caguirofie

哲学いろいろ

#136

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第一節a ふたたび 《新しいエルサレム

エルサレムのために平安を祈れ。
   《エルサレムを愛する者は栄え
   その城壁のうちに平安があり
   もろもろの殿のうちに安全があるように》
と。


Demandez la paix pour Jérusalem !――
   《 Que soit tranquilles, ceux qui t'aiment,
   que la paix soit dans tes murs.
   la tranquilité dans tes donjons !》


(《詩編》 122:6−7)

旧約聖書のこのうたが 

八雲立つ出雲八重垣 
妻籠みに八重垣つくる 
その八重垣を

をうたっていると思います。またそこで インタムライスム=インタキャピタリスムのやしろ形態は インタ《イヅモ・コムミューヌ》デモクラシとも名づけて これを捉えたいと思うことです。
これに至るまでには 前章最終節に取り上げたヨハネへの黙示の 先行する諸章が示すように 《大淫婦すなわちバビロンの都が 裁かれ これの滅亡を見 さらに 小羊すなわちキリストの婚礼の祝宴が催され 〔あたかもキリストの再臨の以前であるという矛盾を許容するかのように〕 白馬の騎手(キリスト)の出現があり さらにまた〔ここで時代が逆戻りするかのように〕千年王国〔という中世の時代類型〕そうして サタンの敗北と 大きな白い玉座の裁きが それぞれ続いて行なわれるという過程》が その背景となっています。
あるいはさらに 《黙示録》の中では これらにも先行するという順序において示されることは 《龍(商品) / 獣(貨幣物神) / 獣の角(つの)(商品所持者としての王)》ならびに これらの場である《大淫婦=大いなる都バビロン》の問題 つまりそのようなやしろの歴史過程 すなわち あたかも人間の理論の時代において あのマルクスが これらを解読して証しするかのように 政治経済学の研究として明らかにしようとした事柄 その分野 の問題であったものでした。

  • 《資本 Das Kapital 》は 《商品》の分析から始めている。
  • 《龍》は サタンつまりあの空中の権能ですが ここで 自己のスサノヲ語の言葉ないしその生産物を アマテラス語の言葉とする もしくは アマテラス概念によって――その抽象普遍概念 たとえば 時間=労働行為価値の論理的・幾何学的な等しさ によって―― 流通しあわれるべき《商品》とすると 経済学的に 考えられている。政治学(意思・愛)的には 自己そのものを もっぱらのアマテラス語話者とするそのことです。これによって 自己のスサノヲ者性を 空気のような身体とするのです。労働の二重性 言葉つまり《スサノヲ人間語-アマテラス抽象語》連関なる言葉の内部逆立して統一される二重性 または付け加えるまでもなく やしろ内部の両圏の逆立連関体制 これらが あたかも《魔術を使う者 偽り(あの虚偽 つまり ますます人間的となるということの虚偽)を好み また行なう者等々》というようにして 《政治経済学》的に 一つの現実となるのです。さらにかれらは 自己がそこを棲み処とするA圏もしくはその幻想象徴形態としての国家を支えとしてのように 国家には 罪の共同自治として 悪がつきものであると言ってのように 或る犠牲を強いる つまり 《人を殺す者》ともなるのです。
  • かれらは 公民アマテラス者として ますます人間的となり 偽って自己を高めたところでまた内実は《みだらな行ないをする者》ともなる つまりアマテラス概念によって人間的となってところで 人間の言葉には到達せず むしろ落とされて 動物に似る者とされるのです。あの第一の死を引き受け(これは あたかも誰もが直面する) これに死んでもなお自己を失わないと知ってのように アマテラス概念主導といったかたちにおいて偽ってアマアガリし 上げられたところで すでに《S者‐A者》連関なる主体の精神が弛緩してしまっていることによって 偽りのアマアガリのまま 下に落とされるのです。
  • われわれは このアマテラス者の権威にたてつくのではなく スサノヲ者の真のアマアガリの道を問い求める場をおしえてあげなければならない。かれらの病いが かれらがこの道をふたたび見出してのように 癒やされることによって そのような愛の勝利によって 死〔の制作者〕も滅ぼされてのように 史観が進んでゆくのです。もっとも このように言うのは むろん倫理的にではなく 《その人に起こっていることがらは 神とその人の精神の内なる霊にしか知られていない》と言ってのように 史観の観想を述べるにすぎません。また このような史観の進展は 具体的に 商品の体系 社会制度〔の変革〕をとおして為されてゆくのです。しかしわれわれは その主体をつくらねばならない。そのような主体へとわれわれが変えられねばならない。この点をここでは史観しているのでした。

これらすべての過程を経て 新しいエルサレム(インタムライスム)の時代へと移行すると見るというわけでした。また ここでは 未来のやしろの像を あたかもコミュニスム社会の形態として描くというのではなく――マルクスはそう言っていないが あたかもそう解されてのように 一つの共同主観となったかたち としてではなく―― あくまで内なる主観の問題として むしろおとぎ話にも近いかたちの表現において これをとおして コミュニスムもしくはインタ《イヅモ・コムミューヌ》デモクラシもしくは《新しいエルサレム》を いま――この今――観想〔しつつ現実に行為〕するということを 問い求めてきたのでした。

