caguirofie

哲学いろいろ

#78

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第四節a 唯物史観は 至聖所に物質を〔のみ〕置き・見る第一の幕屋である

われわれは 時に われわれが 唯物史観と同じ次元で しかもかれらの理論をしっかり取り上げて これを検討し論じるということによって 批判を何故なさないのかとの非難の声をいくらかは聞いております。たしかに かれらの理論(もしくは観想と呼ぶべきところ)はこれを取り上げていますが この非難には一理もあります。ただ この声に対してけりをつけるのではなく 唯物史観にもし重大な欠陥があるとするなら この欠陥を憎み〔人間を愛し〕この欠陥にけりをつけることが われわれの欲するところであり これをインタスサノヲイスムとしたのでありました。ここではなお かたくなにこの行き方を踏襲することにします。
唯物史観には そもそも われわれ人間の究極には信じるべき その対象(もしくはそれが主象)に向かって祈るべき かつそこへ向かって歩むことがわれわれの祖国への帰路であるという存在(有りて有る者)が ないのでしょうか。あるいは これはたしかに この動揺きわまりない身体と心とのこの世の生を生きる人間にとっては 将来すべき栄光(共同主観)であるとして しかもこれを将来という未来(非現在)に見ることによって あたかも現在の主観から切り離すようにして 現在する主観においては 言わば悟りきっているというものでしょうか。人間が そのやしろに幕屋を張り 至聖所の奥なる八域に 至高の存在を見祀ることは 将来の栄光から切り離されたわれわれ人間のこの世の悲惨(――悲惨は 虚偽から来る。虚偽は時間的存在から来る。つまり時間的存在のあの行為能力の三一性は 時間的であるゆえに それらの間に齟齬を生じ 非三一性となりうる――)から起こる弱き人間の呻きにしかすぎないとして だからこのやしろのマツリと信仰は 呻きを幻想的に癒す阿片であるとして 自分たちは 至聖所には何も存在しないのだとし その幕屋は幻想なのだよという裏返しの(批判としての)かれら自身の幕屋を張って この世を生きると言うのでしょうか。かれらも幕屋を張っていないと言うべきでしょうか。
呻きや喘ぎを 明らめようとする幕屋 しかしこれは呻きや喘ぎ求める心(主観)を中断してしまった裏返しの幕屋 だから あえぎ求める(矛盾・疎外を克服する)という心を起こさせる〔あの神から与えられる〕試練の火を 人間から拒絶してのように・したがって当然のごとく至聖所の奥に存在するお方を棄てるようにして 張った煙幕(いわゆる無神論) これは かれら自身やはり人間としてその中間性・弱さ(もしくは強さ)を物語っているのであるまいか。
理論のいくらか精緻なる体系 これはやはり第一の幕屋であり ここから第二の幕屋=至聖所に進んでいかないとするならば もしここに至聖なるお方がいますとすれば それは単なる人間的な尺度によって捉えた人間の弱さに対する強さであり煙幕でしかない。わたしたちは 至聖所の奥なるお方を 顔と顔を合わせてこの世で見祀ることは出来ず かの根拠をそのままには思惟することも語ることも出来ないのですが――だから 弱さを中断して明らめる・強くなるというよりは むしろ弱さを誇るようにして これを信じるというのですが―― 第一の幕屋に煙幕をかけ 弱さを明らめて悟りきったような人間の共同主観社会を実現させようともしないし そのような人間が出現するとも思いません。むしろわたしたちは 律法・理論は第一の幕屋なのであって これはむしろ可変的であって 至聖所の変わらざる真理の光に拠るならば 人間が史観となって これら律法や理論は完成すると言って 新しい人間(その共同主観)を主張し これは 実現に向けて動き出すであろうと見ます。

  • 唯物史観の 理論としての《第一の幕屋》とは たとえば 《人間の本質》を《社会的諸関係の総体》と見ることがそれです。われわれも言わば《人間の本質》=原主観を つまりその内なるやしろとしては 《S者‐A者連関主体》と見て その外なるやしろとしては S圏市民社会なるヤシロ(エクレシア) およびこれとA圏社会科学主体領域なるスーパーヤシロとの連関体制(キュリアコン)であると考えた。しかしこれが 第一の幕屋すなわち理論にしかすぎないことは ここで繰り返すまでもないとすれば 《社会的諸関係の総和 としての人間の本質》も 当然 人間の存在の根拠ではなく 一つの理論的な見取り図であり かれは なおこの第一の幕屋を通過してのように 少なくともその奥の至聖所とよばれるべき生の根源の領域へその内なる眼が向けられているとは言うべきであり そう思われる。
  • しかし 物質がこの至聖所なる第一原因であると主張することは もしこの物質なる概念が形相的な存在でないとするなら なおその主張は 理論すなわち第一の幕屋にとどまっている。なぜなら 質料的な物質とは ただ経験的にも人間の外なる肉眼でも見られうる社会現象の要因にしかすぎないのだから。とすると  唯物史観は 無神論すなわち無《至聖所》論であるということになる。したがって この社会的諸関係の総体の中で 社会階級闘争という現実のいまある主観共同化としてのコミュニスム運動を行なうということは 正しい。ただし この運動をつうじて やがて 無階級社会が実現されると主張することは いまある主観ないし理論つまり第一の幕屋のどこから引き出されて来たものであるのか。
  • かれらも この後者の主張においては 至聖所〔への観想〕を行なったその結果からではないだろうか。それとも 物質の運動が 人間の思惟をしてそのように預言せしめる(人間の思惟にそのまま反映する)と言うのであろうか。もし唯物史観唯物史観にとどまるならば 無階級社会の出現という預言は行なうべきではなかった。あるいはもし 過去の歴史に 原始的なコミュニスム社会が存在して 史観によって 将来のコミュニスム社会が理論づけられるというのなら それは 理論を第一の幕屋にとどまって為したというのではなく たしかに至聖所〔への観想〕をとおしてそう見た結果からではないだろうか。そうでないと言うには 物質なるお方に登場ねがって かれにそのように発現してもらわねばならないのではあるまいか いま・ここで。そのような史観ないし歴史の発展が 経験的にして外なる眼でも見られ これを理性的に確かに把握できるという・つまりそれらの主張はあくまで第一の幕屋にとどまって考察したものだというのであるならば。つまり 経験的な社会的諸関係の総体が 人間の本質であり そのものとして・ないしその中に 人間が生きるというときにも 人間はその内なるやしろにも内なる眼が向けられており かれは言わば至聖所に臨んで 理論から理論を導き出すと確かに言わなければならないのである。すなわち 人間の本質は 第一の幕屋に限定され得ない。

弱さ・中間性が人間の力によって明らめられることと 人間の存在の根拠から派遣された精霊(このように表現すべき。なぜなら それは 理論=第一の幕屋を超えて存在すると信じられるから)の力によってそれが裏打ちされることとは 別のことです。
(つづく→2007-08-02 - caguirofie070802)