caguirofie

哲学いろいろ

#138

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第二節a 八雲立つ出雲八重垣

この節は 前節と同じことですので 表題のごとくしました。
つづいて神的権威(聖書)に拠る前に アウグスティヌスを見てみたいと思います。《神の国について》の第十三巻第十一章 《人は同時に生と死の中にありうるか》です。引用の長くなるのを避けるとするならば 結論的部分は 次のごとくです。

けれども わたしたちの贖い主の恩恵の佑けによって 少なくとも第二の死を変化させる(避ける)ことができる。これは第一の死よりもきびしく あらゆる悪の中でも最大である。これは霊魂と身体の分離によって起こるのではなくて むしろその両者の結合において永遠の罰に至るものである。人はそこでは 第一の死のように 死の前とか死の後ということはなく 常に死の中にある。それゆえ 生きているのでもなく 死んでいるのでもなく 終わることなく死につつあるのである。実際 死の中にある人間にとって 死(終わり)のない死があるということほど大きな禍いはないであろう。
神の国 13・11)

死が死なないという第二の死はこれを直接 論じるというのではなく むしろここでは この《第二の死を少なくとも変化させる(向き変えさせる・避ける)ことができる》という点について 神の佑助を得て 見ることができればと願うことです。ただ これは 第三のアダムとしての神の似像であろうと思われ また 節表題の《新しいエルサレム》の問題ともつながることではあります。
まづわたしは ヨハネによる福音の次の一節を読みたいと思います。

エスはまた言った。
――はっきり言っておきたい。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は 盗人であり 強盗である。しかし 羊はかれらの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る人は救われる。その人は 門を入ったり出たりして牧草を見つける。盗人が来るのは 盗んだり 屠ったり 滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは 羊が生命を受けるため しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく 自分の羊を持たない雇い人は 狼が来るのを見ると 羊を置き去りにして逃げてしまう。――狼は羊を襲い 追い散らす――。かれは雇い人なので 羊のことを気にかけなていないからである。わたしは自分の羊を知っており 羊もわたしを知っている。それは 父がわたしを知っておられ わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには この囲いの中に入っていないほかの羊もいる。その羊は一人の羊飼いに導かれ 一つの群れになる。わたしは再び自分の命を受けるために それを捨てるが そのために 父はわたしを愛してくださる。誰もわたしから 命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てるのだ。わたしは命を捨てることもできるし それを再び受けることもできる。これは わたしが父から受けた掟である。
ヨハネ 10:7−18)

イエス・キリストがここで 《わたしは――自分で――命を捨てることもできるし それを再び受けることもできる。〔これは わたしが父から受けた掟である〕》と言われること これが われわれの第一の死とそしてこれからの復活の原理(その源)であろうと思われます。時間的存在は このような神の言葉(知恵・力)〔のはたらき〕に裏打ちされてのように――ただし 神の言葉(それは 霊だ)じたいを見るというのではない。しかも その働きは 時間過程的にわれわれに可感的に示されるであろう。そこで そのかれに裏打ちされてのように―― 第一の死をわれわれの霊魂は引き受けることができ またそのように行為しており なもこのあと ふたたび生まれるという過程が 与えられるのである。生まれ返ったとき 第二の死を避けることができるのは 神の側からは神の恩恵の佑けによるとともに 人間の側からは 《わたしは門である》と言われるキリストへの信仰によると理解されなければならないでしょう。第一の死を通過したあとに そのことの裏打ちをつうじて知ったお方の声を知って あとについて行く そのことによって できるのです。はじめ或る者(時間的なもの)が永遠に関係されるように 信仰は真理に関係されるということが ここで理解されます。
しかしなお 《われわれ神の似像は 神すなわち人間キリスト・イエスに似る者とされるであろう》と聞かれるとき この言葉《わたしは 自分で 命を捨てることもできるし それを再び受けることもできる》は 人間が 神である良き羊飼いの声に従ってついて行くとき 第一の死と復活を受けて過程するということにおいて 自殺ではとうていなく――第一の死もみづからが自らを迫害し追いやることではない―― あたかも身体の死という第一の死を そのはじめに引き受けることになったというごとく やがて死の全部が生じるという《命を捨てること》は むろん神の言葉に裏打ちされてのように 自己が或る職務を果たしてのように 捨てること〔――そのために死につつあるということ そうして生の全体が キリストとキリストの体であるやしろ(その過程)につながって あたかもその時 永遠の生(自由)を受け取っているということ――〕 このような史観(つまり 各主観に そのかぎりで現実には多様なかたち)が 道として与えられていると考えられるのです。
これは 第二の死を・その向きを変えられるのです。第三のアダムとしての神の似像 そして新しいエルサレムなるやしろの時間である。《罪を犯さないために 死ぬべきである》という そうしてそのように むしろ初めに 第一の死を通過するということ その内実は これらのこととつながっていなくては 無意味である。
こうして 先に前章第六節に見た 《新しいエルサレム》のあとの《キリストの再臨》ともつながって しかもそれは 史観の観想においては あたかも今 このいま その恵みにあづかるというように 現在することと思います。
(つづく→2007-10-01 - caguirofie071001)