caguirofie

哲学いろいろ

#66

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第二節 それではこの理論の基本的な性格は何なにか

次に キリスト史観の理論としての性格は――もはや必ずしも唐突なこととして思われないというように――死者(過去)が復活して現在するということです。
現在の史観に 主観形成において そしてその理論の中に 死者が復活するということは 或る死者はキリスト者の栄光を担って われわれとともにいま現在してよみがえるということにほかならず また別の或る死者は この栄光に生前において固着しなかったことによって 現在してよみがえったとき この栄光者の列からはづされるということにほかなりません。われわれの歴史理論の内容は まづこのことを一つの輪郭とします。
もちろん 過去の死者のすべてを一人ひとりその生前の主観形成に従って われわれが裁こうということではありません。理論において――この場合は 生きた史観においてという場合とも同じですが―― その基本的な性格がそうなのだということです。ということは ひるがえって 復活してきた死者が それぞれの人にとっては 一人ひとりすべて裁かれるということにもなるかと思います。またこのことは われわれ現在 存在している者にとっても 過去の旧き人という自己がよみがえった如くいま現在するとき これが裁かれないというものでもないということです。神の知恵・力をわれわれが分有して その恩恵の分限に応じて これをわれわれ自身が為します。遠い過去の文献や伝承でもはっきりしない人びとについては これが必ずしもはっきりしないという程度の問題だと思われます。
わたしたちは その自己にとって・自己形成にとって必要で大事であると考えられる限りで これをそれぞれ個別的に為します。これらは 理性的・経験的には いわゆる自己否定ないし普通に反省・内省という言葉で言い表わされる行為に類似します。もちろん過去の死者の復活 旧き人を脱ぎ新しい人を着るという復活も 理性的に知解しつつ為すわけですが これと 経験的な自己批判との違いは おそらく後者は 自己による自己の肯定のために その批判・否定・反省を行なっているのであろうけれど しかし前者は 自己の肯定をもはや自己の力では為し得ないと考えるときに 神を呼び求めるのです。(むろん 自分の力で世間を渡っていこうという限りでは そのように経験的に自己の肯定をしていることは言うまでもありません。つまり その側面を考え合わせれば 非経験とのかかわりにおける側面との両方があると考えられます)。
そこで 与えられた共同主観夢は つぎつぎと自己の過去・その死者をよみがえらせては葬りつつ かつその中から・つまり自己の中から 新しい自己の姿を浮かぶ上がらせるのです。これは 霊的な共同主観の問題であるものです。逆に言いかえると 共同観念の蔽い・経験的な生の蔽いが取り除かれたということであり 自己の肯定‐反省‐否定といった経験的な内省(知解・思惟)を 死者の復活して新しき人となった自己が 用いるのです。内省・思惟は人間にとって貴いものですが 経験的な領域に閉ぢこもる限り そこに自己の存在を託すことはできないからです。
これがなければ 新しく霊の人として生まれるという神の国の共同主観は 絵空事となるにほかなりません。無常観であるとか 歴史は流転しまた循環するであるとか あるいは逆に 現在のわれわれの次の世代・次の次の世代等々といった世代の連結として永続性(そういった観念ないし客観共同)の中に たとえば死者とわれわれの復活すべき理想的なコミュニスム社会の実現を夢見るということになりかねません。われわれは その恩恵の分限にしたがってそれぞれ歴史の過程を 主観において止めます。エポケー。止めるということは 歴史の共同観念的な世界への寄留を見つめつつこれを捉え直し この寄留の形態をも 自己の霊的な共同主観において 転換させるということです。

  • 霊的とは 現実的ということであり ただ現実的というばあいには ただ目に見えるものをもってそれが表象されがちなので この現実的という語を用いずに 霊的と言うにすぎません。

