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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第三部 キリスト史観
第一章 人間という種が変わる
第五節 間奏――《自己を知ること》と自己を思うこととは別である――
わたしたちはここで キリスト史観を キリスト教という宗教として論じているのではない。これは いまでは 当たり前だが 信仰の勧めでさえ もはやないと言わねばならない。というのは この信仰の有無を表明するまでもなく たとえあの心の回転がまだなされていなかったとしても その力(そしてむしろ 共同観念現実の変貌としての 逆からの その力への要請)はすでにわれわれのもとにある。われわれの言葉では 聖霊が与えられている。こう言おうとするにすぎない。また この回転には 洗礼などの儀式を何ら必要としないであろう。
われわれがここで説くことは 史観が 生きた史観が それはわれわれの内的な神の国の歴史の中にこそある このことだけである。
これは 次のように言える。すなわち 《自己を知っていることと 自己を思うこととは 別である》。言いかえると 《自己をまだ知らないということと 自己を思わないということとは 別である》。自己をまだ知らなかったとしても 自己を――そしてそこに聖霊の宿れることを――思っているスサノヲ者は存在するということ。逆に 自己を知っていても――それは殊に アマテラス概念によって知っているとしても―― かれがその自己を その存在の根拠によって・その根拠なるお方を観想しつつ 思うことから遠く離れていることはありうる これである。われわれは このことによって やっぱり信仰を促しているではないかと思われるとしても 心に真理を語るなら このように価値自由的に 人間の存在とその歴史性の深淵に迫っていかねばならない。
それは 律法に生きていたすべての人の口がふさがれて 神の国の到来を待ち望んでいるためだとは 正当にも言えると思うが しかしそれは 自己の内にわれわれの虚偽を棄て〔て帰郷の旅を送ろうとす〕るがためである。われわれの心の伸び(信仰)は これを止めない。またこのことは いま考察することがらが アマテラス語による倫理規範ではないこと(――そうだとすれば そのような言葉で ただ自己を知ったと思えばよい――)を明かすためである。
この節では ふたたび言葉のあそびによって これを為したい。いまではアマテラス語〔の抽象的な規範・概念となった言葉〕も それらは実は その起源において 質料にかんする事柄を捉えたむしろスサノヲ語に由来するものであること これを示すことによって 先の《自己を〔アマテラス語によって》知ることと 自己を〔アマテラス語をとおしてスサノヲ語において〕思うこととは 別である》ことを証明したいと思う。
され アマテラス語(たとえば 《ただしさ》)がスサノヲ語から出たものであるということは まづ 当然のごとく 経験的なものごとからそれが抽象されたことを意味し しかもその抽象・普遍的な概念は それじたいにおいて。またそれを知解する精神において 自己を知るごとく 保持されるというのではなく それ(アマテラス語・知解・精神)をとおして 実は スサノヲ語(主観)が理解され まさしくそのことにおいて〔と正当にも言いうるように〕 存在の根拠(《アマテラス‐スサノヲ》連関の根拠)すなわち神が観想され この主観形成における観想は その行為(精神・知解・愛の全体)と理性的な結婚が為さしめられうるであろうということ このことを問い求める。
たとえば 《ユーモア》といった言葉――これは アマテラス語であるとは限らないが―― この言葉が 《体液》といった質料を指し示すことから出たものであることは よく指摘されることである。それ以前に 《湿気》などといった意味の語であったとしても 血液や粘液や胆汁などの体液の具合いによって 人びとが ユーモアのある・あるいは ない状態にあると考えられたというようにである。
- 血液( sanguis = blood )が多いと 《快活 sanguine 》と考えられ 粘液( phlegm )が多いから 《無気力 ・沈着 phlegmatic 》であり 胆汁( choler )が多いと 《怒りっぽい choleric 》 そして 黒胆汁( melancholy )が多いと 《ゆううつ melancholic 》になると考えられた等々。
そしてここで 《ただしさ》の語を取り上げるとすれば これも 《まっすぐ・直線的である》という可感的・質料的なものごとの把握にかんして用いられた語義に発するということである。
され この語源学的な詳細はいま つまびらかにしないが――だから 或る種の遊びであるが―― このように或る抽象・普遍的な語と思われたアマテラス語も そこに 歴史的に(それは 人間の歴史的にである。だから 現在する主観形成的と言える) 或る種の《アマテラス‐スサノヲ》連関がかたち作られていることを見出すのであり しかも問題は この語・《ただしさ》を 一つに 恣意的にわたしにのっとってのスサノヲ語において捉えるべきではないことはもちろん もう一つに 単に抽象的・象徴的なアマテラス概念による把握で事足れりとする考え方も 当然のことながら しりぞけられるべきであるということ。
したがって もしこの語《正しさ》について ただ規範的な概念において捉えないとするなら この語とその意味表示する概念をとおして 正しく神を見祀らねばならないというのは 人間の歴史的なのである。それは先走った言い方だが 次のことを意味するであろう。すなわち 一方で このアマテラス語に スサノヲ語の契機を排除してはならないということ。他方で スサノヲ語の契機は ふたたびアマテラス語に帰るがごとく しかしこれを通って精神をとおして 生きた言葉としてつかまねばならない これである。(これは 行為の前において 観想の中で 瞬間的なそのような往復運動でもあるだろう)。この理性(アマテラス語)的動物(スサノヲ語の基体)の言葉 すなわち人間の言葉に到達することは 神の言葉の分有を現わすと信じられるゆえである。アウグスティヌスの言葉を引こう。
それでは 外なる人(スサノヲ語)と内なる人(スサノヲ‐アマテラス連関)のいわば境界はどこにあるのか 見ようではないか。私たちが精神( animus )において動物と共通に所有しているものはみなまだ外なる人に属するといわれるのは正しい。なぜなら 外なる人とはただ身体だけであると考えてはならず 身体の組織や外的事物を知覚するための器官であるすべての感覚を生気づける或る生命もそこに付加されなければならないからである。
つまり 記憶の中に固着され想起によって回想される知覚された物体の似像もまだ 外なる人に属しているのである。これらのすべての点で 私たちは身体の姿勢によって大地に傾斜せず 《真直ぐ》に立っているのでなければ 動物から隔たっていない。このゆえに 私たちは私たちを創造されたお方から より優れた部分すなわち精神において 身体の直立性によって隔たっている動物に似ないように勧められるのである。
私たちは物体のなかで高みにあるものに精神を委せてはならない。なぜなら このようなものに意志の休息を求めることは精神を大地に投げおろすことであるから。しかし身体が本性的に物体の中で高みにあるもの すなわち 天的な物体の方へ真直ぐに向けられているように 霊的な実体である精神は 霊的な領域で高みにあるものへ 高ぶりの昂揚によってではなく 義の敬虔によって向けられなければならない。
(アウグスティヌス:三位一体論 12・1)
ここで 《真直ぐ》《義の敬虔》というとき それは アマテラス語であってしかもアマテラス概念が止揚された《ただしさ》の語を言うのでなければならないのである。またそのためには アマテラス語(律法)性を通過することも然ることながら スサノヲ語(たとえば《身体の直立性》)においても 留意されなければならないとわたしたちは考える。そして《自己を思うこと》はむしろ 後者にも同等に重い比重がかかると思われることである。以上は 一種の遊びとして語った。
(つづく)