caguirofie

哲学いろいろ

#137

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第一節b ふたたび 《新しいエルサレム

われわれは このように しかも日々 死んでいるのであり 日々 よみがえっているのです。《だから 明日のことは明日 悩めばよいのだ》(マタイ6:34)は ここで聞かれます。また それが 新しい《一日》の構成ということになります。これは 史観を その場主義に変えることではなく また 善い意味での《その日暮らし》であってよいのです。
栄光(前史)から栄光(本史)へは 日から日へわれわれ自身が変えられてゆくことなのであり この新しい《一日》の生活主義に立つからこそ その史観はむろん 長期的にも つまり歴史への観想と行為ととして 或る種の計画としてその意志を持ちうるのです。しかしながらこれは 知解・経済行為の計画または展望・予測そしてそれらからの再知解(再生産)的な経済活動の拡大に還元されることなく それらを含んだ愛(自治・経営・政治)の歴史理論なのであり キャピタリスムやデモクラシが人間の有として用いられるというときには このキャピタリスム知解行為の原則が 愛(主観)の顔蔽いとなっていないということを 意味表示します。もしこれを理想論であると言うとしても この理想論はいま説かれてしかるべきだと考えられるでしょう。なぜならすでに スサノヲ者は 史観の現実として よみがえっている。しかも歴史的に ヨーロッパ古典古代のスサノヲ者が あのルネサンスにおいてよみがえったのだとしたなら このルネサンスつまり再生が 歴史的に可能でないとは言えません。
しかし 中世封建市民からの近代市民へのルネサンス〔および キャピタリスムの生起・展開〕は その悪い一面をのみ取り出すとするならそれは 《ふたたび空中の権能者たる悪魔を鎖から解き放って ゴグやマゴグなどと呼ばれる市民もしくは公民を アマテラス語理論によって 呼び集めるため》でもあった。ならこの一面にかんするかぎり この否定(スサノヲ者の第一の死)を否定するところのルネサンスは そのように経験的にも 現実となるであろうことは 一つの必然であるように思われる。しかし このように言うのも すでにことわったように 史観をこのように長期的な視点にとらなくとも また 必ずしも未来展望〔的な理想論〕としてでもなく 愛の史観としてはすでに現在 それぞれの《一日》において 起こっているのではないか。つまり 世の中の現実がそう知解されないということと 意思(愛)の現実において起こっていると知解されることとは ちがう。〔また だから 後者の意志を未来の歴史の或る一段階に 実現するであろう(それは 外的に実現するのである。しかしその実現は 実際には主観=S者の現実ではなく 客観・A者の土壌的な現実にしかすぎない)と知解し説く(つまり 一般に唯物史観)の場合ともちがう〕。
したがって これは 史観の核であり キリスト者はこのことを 内なるやしろの声を出してではない声において つねに言っていなければならない。顔と顔を合わせて真理を見まつるのではなく なお信仰において歩む限りは。しかし この弱さが 史観と言うのであろう。アマテラス語客観理論には 生きた史観は見出せなかった。つまりアマテラス語普遍理論に対しては そのA語によってわれわれは死んだのではなかっただろうか。もしこの弱さに 感傷であるとか理想論であるとかの蔽いがかぶさっているとしたなら それはなお 滅び行くA語理論のほうに顔蔽いがかかっているのであると言おう。A語理論なる客観を主観とすることの虚偽から来る主観の損傷 この傷が スサノヲ者のよみがえりに感傷を誘うのであると言おう。だからわたしたちは 心が清められなければならなかったのである。
そこで わたしたちはすでに 第一の死を通過したと言いましたが これが 死の一部ではあっても 部分的な死あるいは その死の試練のときに どうせもう一度 生き返るであろうなどという安易な死ではないことは 承知しておかれるべきことです。

エスは答えた。
――はっきり言っておきたい。誰でも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。〔身体の死という第一の死ののち〕肉から生まれたものは肉にすぎない。霊から生まれるものは霊である。《あなたたちは新たに生まれねばならない》とわたしが言ったからといって 驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても それがどこから来て どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
ヨハネ 3:5−8)

これによって 不敬虔な者の第一の死が もう一度うまれ変わっても 永久に死が死なないという第二の死へのみ至らしめられることは 目に見えて道理にかなうことなのです。《わたしのために生命を失う者は それを得るであろう。生命を得ようとする者は それを失うであろう》 つまり 人間の側から言うならば あるいは人間の側から言うとしても 同時並行的に 人間がこれを意識して 得るのではない。それは あたかも初めの死〔の引き受け〕というしの一部から その全部へ生じさせられるのは 神が〔そのA者を〕死なせたまうと言ってのようにであり 人間の〔意識の〕側からは 《疎外(第一の死)の止揚は 疎外と同じ道をたどってゆく》(マルクス:経済学哲学草稿 3・2)と言ってのようにであるのです。
これが 神の律法〔であって これがとうぜん人間の史観の中に働くというように〕であると考えられる。だから キリストに出会うのは このように事後的な承認の中でというようにして しかも 真理のために神を信じ神を讃えつつ 第一の死を引き受けた人びとに 生起することであると考えられる。

