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第四部 聖霊なる神の時代
第三十九章b 愛の火はインタスサノヲイストたちによって
いまは マルクスが《創造者》をほんとうに排斥していたかの問題であるが いわゆる《無神論》が いま言う《宗教》の否定・それに対する反措定であったとするなら マルクスの立ち場は明らかに 《否定(無神論)の否定としての肯定》の立ち場以外のものではないのであって 《創造者つまり キリスト》を 言葉として直接 用いたか用いなかったかh 問題とはならないであろう。ただ逆に言えば 時代と社会の情況の特徴からの要請として 表現の形式としては 自己がキリストに成り代わってのように そのキリストの立ち場から――そして必ずしも人間の中へ到来せず 人間に近づかずに(経済行為というもっとも現実的である思われる領域をその考察対象としたことも 人間の中へ到来したことを 必ずしも証明しない)―― ものを語ったということである。(結果について具体的に言うならばそれは 経済行為領域から見た・あるいはそれについて見た 史観の方程式一般の展開を 考究したということになる。これは 各主観としての展開ではなく その方程式一般にかんする客観共同になりうる)。
かれのこの個人的に採った態度――この方法じたいは かれの個人的な主観であり かつその史観・信仰の内容(過程的な到達度合い)そのものではなく これを表現するときの或る種 個人的なくせ(エートス)を伴なった 行為形式―― これについては 一概に 否定も擁護もできないと思う。(もっとも それは マルクス一人でたくさんだ とは言った)。要は このような一人の人間――民族的にはユダヤ人に属し 社会としては西ヨーロッパ〔のいわゆる〕キリスト教社会に生きた一人の人間――が 歴史的に存在したという一事実(ないし真実)である。その史観の内容にかんしては おそらく受け継ぐべきであるように 一人ひとりが 受け継ぎ(このとき 死者マルクスは復活する) そしてかれのその表現形式にかんしては 時代と社会などさまざまな歴史的条件を勘案しつつ 受け止めねばならないであろう。この死者の復活は われわれの復活とともにある。それは いわゆる言われている《共産主義》の復活であるとかいうことではなく たとえばマルクスの復活ということだ。
キリストにあってわれわれが 一つであるとき われわれはこれを為しうる。またそれは いわゆる宗教化形態の中での 死者なるマルクスその人を 擁護したり あるいは あげつらったり何やかやするのではなく 一人ひとりの生きた内なる史観〔の自己形成の過程〕のなかで ――むろんマルクスの欠陥はこれを憎み遠ざけつつ――かれの復活するのを見る。このことは知る者は その人のうちにあるその人の霊のほかにはないと告白し 訴えるのが 信仰の立ち場である。(マルクスあるいは他の誰それが このように復活したぞ と告白し訴えるのがではない)。また キリストにあって〔人びとが〕一つのもの という霊的なアマアガリの基軸そのものを言っている(それは 時には 告白してもよいであろう)。しかし この霊的なアマアガリにしろ 他の基軸すなわち 第一の死の引き受け およびそこからの復活にかんしてにしても 人は 自己の霊によって自己の内に知る以外に 知ったりあるいはこれを表現して訴えたりすることはできない。かれは わづかに これを 史観の方程式などといった類型的な(その意味でA語による)かたちにおいて それとしての理論として表現するか あるいは あたかも内なる霊によって知っていることがらとは別個としてであるかのように 外なるやしろ(つまり他者)に対して 一般具体的な共同主観の中で 単純に 日常語を語るのみである。(むろんそのとき 伝記がつづられることを排除するものではない)。しかもこのとき あたかも自分がそう意図してはいなかったかのごとく・かつ同時に ほんとうはそう欲していたとも言えたと思われるように もし信仰が愛をとおしてはたらくなら――聖霊によるアマアガリがたしかに実体であるというほどに―― 愛〔するもの〕は――あの見えざる手に〔互いが〕みちびかれてのように―― 現在するであろう。
