし欠陥がいやされたならば すべては愛すべきものとなり そこには憎むべきものは何も残らないであろう》 これは いま現在するわれわれ自身の 過去の(その死者の部分あるいはあの《眠り》の)復活にかんしても言えることであるのと同様に 歴史理論としての史観であるのです。

  • むろんこのとき 政治経済学的な 宗教民俗的な あるいは心理学的なさまざまな研究が動員され 歴史の情況ないし諸主体の認識が行なわれるであろうし 行なわれるべきであることは言うまでもありません。ただ基本的には 知解行為の原則としてのキャピタリスム 記憶行為の原則としてのデモクラシ また愛の行為の諸形式にかんしては 《A‐S》連関形態つまりナシオナリスムなどが 《S者-A者》連関主体の互いの関係形式としてのインタスサノヲイスムのもとに それぞれ認識の基準を形作るであろうと あるいはそのように単純化してもよいと考えられるのです。
  • たとえば身分市民制といった条件は むろんナシオナリスム形態とあいまって 宗教民俗的なつまり共同観念的な情況が 各主観に対して その認識の基準たる共同主観の総合的な形態よりも一層 優位にはたらくといった座標の上にあるというふうにも あるいは単純化できるかも知れません。むろん 社会階級的な史観による分析は なおこの上に 論理的知解上のより確固たる論拠を提供しうるものとも考えられることは言うまでもないでしょうが。またそれらの研究にも拠って いまこれらの思弁を行なっているとも言わなければならない。等々。

わたしは敢えて言いますが このようにして(このような共同主観史観の樹立によって) 共同主観の共同観念への寄留形態は 歴史的に変えられてゆくであろうということになります。この意味で 理論としてのキリスト史観の第三の性格は 共同主観の歴史的な変遷を史観することであると言わねばなりません。
(つづく→2007-07-22 - caguirofie070722)