caguirofie

哲学いろいろ

#68

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第四節 現在の共同主観の到達地点から捉えるべきであって これに例外はない

前節への追加としてなおわたしは言いますが もし死者の復活ということが いまわれわれの共同主観の中に起こらないとするなら・また起こってもそれを見ないとするなら この史観は何の意味もありません。身近な例で言えば わが国の靖国神社戦没者を祀るということは 何の意味(必要)もないようになります。

  • すでに述べたように 共同観念形態の中ではよいとしても その形態の主導のもとに死者を その魂をやすめるようにして祀るという靖国神社による方式は ヤシロ・S圏次元の各ムラの神社(むろん信教の自由のもとに)による祀りの方式にあらためるべきだと思います。それは 共同主観の中に死者が復活してくるというわれわれの史観に従えば この主観形成(その動態)の似像は スーパーヤシロ・A圏にではなく このインタムライスム共同主観のかたちとしての各ヤシロにこそあって それ以外のところにはないと考えるからです。この主張とはいま別にして 史観において過去の死者の復活がないとすれが 例として言って靖国神社に戦死者を祀る意味はないということになります。

戦争は それが勝利に終わるものであれ敗北に終わったにせよ 政治の延長であるならそれは 共同観念による共同自治の特殊な存続形態であり また広い意味では この存続の中にも 新しい共同主観を求めての 共同自治様式の衣替えであります。過去において そう考えられるのなら その手段であったとさえ捉えられます。これを見ない・またはこれに導かれない戦争の遂行や終結は論外だと考えられ それはやはり共同主観の変遷という史観の中では 戦争というこの変遷の一段階に生きた・つまり残されて現在するわれわれの中における復活が行なわれないでは 終結とは言えないと考えられます。この復活は とうぜん 善つまり存在つまり形式つまり共同主観の再生と その善の欠如つまり悪のさばきということにほかならないと思われます。英霊を――いま英霊と言ってこれを――祀るということは われわれの現在する霊的な共同主観の中に この復活とさばきが 史観となって生きるとということの他のことではないと言わねばなりません。

  • またその地上における似像が 各自治態勢(ムラ――戦死者の故郷として)におけるヤシロ=エクレシアでのとむらいという形になると思われます。もちろん 信教の自由が大前提です。