自分の命を保とうとする者は それを失い わたしのために命を失う者は かえってそれを保つのだ。
(マタイ10:39)


自分の命を救いたいと思う者は それを失うが わたしのためまた福音のために命を失う者は それを救うのだ。
(マルコ8:35)


もし誰かがわたしのもとに来るとしても 父 母 子供 兄弟 姉妹 そのうえ自分の命さえもわたしより大切にするなら わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ 誰であれ わたしの弟子ではありえない。
(ルカ 14:26−27)


自分の命を生かそうと努める者は それを失い それを失う者は かえって保つのである。
(ルカ17:30)


自分の命を愛する者は それを失うが この世で自分の命を顧みない人は それを保って永遠の生命に至る。
ヨハネ12:25)

しかし これらすべて 前章で見てきたように むしろ 宣教の直接的な行為からではないようにして 類型的には 国家行為(殊に戦争)によって その死がもたらされる / すでにもたらされたということでもあったわけでした。その意味で各主観の史観(信仰)は やしろ構造的ともなったかのようであったということでした。しかし このことが 第一の復活以後は無関係であると受け取られないために あらためて聞かれるべきかと思うのでした。さらに

祭りの終わりのいちばん大切な日に イエスは立ち上がって大声で言った。
――のどが渇いている人は誰でも わたしのところに来て飲みなさい。聖書に書いてなるとおり わたしを信じる人は その内部から生きた水が川となって流れ出るようになる。
エスは 自分を信じる人びとが受ける聖霊について言ったのである。
ヨハネ7:37−39)


――・・・はっきり言っておきたい。わたしの言葉を聞いて わたしをお遣わしになった方を信じる人は 永遠の生命を受け また 裁かれることなく 死から生命へ移っている。はっきり言っておきたい。死んだ者が《神の子》の声を聞く時が来る。今がその時である。その声を聞いた人は生き返る。・・・善を行なった人は 生命を受けるために復活するが 悪を行なった者は 裁きを受けるために復活する。
ヨハネ5:24−29)

さらに引用を重ねてもよいと思われるように

神は その独り子を与えになるほど この世を愛された。子を信じる人が一人も滅びないで 永遠の生命を受けるためである。神が子をこの世にお遣わしになったのは この世を裁くためではなく 子によってこの世が救われるためである。子を信じる人は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じないからである。光がこの世に来たのに 人びとは その行ないが悪いので

  • 誰もが罪人だ。したがって第一の死が用意されている。しかもこの死は すでに見てきたように やしろの全体からも あるいは同時に その生のむしろ始めに つまづきの石として 用意されている。悪魔が 罪なき人イエスの死をはかり 死に追いやったところで かれの復活を強いたからである。だから歴史的に この第二のアダムの時代が開始され受け継がれてきたのである。この意味で 行ないが悪いので

光よりも闇のほうを好んだ。それが もう裁きになっている。悪を行なう者は誰でも光を憎み その行ないが明るみに出されるのを恐れて 光に近づかないのである。しかし 真理を行なう人は光に近づく。その行いが神に支えられてなされたことが 明らかになるためである。
ヨハネ3:16−21)

そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。
――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇くことがない。しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ているのに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたしをお遣わしになった方の意志を行なうためである。わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えになった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることである。わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからである。
ヨハネ6:34−40)

この少しあと ヨハネはつづけて 《さて 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。〈これは実にひどい話だ。誰が こんな話を聞いていられようか〉うんぬん》(6:60)と記して キリストすなわち神の言葉に誰もつまづかないようにと 語り継ぎます。《イエスは 弟子たちがこのことについて つぶやいているのに気づいて言った。〈お前たちは わたしが語ったことにつまづくのか。それでは もし《人の子》がもといた所に上るのを見るとしたら・・・。生命を与えるのは聖霊である。肉はなんの役にも立たない。わたしがお前たちに話した言葉は霊であり 生命である。・・・》(6:61−63) しかし この《人の子》はすでに挙げられて 聖書だけではなく むしろ全世界がその証言となって あの第二のアダムの時代はすでに始まっています。それどころではなく このキリストの再臨をすでに可感的に理解するというほどに 新しい時間 第三のアダムの時代が始まろうとしています。
そこで この節の表題の《ふたたび 〈新しいエルサレム〉》ですが いくらかの行き違いを残すようにして これは 次節へと受け継ぐこととしたいと思います。
(つづく→caguirofie070930)