caguirofie

哲学いろいろ

#79

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第四節b 唯物史観は 至聖所に物質を〔のみ〕置き・見る第一の幕屋である

弱さ・中間性が人間の力によって明らめられることと 人間の存在の根拠から派遣された精霊(このように表現すべき。なぜなら それは 理論=第一の幕屋を超えて存在すると信じられるから)の力によってそれが裏打ちされることとは 別のことです。
キリストが(――もしくは かれらにとって物質がでもいのですが――) 人間と共にあるように派遣されることと 人間であるように派遣されることとは 別です。物質が存在の根拠として人間と共にある つまりそのように人間の思惟においては把握される つまりそのような幕屋が人間において知解されあたかもこれそのものを愛するように共同主観者となることと それが物質によって構成されるものであれ 人間存在が 上のような幕屋を超えてそのさらに源から派遣される(ないし一般的にはその源によって造られ生まれる)・つまり人間は自己を上のような幕屋(知解)をとおしてその存在を全体として知解しこれを愛することとは 別です。
少し前に見たように 唯物史観もたしかに 無神論を標榜しつつ 前者とともに 後者をも見ようとしている。前者は 人間の今ある状態を捉え――疎外 私有財産制 社会階級説 つまりそのような意味での人間の本質を捉え―― 後者は 至聖所への観想をとおしてというように この今ある状態を・つまり上の人間の本質を動態的なものと見て 別の新しいものへ変えようとする。前者は 人間の本質を理論し 後者はそれを生きて史観とさせる。疎外 私有財産制 社会階級性を 克服する もしくは新たな形態へ発展させる。なぜなら人間が その内的な領域へ向き変えられたからではないだろうか。なぜなら 経験的な運動としの物質なる原因を超えて そのように観想したからではないだろうか。経験的な・人間の運動として 過去に歴史的に 存在したその行為にならってそうするのみとたとえ言ったとしても そのように過去の〔物質のでは必ずしもなく〕人間の行為にならうというのは かれが一度は内面へ向き変えられたからではないか。そのとき かれはその内面で 物質〔の運動〕の託宣を受けたと言うべきであろうか。過去の歴史上の人物の心を心とした言うことはあっても。
だからそれは 唯物史観ではなく キリスト史観ではないか。マルクス史観ではなくても スサノヲイスト史観ではないだろうか。もしそうでなくても そのとき やはり物質〔の運動〕に根拠を置くというのは もはややはりそれでも至聖所の前に立った各自の主観その姿 信仰そのものではないのか。マルクスレーニンその人が スサノヲ者のまつりを司る祭司ではないのか。これが史観(共同主観)ではなかったのか。
そうして この議論における二つの史観ないしその理論の優劣・高低は 各主観の判断に任す以外にないことがらです。客観共同ではなく 主観共同に 史観を求めたのでしたから。われわれは このことを言えば 理論は――史観ではなく 理論は―― 終わったとさえ言ってよいでしょう。
なぜなら 《神はあわれむことを欲する者をあわれみ かたくんいすることを欲する者をかたくなにしたまう》と言うようにして 《風(聖霊)は 自由に欲するままに吹く》と言われるからです。
《わたしはヤコブを愛し エサウを憎んだ》と主は言われた。同じ両親から生まれた双子の兄弟を しかもかれらが生まれる前に・つまり行ないの正しさ悪しきさまを論ずるより前にはおろか信仰が形成されるよりも前から 一方は愛し 他方は憎むというように分けられたからです。これは 幕屋(理論)の吟味・再編成・体系化による人間の弱さ(もしくは 強さ)の明らめとその悟りによる共同主観の形成を意味するのではなく 至聖所からの配置(これが しかも 甘美な秩序正しい配置であることは のちに見ます)が見られるべくしてあるように(それは むろん 内面において) 人間の存在じたいが明らめられ 悟りではなく巡礼(人生)における各主観の帰郷の道が示されたことにほかならないと考えられます。