さて いま問い求める理論の第四の性格は 第一の性格から付随してくることがらとしてさらに 次のことだと考えられます。すなわち 各時代の共同主観は 現在の共同主観(その歴史的な到達地点)に応じて そのかたち・およびそれらの歴史的な変遷が捉えられるということ。現在の共同主観の到達度合いに応じて 共同主観の原理に照らして 過去は 新しいかたち(その死者の善の再生と悪のさばき)として 復活し現在するということです。非存在として退けられる場合もあるかと思います。(おこない・思想を斥ける場合があるかと)。
これは 取り立てて述べるまでもなく 過去の分析・認識・評価の問題にほかなりません。少し見方を変えるなら やはり歴史は 現在するわれわれ一人ひとりの主観とその形成の中にしかないということにもなります。これは 歴史上の各時代の人間のそれぞれの主観を軽視しているようであって しかも史観が現在しなければ それは史観ではなく かれら歴史上の過去の人物も むしろまだ生きない・死んでいると思われることによるものです。
かれらを復活させたまうのは 神のわざです。また 神の御子として人間キリストのみが むづから復活したまうた。これが 真理の光であり 永遠のいのちと言われる史観の原理です。かれつまり神によって造られた(もちろん 生まれたのは 親からですが)人間は 自己すなわち人間に従うに至った理性的動物として 罪の子(もしくは 知恵の子)であり またこの罪の罰として身体の死が定められています。しかも 本性じょう 神の似像として造られた人間は そのまま善(共同主観者)なる存在として 神の知恵・力を分有することがゆるされ この罪に対して 何の代償もなくつまり無償(恩恵)で 人間キリストの――われわれ人間にとっては 二重の死に値する――十字架じょうの死によって 身体ごとあがなわれたのであり この神の代価を払って 神の国へ買い取られたことによって その神の聖霊を与えられてのように キリストの再臨とともに 復活が約束されているようです。
《生命を得ようとする者はそれを失い かれキリストのために失う者はそれを得る》とも言われるように 現在するわれわれの主観形成の中でも その自己の復活が約束されたごとく 過去の死者も かれらがただ空中を浮遊するかのように霊的損愛としては不死であるというのではなく 我々自身すなわち具体的な個々の人間の中に 復活してくるということでなければ 不在なる者(神)の現在はありません。これは その現在の共同主観の到達度合いに応じて 共同主観の原理なるお方に固着しつつ見る個々の生きた主観のもとに 復活する。だから一般に過去は 現在の共同主観の到達地点からつねに それぞれの時代の共同主観のかたちが捉えられるということでなければならない。だからさらに言いかえ続けると この一見すると不遜 つまりやしろ(キュリアコン)の現実なる望楼に立つ史観は 時の変化とともに動揺するこの地上のあらゆる高みを超えて 神の恩恵によって与えられる高貴さによらなければ可能でないものであり 人間キリスト・イエスの道に倣う謙虚の徳によって到達されるべき史観としての共同主観なのです。真理の光に照らされてのごとく ここに人間の自由があると知ったからです。当然の如く キリスト史観は 自由の史観でもありました。
この自由史観が 生きて現在して自己形成をなし 理論するとするならば この理論には 過去の復活しかも ただその時代における(その時代に即した)人間的な想像によるよみがえりではなく 現在の共同主観の中への死者の復活であるのでなければ われわれの自由を現実とすることは出来ず またかれら死者も自由を享受することはできないとさえ言わねばならないからです。この空想は まったく日常のこととして言っても 人を欠陥ゆえに憎まず 人であるからと言って欠陥を愛することなく 欠陥を憎み人を愛すという共同主観が 生きた史観となるために 《存在》することが可能であり このとき 過去の人間を捉えるという場合には その時代の共同観念が それは一つの土壌であるという以外には どうでもよいものであるばかりか その時代の共同主観のかたちも もはや過去なのであり 過去であるということは 主観の自己形成における形式にとって 終えられたもの・旧いものであるという以外になく しかし 人間が歴史のあらゆる過程を通して 人間として捉えられなければならにというとき――歴史理論はこれを目指す―― このような過去の共同主観のかたちをも超えて 現在の地点から通史的に捉えることでなければならない。なぜなら 共同主観も動くのであり 変わらざるものは 神の知恵と意志から・すなわち これによって造られこれに固着しつつその本性の栄光を・つまりだから神の栄光を 人間として現わす人間の視点から捉えたものでなければならないと思われるからです。
また 逆に 人間の本性の栄光(これも 共同主観と言うべき。つまり本性とは 原主観である。だからその各自の人間としての栄光)が 歴史の進むにつれて 直線的により輝きに満ちたものへ それを捉える側からは楽観的に より善いものへ進んできたと言おうとするのではありません。あくまで いま理論する人の主観形成において この栄光が そしてその現在する地点から どのように変遷してきたものとして 捉えられるか これを言うにほかなりません。いわば死者の生前の共同主観は いま現在して理論する共同主観者の自己形成の過程に重ね合わされるがごとく そしてむしろそれ以外の方法によることはないとさえ言うべくして 歴史理論は把握されねばならないということ。またそれ以外には 不可能かも知れません。この一見 当然のような理論に性格は それが 理論者においては――そして当然 諸理論家の読者においても―― つらぬかれねばならないということを 共同主観します。これは 通俗的に言って 堅苦しいということではなくして 自由がそこにあると主観するからです。

  • それでは 歴史小説等 一般に文学の場合には それが単なる批評ないし批判になってしまうという問題が生じるかとも思います。それに対しては次のように答えるべきでしょう。小説において 当然のごとく 登場人物と作者とはちがうのであるから 作者(または理論家)は その時代の共同主観の限界もしくはそのような意味での自由の限界 これを描くことにもなると思われるのですが かれは この限界(つまり 共同観念制度の優位)を愛したか あるいはそれをどのように憎んだか 従って人間を愛したか これら問題であるのであって この視点を提出することが――つまり言わば言外にでも 全体として提出することが―― 鍵であるのだと。
  • だからたとえば 主人公が 歴史的なその当時の共同主観の限界を見つめ この限界をかれが憎んだということを(そして共同観念形態に抵抗したということを) 作者が愛しこれを描くというのではなく 人間として主人公つまり歴史上の人物(架空でもよい)その人を愛し かれがどのように憎むべきものを憎み またその憎むべきものは確かに正しく憎むべきものであったか等々 これを理論し描くべきであると思うからです。
  • この批判的な性格は 作品としての成立を妨げないでしょう。自由な表現もしくは そもそも人間として何ものかを視観し これを表現するという自由は――あえて言うならば―― この高さにおいて到達されるべきであると またはこの高さに到達することによって獲得されると 思われるからです。この主題じたいについては 傍観しつつの議論のようですが こう思われます。

以上 この第四の性格は 第三点で考察したこと すなわち《人を欠陥のゆえに憎んではならず 人のゆえに欠陥を愛してはならない》という共同主観の 完成という点に重きをおいて述べたことになります。《むしろ欠陥を憎み 人を愛すべきなのである》とともに これは この共同主観は 過程的に・そしてむしろこの場合は 筋としては 一つの直線的形成として従いつつ進むべきであって あれもこれも 《もし欠陥が癒されたならば すべては愛すべきものとなり そこには憎むべきものは何も残らないであろう》という《道》の現実性 これに固着することによって 実現されるべき――理論としても――であると考えるからです。また この《道》の現実性が 歴史的に 人間に 示されなかったとするなら 思惟するに空しい議論であるでしょう。
(つづく→2007-07-23 - caguirofie070723)