caguirofie

哲学いろいろ

#135

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第六節b 《新しいエルサレム

ヨハネへの黙示は やしろの新しい形態を告げるかのように 《新しい天と新しい地》および《新しいエルサレム》という二段の観想を記します。

わたしはまた 新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き もはや海もなくなった。さらにわたしは 聖なる都 新しいエルサレムが 夫(=キリスト)のために着飾った花嫁のように用意を整えて 神のもとを離れ 天から下って来るのを見た。

  • わたしたちはこれを 最初の一つの方向性として インタムライスム=インタキャピタリスムと見ました。

そのとき わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
――見よ 神の住まいが人間のあいだにあって 神が人間とともに住み 人間は神の民(あたかも 第三のアダム)となる。・・・
すると 玉座に坐っておられる方が
――見よ わたしは万物を新しくする。
と言い・・・また わたしに言われた。
――事は成就した。わたしはアルファであり オメガである。初めであり 終わりである。渇いている者には 生命の水の泉から自由に飲ませよう。勝利を得る者は これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり その者はわたしの子となる。しかし おくびょうな者 不信仰な者 忌まわしい者 人を殺す者 みだらな行ないをする者 魔術を使う者 偶像を拝む者 すべてうそを言う者 このような者たちに対する報いは 火と硫黄の燃える池である。それが 第二の死である。
ヨハネへの黙示 21:1−8)

また つづく第二段 《新しいエルサレム》では 《神の栄光に輝く聖なるエルサレム》の様子が 描かれている。(ちなみに この《エルサレム》については われわれは われらが神話のうた すなわち

八雲立つ出雲八重垣
妻籠みに 八重垣つくる
その八重垣を

に当てたいと思っています。つまり 前もって言っておくなら このスサノヲのうたの《八重垣(そこで 心がすがすがしくなったというヤシロ)》の内なる平安が 《平安の敷居(=エルサレム)》です。
まづ 外観から その描写の一部を。

都の城壁は碧玉で築かれ 都は透きとおったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉 第二はサファイア 第三はめのう 第四はエメラルド 第五は赤縞めのう 第六は赤めのう 第七はクリソリソス 第八は緑柱石 第九はトパーズ 第十はクリソライト 第十一はジルコン 第十二は紫水晶であった。また 十二の門は十二の真珠であって どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。また 都の大通りは 透きとおったガラスのような純金であった。
ヨハネへの黙示 21:18−21)

《イヅモにおけるスサノヲのうた――八雲立つ出雲八重垣・・・》のほうが しぶくていい感じですが 新しいインタムライスム=インタキャピタリスムによるやしろは 上のように表現されるにふさわしいということがわかります。むろん そのように言葉どおりにあるわけではありません。また 《十二の門》を《十二》にしないということ あるいは《八重垣》(その《八》は神聖なものを表わしたことはすでに見ました――第二部第二章第五節)を 《九重(禁裏)》にしないということも見ておいてよいかと思います。(だから 九や十三の数が 不吉だとか言っているのではありません)。
次に 外観に対して内観(?)は やはりそのように語られるにふさわしいというほどに たとえば次のごとく。

わたしは都の中に神殿を見なかった。全能者である神 主と小羊とが都の神殿だからである。この都には それを照らす太陽も月も 必要でない。神の栄光が都を照らしており 小羊が都の明かりだからである。諸国の民は 都の光に照らされて歩き 地上の王たちは 自分たちの栄光を携えて都にやってくる。都の門は 一日中けっして閉ざされない。そこには夜がないからである。人びとは 諸国の民の栄光と誉れとを携えて都にやって来る。しかし すべて汚れた者 忌まわしいことと偽りを行なう者は けっして都に入れない。小羊の生命の書に名が書いてある者だけが入れる。
天使はまた 神と小羊の玉座から流れ出て 水晶のように輝く生命の水の川をわたしに見せた。・・・もはや 夜はない。ともし火の光も太陽の光も要らない。主である神が僕(しもべ)たちを照らし かれらは世々かぎりなく統治するからである。
ヨハネへの黙示 21:22−22:5)

人は 神社としての具体的なやしろがなくなると思ってはならない。太陽や月がなくなると思ってはならない。夜がなくなるとも思ってはならない。また 偽りを行なう者がなくなるとも。なぜなら かれらは 《決して都に入れない》と書いてあるのだから その存在は あるはづである。また 《都に入れない》というのは その都の中にいるであろうが 《入れない》ということでなければならない。
しかし 《夜はない》のである。《ともし火の光も太陽の光も要らない》のである。《都の中に神殿を見ない》のである。《八雲立つ出雲八重垣》なるやしろは おのおのスサノヲ者のこころ(史観)の中に築かれたからである。この第三のアダムの時代に入るからである。《朝から昼へ 昼から夕へ そして夕は 夜へは渡されずに 次の朝へ移り》 新しい《一日》が構成されるという時間〔的存在〕の世界なのである。しかし 《今が恵みの時》ではなかったか。この新しいスサノヲ者の一日は いま存在するのではなかったか。
つづいて ヨハネへの黙示は すでに最終の段階として 《キリストの再臨》をうたう。これが あの第一の死からの再生――敬虔な者には永遠の生に至る復活 不敬虔な者には第二の死という永遠の死に至るための復活――でなくて何であろう。すなわち まづキリストがご自身のことばとして

見よ わたしはすぐに来る。わたしは 報いをたずさえて来て それぞれの行ないに応じて報いよう。わたしはアルファでありオメガである。最初の者であり 最後の者である。初めであり 終わりである。
自分の衣を洗い清める者は幸いである。生命の木に対する権利を与えられ 門をとおって都に入ることになる。
犬のような者 魔術を使う者 みだらなことをする者 人を殺す者 偶像を拝む者 すべて偽りを好み また行なう者は都の外にいる。
わたし・イエスは 使いを遣わし 諸教会(エクレシア / ムラ)のために以上のことをお前たちに証しした。わたしは ダヴィデの子孫 その一族 輝く明けの明星である。
すると 聖霊と花嫁(都のこと)とが 
――さあ 来てください。
と言う。これを聞く者も 
――さあ 来てください。
と言いなさい。渇いている者は来なさい。生命の水が欲しい者は 自由に飲みなさい。
ヨハネへの黙示22:12−17)

これらは いまの主題である《国家の歴史的な移行の過程》として つまり具体的にこれを焦点として捉えて よいものと思います。またそれは このように 史観として 各主観の内なる生きた史観として――原理的にそうであるなら まづそのようにして―― 理解されるのが一層ふさわしいと言われるほどに 国家論の問題であっても むしろ外に出かけず 内なる人の秘蹟〔と各個人としての外なる人(その模範)〕において 表現され了解され主観共同化されることが その道であると思われた結果であるのです。
一たんこの第五章をここで終えて 次の新しい章へ受け継いでいくこととします。


(つづく→caguirofie070928)