ところが神は かれを信じる者はすべて救いたまう神であって――そうでなければ至聖所の奥なる至高の善とは言えない―― しかもかれが ヤコブを共同主観者とし エサウを共同観念現実に停滞する者としたまうのです。一方のエサウをそのようにしたまうのは かれの行ないが正しくなかったからとか 信仰からはずれたからとかの理由によるのではなく 生まれる以前にあたかも予知し配置された。しかし悪は 存在するものではなく 存在(善)の欠如なのであり 悪い人びとも かれらが神によて造られた存在を保持する限り 善であるのです。それでは何と言うべきでしょうか。
神は 史観の全体 もしくは 神の家たるやしろの現実全体の中に 悪をも正しく用いたまう。エサウは あるいはヤコブも 物質の運動の人間生命化した存在であるのではなく いやたといそれが一つの幕屋として正しい認識であったとしても われわれ自身にとって そしてかれら自身にとっても かれらが 至聖所の奥なる司令室からの やしろの中における配置にしたがって 生きたという神の御心を〔生きたということを〕意味するものにほかならない。これは 予定調和であるとか既定調和であるとかの議論ではなく すでに提示したように 過去の死者が キリストなる道において その時の現在・その信仰によって観想する主観のうちに 復活してくるという史観の〔動態的な〕内容であるにほかなりません。また このことは 人間の自由意志の存在は 神の計画のご意志に勝てなかったという意味ですから 人間など被造物は神の人形にしかすぎないと言えなくありませんが ここで要な ヤコブエサウもそれにもかかわらず かれら自身のそれぞれの自由意志でその生を送ったということのほうが 主であり それは人間の傀儡性をすでに否定してしまうか もしくは そのような議論じたいがここでなじまないものであることを示唆しています。
ヤコブエサウにかんする史観は 後世の旧約聖書記者に そのように かれら〔の生〕が復活してきたことを意味します。だから 予定調和という主観は――ないし史観としても それが客観ならそれは―― むしろ存在していない。これは 神による被造物すべての甘美なる配置であると言うことができる。すなわち 生きた個々の主観の内面において しかもだから 宗教とはなりえないものとして 言うことができる。
聖霊は その働きは自然現象の中にも見られるとしても 人間の個々の主観に宿ると言われるからには これに従って人間は むしろ自由意志によって(つまり 神から人間の中へ到来し 人間に近づくといった愛は この自由意志を連れて 生起するのであり) それぞれの史観を構成し担い また幕屋(理論)を張ることでしかありません。ここで 風( pneuma・聖霊)は自由に気ままに吹くと言われるのです。
これを理論しないでは 唯物史観の理論は扱えないと考えます。また これが理論としてのキリスト史観なのであり これをそのままむしろ〔つねに建築中の〕幕屋ともすべきなのです。なぜなら 共同主観は 理論(知解)の共有によって成り立つのではなく それぞれ史観となった主観の自己形成過程の共同の中にこそあるからです。しかもこれを主観〔が基本〕であるというからには 聖霊の働きは 必ずしも主観共同(対関係・二角関係という関係)の中にあるというのではなく それぞれの独立主観の中に宿るものであるとこそ言わねばなりません。だから 主観共同の関係の中に 愛として 働きたまう。これが 来たるべき時代・社会の姿でもあるのです。なぜなら 第一の幕屋は 本物(史観)の模型にしかすぎないということが 共同主観されるようになるからです。
唯物史観は この主観をつねに将来すべきものとして(――だからその優れた理論性はマルクスにおいてこのように――) しかしだから 現在の主観においては つねに――つねに――この主観から切り離された幕屋として(共同観念の幕屋に対してそれを批判する煙幕とも言うべき幕屋として) 理論を大事にしています。そして これを言うことがむしろ 理論的な内容の検討・批判であることなのです。したがって かれらは キリスト史観をわづかに 裏返して着ているとわれわれの側からは捉えられることにほかなりません。
(つづく→2007-08-03 - caguirofie070803)