caguirofie

哲学いろいろ

#96

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第一章 人間という種が変わる

第四節 日本人にとって 律法とは何か(2)

ムライスムなる律法またその違反が 罪の自覚をではなく むしろ恥ぢを知ることをももたらすと言われる場合――これは 大いに ありうる―― わたしたちは次のように考える。
一面では この罪と恥ぢとはおおいに異なるものであるろ。そしてもう一面では 人間存在の構造 またはその行為関係すなわち社会(キュリアコン)の構造に照らして 《恥ぢの自覚を ムライスムなる共同和が もたらす》というとき その概念は異なるが 《律法が罪の自覚をもたらす》場合と 全く同じものであるのだと。
律法を 共同観念〔現実となってしまったシントイスムなる宗教(無宗教だと宣言する宗教)〕と同じものと解すれば 後者の認識が 得られ また逆に 《恥ぢ(踏み絵を踏まざる異端 / ムラハチブの恥ぢ知らず という恥ぢ)》を 単なる共同観念上の罪(たとえば その行為の実質的な異議を問題とすることなく 個人プレーといったことが それじたい罪ないし恥ぢとされるような)にしか過ぎないものと考えるなら 前者の認識――この限りでムライスムは律法とは異質であるという認識――さえ 可能になるのだと。
日本的な律法は ムライスムにあるというとき このムライスムは まづはじめに現象現実の実体(生活日常)であり これを言葉によって捉えようとするなら いま大雑把に言って シントイスム〔の内省=行為の〕形式であるとし このばあい シントイスムには 原理(究極の原理は必ずしも含まないが ゆるい意味で 原理)として共同主観が宿りこれが見出されるという一面と そうではなく ただ現象現実的に つきあい主義・甘えといった情感(ないし幻想)共同的な意味での共同観念〔の過程〕としての一面とが それぞれ同じ程度にも 含まれているとまづ考えられるのである。しかも このシントイスムの二つの面 共同主観としてのそれも共同観念としてもそれも 同じように 日本人としての《常識》であると考えられていることによるのである。言いかえると 西欧風の・殊に明示的な神学・哲学・思想・科学などにかんして これが それとして共同主観であると考えられる場合には シントイスムの中の共同主観および共同観念からさらに別の場所(頭の中)において 特殊別様に捉えられるのが一般であるということだ。
わたしたちはここで 西欧風の共同主観とシントイスムの共同主観とが 互いに異なったものであるとは思っていないが またそのように言うためのものではさらさらないが(――つまり それらは 言わば顕教密教との違いにしか過ぎないとさえ思うのだが――) 問題は このシントイスムにも存在する一般に共同主観(それは 倫理を含む)が それの違反としての主観脱落といったようなことが 罪と捉えられるか恥ぢと捉えられるかにあると考えられる。したがって 共同観念〔現実〕に対する違反〔といえば違反〕は 逆に言って 恥ぢではあっても 必ずしも共同主観的な罪とは規定され得ないであろう。(それらは 善でも悪でもなく ブッディスムに言う《無記》または どうでもよいことがらであろう)。このように考えるならば 逆に言って まづ 《律法の言葉(ないしその情況・場の働き)は 罪の自覚をもたらす》というとき この《罪の自覚》とは 共同主観的な意味での言う《恥ぢの自覚》に等しいものであるだろう。またこのとき 《ムライスムの情況・場の潜む見えざる律法は 恥ぢの自覚をもたらすに過ぎないものである》とは 正当にも言いうるのである。
《恥ぢの自覚者 一般にアマテラス者》が どこかで恥ぢをかき捨てていないとは誰も思っていないのであり この意味でのムライスム律法の遵守は 罪の自覚をもたら〔すに過ぎないのであり そう〕してますます人間的な尺度で人間的となることを可能にしつつ 同時に 誰もそのことによって義しい人とは見なされないということになる。実際 ますます二元的となるとき ますます義に飢え渇く者になることも 必然のように思われる。だから シントイスムつまり共同観念のほうのそれの視点から見て アマテラス範型の象徴・その像とされるとは 《神々》のうちの一人の《かみ》と考えられることであるが このとき このかみが さらに祀られるとするなら 通俗的に言って そのかみの力がわれにも与えられたいと祈るといったようなことが反面であることは措くとしても 一般に この祀り祈る人は むしろ共同観念現実の彼岸にある共同主観原理を見祀ろうとしているのである。そしてシントイスムが 共同主観を宿すというのは この謂いである。
実際 このひとりのシントイストの〔やしろの前に立った〕観想は 罪とその自覚または 恥ぢないし恥ぢ知らず〔といった自己の存在〕を 根源的に癒す究極の原理を 問い求め 何とかして見祀ろうとしているにほかならない。これは シントイスムないしムライスムの律法を超えた存在・だからわれわれ人間の存在の根拠なるお方に臨もうとしていることにほかならない。
誰も ムライスム律法の遵守によっては 義しい人とされない。また むしろこの律法の遵守は これを断ち切ってでも もっぱらのアマテラス者(殊に経営者・政治家)として ムライスムなる共同観念現実の全体を統治する力をそのまま自己の存在とするかのような人を 義しい人とはしないのであり――このような《大物》を自己の存在の根拠とするような生き方には たといそうしていても つねに虚偽があることは かれ自身 知ってのことであり むしろこの悪魔の支配している地上の国においては この虚偽が空中のではあっても楼閣のように大きく見え なお虚偽と知りつつも むしろそれが虚偽であるからこそ 人はこれに従うという罪ないしほんとうの恥ぢがあること これをも誰もが知っておることであり―― むしろ正当にも(人間の知恵によって正当にも 人が義しい人とされるのは そのような生を送ることができるのは 神々を超えた神の(天性の)恩恵なる力によるということ(だから 権威には従うべきである) これも シントイスムのいかなる教義にもかかわることなしにさえ 日本人は先刻 承知していることなのである。