  • もしマルクスとキリスト史観に違いがあるとするならそれは 基本的なかたちでは すでに第二部において見た唯遺物史観という史観の問題 すなわち 断定して言ってしまうなら 《人間の理論(知解行為)は 史観(《知解‐愛‐記憶》の全体過程的)〔の原理〕に従属するということ――それは 目に見えてではないであろう――》 そこにちがいはあると重ねて見ておきたいと思います。
  • マルクスが 史観の原理を見ていたかどうかは 〔神と〕かれの霊のみ知ることであり そしてもしかれが われわれの言うキリスト史観に立っていたとするなら そのように見る人たちは 自己の〔霊と〕史観において これを明かさねばならない。要するに マルクスないし死者が復活するというのは この謂いであったのですから。このことは たといキリスト者でなくとも 知者・思想家はよく明らかにするかも知れない。するであろう。
  • ただ わたしたちは その原理的な観想は その前提的な史観の理論は キリスト史観がもっともよくこれを明らかにするであろうと言った。しかしこれらのことは 譲歩して言っても 来たるべき時代は 人びとの共同主観つまり常識となるであろうと言った。つまりそのことは すでに今 新しい常識となっているであろうと われわれは言おうとしている。


そこで この新しいわれわれの第六章では 新しいエルサレムを その〔やしろ〕像としてではなく もちろん内なる史観の問題として(――なぜなら 前章に取り上げた国家の問題は 現実であって現実でない つまり あくまで内なる史観の自己形成の過程におけるそれが直面する具体的な問題 むしろ史観が通過すべき問題にしかすぎないと見たからです――) だから この今の史観の視点において さらに問い求めていきたいと思う場が ここです。
インタムライスム=インタキャピタリスムは すでに 各主観すなわちインタスサノヲイストの中に 始まっている これだと思われるから。(本を書くということは ひとつにそういうことだと思われます)。またそれは あの第一の死を経てもう一度 生まれるという《むしろ死の中にある時間的存在の生》の問題 これを――前章において通過したというごとく――通過しての 神の似像のここでの課題とするところでありました。こう言い切ってよいと思われることです。
そこでわたしたちは ふたたびなおも死の問題を扱うというようにして――なぜなら 《日々 死んでいる》なら 《日々 よみがえっている》のであり 第一の死からの第一の復活だけではなく この生における第二・第三・・・の復活を扱わなければならないと言うようにして―― もう一度 アウグスティヌスに戻って 新たに《神の国について》の第十三巻のつづきを考察してゆきたいとかんがえます。

  • このようなことは もちろん現実の実践と並行的でなければなりません。ここでは 第一部から始めて着手したこの《キリスト史観》について 現在の地点で言いうるところのものを およそ言いうるという限りで あらかじめと言うように 考察することにします。わたしは 神学者でも歴史学者でもないので アウグスティヌスの所論を 現代の視点に立って解釈することはあっても それ以上のことを何か言うことはできません。したがってこれは 必ずしも 未来の先取りではないでしょう。

さて 《第九章》で 《死につつある(死の中にある)とはどういう意味で言われたか》をすでに見たとするならば 《第十章》から入ることになります。
《死ぬべき人間(時間的存在)の生は 生というよりも死と呼ばれる》が その表題であると考えられています。《あたかも死と呼ばれるがゆえに 生と呼ばれる生である》と再反転させるかのように。いづれにしても まづ時間的存在であるということ そのような神の似像であるということ。そこで これについて

生の除去である死が人の中に働き始めて その時より人は死に始める すなわち死の中にあり始めるとすれば――死は生の除去と共に終わるので 人はそのとき死の中にある(死につつある)のではなく すでに死の後にある(死んでいる)のである―― 人はみな 身体の中に存在し始めて以来 死の中にあることになる。

  • すなわち第一の死を死ぬ=罪を犯す者として 存在することになる。

実際 毎日 毎時間 毎分が過ぎて ついてそれらが尽きることが死なのではないだろうか。・・・したがって 人は同時に生と死の中にあることはできないとすれば 生きているよりはむしろ死につつあるこの身体の中に入ったとき以来 生の中にあるのではない。それとも 人は同時に生と死の中にあるだろうか。・・・
神の国について 13・10)

これによって 新しいエルサレムの到来する時間 新しいアダムの時代を考えてみたい。
しかしわたしたちは すでに第一の死 霊魂から身体が分離される〔のを霊魂が引き受けるという〕身体の死を経験してき〔と見〕ました。ならば すなわち すでに死んだのなら(それはしかし 死の一部である。もっとも 死を死ぬときに 人は部分的に死んだということではない) そこでいづれにせよ すでに死んだのなら(しかし 《わが神 わが神 なにゆえ我れを捨てたまうたか》) 人は 創造者の約束と裁きとによって 永遠の生に至るか第二の死に至るかを問わず もう一度 生まれるしか もはや ない。一般に 永遠のいのちを基本とするなら これは スサノヲ者のよみがえりのことにほかならない。

  • よみの国 死者の国 または 《昼と夜との一組の国》から その暗いかたちを明るいかたちに変え〔られ〕て 《朝から次の朝への国》に帰ってくることでなければならない。

人は 第一の死を死ぬとき(――人は はからずも・心ならずも 共同観念の倫理的な現実に屈服し 霊魂からの身体の分離を引き受けざるを得なかったそのとき――) もちろんS者としても死ぬわけであるが(――つまり くどいようだが 人を生かすべき倫理的なA語規範が この死の仲介者となってのように S者としても死ぬわけであるが――) もしいま 《律法に対しては律法によって死んだ》と史観を反転させてのように主観を取るならば それは 《空気のような身体をもってひとり分離して生きるかのごときA者がむしろ 死に至らしめられた》のである。したがって 同じくこのスサノヲ者が復活するということは S者としてもそして A者としてもこのA者がS者の中にこそ確かに善く生きるといってのように 復活することにほかならない。たしかにわれわれは 〔主観の・こころの〕向きが変えられるのである。だから 十字架上のあの言葉が すぐれて生への仲介者なのであると語られたことになる。
われわれは このように しかも日々 死んでいるのであり 日々 よみがえっているのです。
(つづく→caguirofie070929)