caguirofie

哲学いろいろ

#77

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第三節 シントイスム(神道)は この第一の幕屋である

このように見てきたかぎりで ヘブライ人つまりユダヤ人は 日本人と同じであるように思われてなりません。つまりこの《ヘブライ人への手紙》は シントイスト〔・ムライスムおよびナシオナリスムを 見えざる律法である共同観念において信奉するそのような日常生活の様式を持つところの〕つまりわれわれ日本人にあてて書かれたものでさえあるように思われます。いづれも律法の民であることにおいて ユダヤ人は明示的に(顕教として) 日本人は暗示的に(密教として) それぞれ神の民としてあるようにされ思われてなりません。
日本人にとってともあれ無意識のうちにも共同観念現実の中に《古事記》〔の一つの内省=行為の様式〕が見えざる規範・律法であるとするなら 現代から見て これら最初の契約が 本物の・即ち神の律法の模型であるにすぎないということが あのヒロシマナガサキあるいはアウシュヴィッツをとおして 示されたとしか思えません。これは たしかに歴史観を校正するものでさえあると思えて来ます。が ここではこの点にかんしては このような印象を述べるにとどめます。というよりも それ以上の感懐はあまりありません。それ以上のことを観想できるものでもないと考えられます。
ともあれここでは 《わたしがイスラエルの家と / 新しい契約を結ぶ時期が来る。 / それは わたしがかれらの先祖の手を取って / エジプトの地から導き出した日に / かれらと結んだ契約のようなものではない》と言われる新しい契約が 史観の原理そのものである人間キリストという生きた律法の道としてわれわれに与えられた・いまも与えられていると言おうとすることが それであり またここから この史観を理論してゆこうとしている。
ともかく 時の充満が訪れることによって遣わされたその御子の派遣は 天使たち(すなわち たとえばキャピタリスム原理 すなわちさらにプロテスタント神学)を満たすためではなく また天使であるためでもなく ただご自身のものでもあった父の御心を告知するためであった。ここに生きた律法 生きた史観(すなわちかれが存在することじたいが 知恵であり力であるという存在)があると考えます。この御子はまた 人間たちと共に あるいは人間たちの中に在るためではなく――これは先に父祖たちや預言者たちにおいて生起した―― 御言ご自身が肉と成る すなわち 人間と成るために派遣されたのであり われわれは この道に従って 神から人間の中へ到来し 人間に近づくならば 律法という最初の契約(――しかしそれは 本物の模型であるにすぎない――)に代えて この律法を成就する生きた律法たる史観を この身体ごと 与えられこれを受け取る用意があるということになるでしょう。
ともかく かれが人間と共にあるように遣わされることと かれ自身が人間であるように遣わされることとは別である(――これは 理論です――)と考えなければなりません。第一の幕屋において 日々 年々 共同自治の遂行とその方式の新しい模索を行なうことは この律法の範型においてむしろ罪が自覚される(反省的意識を獲得する・いわゆる自己否定を行なおうとする)というだけにすぎないこととなります。この幕屋は その奥なる至聖所の入り口たる史観(生)によって生まれ その史観は 人間の先駆者として至聖所に入ってゆかれ すべてのものの初めとなられた人間キリストにしたがい かれを生きることによって われわれが与えられるものであるのです。
これは 逆の推理によって述べたものですが 神の御心はここに在って このように示されたのだと思います。ところが 神はわれわれの第一原因・創造者です。誰も その両親を真の創造者であるとは言わないとすれば あるいはまた かれを構成する土くれ(物質)を それだけでは真の第一原因であるとは見ないとすれば この人間が その存在の根拠・第一原因に 寄りすがることは きわめて理の当然であり事の必然であることなのです。理の当然だというのは 神は生命の真理であるからです。事の必然だというのは 肉に造られた神の御子・人間イエス・キリストが この第一原因たる至聖所に しもべの貌としては涙を流しながらも 神の貌としてはみづから欲しられて入ってゆかれたからです。
《わたしは道であり 真理であり 生命である》と明示的に言葉されたことは シントイスムの密教的な知解と愛によっても それが神の御心を告知する生きた史観であることは 容易に了解されることでなければなりません。人間が死んで・あるいは生きたまま この世の朽ちるべき共同観念現実を通過する力を得たとするならば かれは神々のひとりとなるというのは 通俗的ながら シントイスムの神学であるからにほかなりません。しかしこれも 第一の幕屋のうちにとどまった理論であると言わざるを得ません。第二の幕屋すなわちやしろの奥なる至聖所にいますお方 しかもその御子のペルソナは人間と造られ人間としてこの至聖所に入ってゆかれ 神々のひとりと成るのではなく 道の模範・神の御心を示されたのです。神々の神学 律法としてのシントイスムは この模範の模型であります。なお経験的なものごと(第一の幕屋)を超えてはいないからです。また この第一の幕屋を超えるということは 天使たち(神々となった先祖たち)を満たすということのためにあるのでもなく 同じく天使たちに成るためでもなく みづからが 至聖所なるお方の御心を示す人となるためにあるのです。《その人》の道を これに固着して歩むということのためにあるのです。われわれは シントイスムという第一の契約を棄てるべきです。棄ててこれを成就するのです。これが われわれの史観であり 理論だと考えます。
(つづく→2007-08-01 - caguirofie070801)