それでは 何が言えるか。
このような神の恩恵に対するあきらめであるのか。あるいは 時々――つまり ある時には忘却しており ある時は思い出したように想起しようとするように―― やしろの奥なる真理なるお方に参詣することが シントイストとしてもの共同主観者の進むべき道なのであるか。
虚偽を内的に棄てること この一点ではないだろうか。外的な虚偽が なお身の回りにまとわりつくではないか ではなく 虚偽をすべて棄てる(すでに現在するものとして自己を獲得する) しんきろうはしんきろうとして外的に返す このことによって この心の回転によって 人はこの生において神の前で義しい人(自由)とはされなくとも その故国に帰る旅路を歩むがごとく この地上で虚偽の中にあっても 義しい人とされるのではないか。心の転回は 或る現実過程ではあるが この義の力は 誰も自己を知らなかった・また愛さなかったことがないと知るように すでに人びとは受け取っているものではないのか。すでに受け取ったなら なお受け取っていない・または もっとちょうだいと言うように 自己を誇るべきではないと言ったのは 外交官パウロであり かれは これをキリスト史観において 聖霊なる神の力であると伝えた。
すべてのもののはじめとなられた人間キリスト・イエスが 父なる神とともに 人間に――天使にではなく人間に――派遣される聖霊の力ではないのか。このからだに この聖霊は宿ると告知され これを観想し 行為する力をわれわれは与えられたと言われる。なぜなら このような秘儀も すでに人は知っているからである。知(領)っていることが 行為の方向・力を伴なわないわけではなく 言いかえると むしろ行為の方向(こころの伸び・信仰)を〔とおして〕観想したがゆえに 知ったというのではないか。だから 力を伴なわないわけではなく 力を伴なうなら それはすでに空中の(空想の)権能であるアマテラス語とはその限りで無縁な 人間現実的なスサノヲ語ではないのか。これが 聖霊のはたらきではないのか。人間は 親から産み落とされた存在であり なおかつ この神によって生まれた存在ではないだろうか。
それ以外の共同観念(ナシオン)の神話が 言葉ではキリスト史観と別様のことを語っていたとしても この原理を指し示していない(またはこの原理によって支えられていない)とは言えないのではないか。また そこに共同観念現実が広く行なわれ ここに律法が築かれたとしても このアマテラス語は この言葉によって罪の自覚がもたらされ 人はますます人間的となり しかもその反面で アマテラス語の虚偽を自覚するなら むしろこのアマテラス語においてではなく これを通して 共同主観の原理の観想をなすというのは 不都合ではないと言わざるを得ない。これ ほかならぬ神の国の歴史 すなわち人間の歴史ではないのか。
人間の歴史が――単なる歴史ではなく 人間の歴史が―― 一般に神話とともに始まっているのは 神話(普通名詞としてこれを shintoïsmeと呼ぼう)の中に 明示的であれ黙示的であれ 共同主観と共同観念とが同時に含まれており これら両者の関係としては 共同主観が共同観念をおおきくは導くというかたちの中にあり――ただし一時代(つまり一定の共同主観の生起・成熟・衰退の一時代)の中では むしろ共同観念〔となった共同主観〕は 不動の強力たる現実であると見えようとも―― 共同主観の変遷する歴史は 神の国(つまり 現実の現実)の言葉に裏打ちされた人間の歴史(動物は 歴史を有さない)であり―― これを見ない歴史観は たとえばわが国文部省アマテラス語史観は やしろの奥に至聖所をもはや見ることなく その前なる神殿をのみ豪華に飾ろうとする また 自国の神殿をのみそうしようとする―― しかも人は 一定の有限なる存在として 共同主観の変遷史を捉えることによって共同観念の虚偽を内的に棄て そのささやかな各主観の内において 神の国の住人であるという〔将来の〕栄光を かれの身体に聖霊の宿るとともに 見まつりそれを自己の力として生きているということにある。
《キリスト史観‐シントイスム》連関(神神習合)とは このことであり またもし シントイスムが普通名詞であるなら 各共同観念(民族)のうちに この連関は 類型的に同趣の構造として 生きていると言わざるを得ないであろう。この連関形態は 人間的な論法で捉えたものであるが したがってなおこれを鏡として その鏡をとおして 謎において 神の国の栄光(自己還帰 私的所有制の揚棄)は 自己の〔将来の〕姿そのものであると 問い求めつつ見出してゆかねばならない。またこの大きなものは 小さなものの内に見出され行為されてこそ 史観であると言える。神の国がではなく 神の国の栄光が 自己還帰の姿でるというのは それを 人間が日から日へ変えられてのように 神がなしたまうからである。原理的には つまり人と人のあいだ〔の会話〕においてではなく原理的には これを言っていなくてはならない。これを キリスト史観と言うのは われわれの信仰であり 人は現代そして未来において すでにまったき信教の自由のもとに置かれているのである。(だから この書物の外においては キリストの名は 必要のない限り持ち出されることはない。つまりその意味で たしかに神は死んでいる。人は 日本においては キリスト教は根付かなかったとは言えないであろう。また一般に宗教としてのキリスト教は根付かなかったことじたい 日本社会の律法(その時代)の現実を証している。
(つづく→2007-08-20 - caguirofie070820)