したがって人は 人間の力によって可能な範囲では また範囲の問題ではなく信仰によって可能となってのように 自己の意志(愛)にしたがっても 欲し また 走りもするのである。その限りでは 欲しなければならないし また 走らなければならない。(それは 当然のように)。また 自己の内なる霊によって 自己に起こっていること(つまり根本的には 聖霊によるアマアガリ の予感)を知るなら これにもとづくようにして また これをとおして その内なる愛の火に燃え立たしめられ促されてのように かれは自己および他者を その欲し走りするとき同時に 啓発しているであろう。この欲するものを獲得し 欲するところに到達することができるのは あわれみたまう神によるとたしかにわれわれは 告白するのである。この限界を超えて 何ものか愛(あるいは愛着)するものをつかんだとしたら それは シンキロウであるとたしかにわれわれは知っているのである。
A語シンキロウによってシンキロウをだますことは出来るが――だから そのように 限界を超えたかたちででも 獲得したいと欲するものを獲得することはありうるが―― 人間の本質はここに生きていないとわれわれは知っている。だから 通俗的に言って マルクスは 何が何でも革命を起こそうと つまり革命のために革命を起こそうと欲しはしなかった。
- レーニンが それではこれを欲し強行したかと言えば それはすでに述べたように 事情がちがう点も考慮しなけれならない。社会的な土壌がちがっていたと思われる。レーニンは 善かれ悪しかれ 革命という手段そのものの内に むしろ 限界につきあたっている人間の本質を その時代と社会の情況の中で 見た結果なのである。明治維新は その内容こそ異なるが むしろ本質的に このレニニスムに近い。もしきは その逆である。この二つの革命に代表される視点は したがってアジア的な社会における人間の本質(《愛するものは 現在するであろう》)に属することがらに属する。
- ただ 現代から言えることは それらは〔マルクシスムによるそれをつうじての〕アジア的な社会におけるいわゆるキリスト教(ないしキリスト史観)の洗礼を 一般に基本的に 受ける以前の一歴史的時間に属するということでもある。いまは およそ一様にというほどに 世界史的に キリスト史観の生きる時代――あらたな歴史的時間――に入った。
したがって キリスト史観は 信仰が観想する原理としては そのものとして論じられ かつ一般の(生活日常的な・外的な)共同主観としては むしろ・あるいはむろん キリストのキの字も表現されないというかたちで(してはいけないということでは ありえないが) インタスサノヲイスムあるいは インタムライスム=インタキャピタリスムなどというように その意味で価値自由的に(没価値ではなく 有価値だから 価値自由的に) 新たな共同自治の形式・形態を模索するといったふうに 論議されるものと思われる。誤解のないように言っておくが それは 信仰あるいは霊的なアマアガリというような史観の内的な基軸 つまり《主観 ないし 価値観》が 内と外とで使い分けされるということではない。主観の内に至高の価値として キリストと父との遣わされる聖霊なる神が 生きた実体であるからこそ――また これを それが実体として存在するとおりには思惟されえず また思惟するとおりには語られ得ないものであると知るゆえに やはり信仰そのものに立って―― あたかも価値自由的な 共同主観としての人間の言葉が 実際には一般に 語られ流通すると考えられるのである。(いま言っていることは 経済的な利害関係〔の領域に立って そこから各主体に形成される共同主観〕の視点のほかに その経済〔・政治・社会〕主体の個人的なまたは社会共同的なくせとしてのエートスを 同等・同列に立てるウェーバーの立ち場を 擁護する・ましてや宣揚するつもりで言っているのではない。
ウェーバーの価値自由の視点とは A語シンキロウ現実の中での 空中に浮遊する没価値的な〔九重志向の〕砦のそれである。つまり 一般にやはり共同観念といった意味内容であり 高々 旧い共同主観といったことである。われわれは この共同観念を用いる。(一般的にはそこに寄留している)。言いかえると つねに共同主観としてだが 一般日常的にはこれを 価値自由的に語ると言っているのである。マルクスその人は すでに少し見たように 行きすぎてでも このエートスは共同主観の中に 止揚した。行き過ぎた分だけ ウェーバーがあとで出現したとわれわれは 理解したい。ウェーバーのその他の個別的な研究業績について ここでは触れているのではない。詳論は 必要の生じた場合――大きくは生じないと思われるが――に または適任者に ゆづりたいと思う)。
このように キリスト史観は 不在なものの現在である。ここに立つ信仰である。キリスト者は かつてのマルクス者とともに すなわち言いかえて インタスサノヲイストは この正しい信仰から あやまった信仰を区別し識別しなければならない。
(つづく→2007-12-14 - caguirofie071214)