この霊の人としての再生は われわれ人間がキリストに似るであろうと言われるとき 似るのであってその《道》そのものになることは・またかれを顔と顔を合わせて直接見ることは 少なくともこの世においてはかなわないことであるとするならば それはそのままやはり絵空事であるということを認めざるを得ません。ただ それでもこれに固着するのは この道において真理があり この道において以外には真理はないであろうとせざるを得なかったことよりであり この真理はわれわれをこの朽ちるべき身体を伴なったかたちで 自由にするであろうと知ったからにほかなりません。
この世において話をしているからには すべてが 絵空事であることは 誰もが認めざるを得ません。そもそも理論とは そして生きた史観も このように果敢無いものであります。しかも このわれわれのキリスト史観においては その共同主観において 朽ちるべき身体に圧迫されながらも 罪の人と定められることはないと むしろ実感をもって知ったからです。そしてしかも それは 主観です。しかしこの現在する主観に 過去の死者が復活してくると可感的にも知ったからには われわれはこの道を――この穏やかにして低き安全な道を――歩まざるを得ないと十分知っているからです。その根拠を その根拠そのものを 人びとは受け取り得ないし われわれも思惟によっては語り得ないのですが しかもそうでない場合の史観には この存在の根拠の把握において 誤謬が存在し この誤謬の根拠についてはわれわれは語りうると考えたし また語っても来たからです。
このような点にかんしては われわれはそれを明らかにすることが要請されていると考え ただ現在――意識したあとにしろその前の状態にあるにしろの――キリスト史観者であるその栄光を 沈黙の暗きにおいておくのではなくむしろ明るみに出すことも要請されていると考えたからでした。このような現状が先行してのこの共同主観の明示的な主張とまたその理論的な提示に ここに及んだというものであったわけでした。
われわれはむしろこの弱さを誇りつつ こう言います。この主観に固着することが 人生にとって有益であるとわたしは思います。またそれは 不在なものの現在である愛が これであると言います。だから これの理論もここに要請されているのであり しかもそれは この性格としての《われわれのキリスト史観に 過去の死者が復活して来て現在する》ことからの要請でもあるのです。すなわちこの場合 人間の世代の連結という意味での人間の永続性にではなく いま現在する人間の主観の中に生きて 過去の世代も復活するという――その意味で われわれは後ろ向きに進むと言われる――いのちとしての永遠に 史観は求められるほうが より理にかなった行為である こう考えられます。


いま アウグスティヌスは その著《神の国〔と地上の国〕について》の第一巻の序に 次のように述べています。これは一つに 《歴史の意味と目的 すなわち本来の意味での歴史は 神の国〔だから これを共同主観する人間が主役である〕が担っている》(その訳者はしがき=赤木善光・泉治典・金子晴勇)ということを語っていると考えられ このとき 人間の共同主観の中に捉えられるべき神の国は 過去の歴史が・だから死者となった人間が 現在して復活してくるという理論的な内容となって現われるものでもなければならないと推察されるのです。いま 序の全文を引用して掲げます。

栄光に満ちあふれる神の国は この移り行く時の中にあっては 《信仰によっ生きつつ》 不信の子らの間に寄留しているが かしこにあっては 揺るぎない永遠の座に確く立っているのである。神の国はこの永遠の座を いま《忍耐して 待ち望んでいる》。しかしそれは《正義が裁きに変えられるまで》であり

  • 裁きとは 復活してきた死者(つまり おのれの中の過去の死者)が裁かれることであろう。

続いて与えられた最後の勝利とまったき平和の中に完全に受け継ぐであろう時までである。愛する子 マルケリヌスよ わたしはいま着手するこの書物の中でこの神の国〔の二つの姿〕について論じ その建設者よりも自分たちの神々のほうを選び取る者たちに対抗して これを弁護することを企てた。これによって わたしはきみへの約束を果たすことになる。これは実に大きな 労多い仕事である。しかし《神はわれらの助け手である》。
実際わたしは 謙虚の徳がどんなに大きいかを高慢な者たちに納得させるために どれだけ多くの力が必要であるかを知っている。神の恩恵によって与えられた高慢さは 人間の厚かましさが奪い取った高慢さとはちがって 時の変化と共に動揺するこの世のあらゆる高さを越えているが そこに至るのは謙虚の徳によってなのである。というのも わたしたちが論じることを決意した この国の王にして建設者〔なる神〕は その民の書物(聖書)の中で 次のように言って神の律法(共同主観の原理)の定めを啓示されたからである。

神は高慢な者たちに立ち向かいたまうが 謙虚な者たちには恵みを与えたまう。

この定めは神にのみ属することであるが 高慢の思いにふくれ上がった〔悪〕霊まではこれを自分のものいにしようとして 次の言葉で自分が賞讃されることを好んでいる。

服従する者たちをゆるし 高慢な者たちをうち倒す。

こういうわけで 支配の熱望にかられて人民を奴隷として仕えさせながら 自らはその支配欲によって支配されている地の国についても わたしは沈黙することはできず この書物の目的に必要な限り また力の与えられる限り 論じることにした。
神の国ついて 第一巻 序)

わたしたちいまこの立言を ある高みから行なっているとすれば――そのように感じられるとするならば――それは この共同主観の原理にはわれわれは固着すべきだと思うからです。また 上に引用した序の精神を 人間的な尺度(共同主観)で言うとすれば それは スーパーヤシロ(A圏)に対するヤシロ(S圏)の第一次主権制 この意味でのインタスサノヲイスム(つまり 主権性が転倒していた分その死者の復活)であると言っておいてよいと思うことです。

  • その一つの知解行為 殊に経済行為領域を 人間社会的な土台とした歴史の把握が 社会階級関係の形成・進展を基軸として見る史観であると言おうとするのでした。

(つづく→2007-07-21 - caguirofie070721)