caguirofie

哲学いろいろ

#167

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十一章b 鏡からキリスト(三位一体)を見るとき 聖霊を受けよとわれわれは 語りかけられる

〔46 つづき〕
魔術師シモンでさえも 使徒たちに金を差し出して 私が聖霊を与え得るように 《この権能を私に与えてください》とは言わず 《私が手を置くすべての人が聖霊を受けるようにこの権能を私に与えてください》と言っている。聖書は 使徒たちが聖霊を与えているのをシモンが見て とは言わず《使徒たちが手を置くことによって聖霊が与えられるのをシモンが見て》(使徒行伝8:18)と語っているのである。
このゆえに 主イエスご自身が神として聖霊を与えられるだけではなく 人間として聖霊を受けられる。だから 聖書に主は 恩恵(ヨハネ1:14)と聖霊(ルカ2:52 / 4:1)に満たされていると語られているのである。《使徒行伝》では もっと明らかに主について 《神はイエス聖霊で塗油された》(10:38)と記されている。勿論 目に見える油によってではなく 恩恵の賜物によってではあるが それは教会がバプテスマされた者に塗油する聖油によって可視的に意味表示される。バプテスマを受けたキリストの上に聖霊が鳩のような姿で降臨したとき(マタイ3:16) キリストは聖霊によって塗油されたのではない。あのときは聖霊はキリストのからだ 言いかえると かれの教会を予示しようとされたのである。この教会において とりわけバプテスマされた者は聖霊を受ける。しかし 神の御言が肉としてつくられた(ヨハネ1:14)とき 言いかえると 人間性が善きわざの或る先行的な功績なくして 御言なる神に かれと共に一つのペルソナが生じるように処女マリアの胎内で結合されたとき あの神秘的な不可視的な塗油によって塗油された と理解すべきである。このゆえに 私たちはキリストは聖霊と処女マリアから生まれたまうた と告白するのである。主が三十歳近くになられたときはじめて 聖霊を受けた――その年にヨハネからバプテスマを受けられたのである(ルカ3:21−23)――と信じることは きわめて理に適わない。むしろ主がバプテスマを受けにヨハネのところに来られたとき 全く罪なくして聖霊を持っておられた と信じるべきである。主の僕 先触れ人であるヨハネその人について 《かれは母の胎から聖霊によって満たされていた》(ルカ1:15)と記されているなら――なぜなら かれは父から種を播かれたが しかも母の胎において形成されたとき聖霊を受けたから―― 肉的にではなく霊的に懐胎された人間キリストについて 私たちは何と理解し信じるべきであろうか。
聖書は 《かれは聖霊の約束を父から受け 聖霊を注ぎたまうた》(使徒行伝2:33)とキリストについて語っていることに人間性と神性が示されている。たしかにキリストは人間として精霊を受けられ 神として私たちに聖霊を注ぎたまうたのである。しかし 私たちは信仰の量りにしたがって この賜物を受け得るのであるが それを他の人びとに注ぐことは出来ない。だが 私たちはかれらの上に聖霊が注がれるように神を喚び求める。神がこれをなしたまうのである。
(三位一体論15・26)

しかし わたしたちは言う。わたしたちのからだが かみのやどりたまうみやであり かみのたがやされるはたけであるなら この聖霊〔たとえば 直び霊(たま)〕のはたらきが われわれが《こころを尽くし 知を尽くし ちからを尽くして かれを・あるいはかのじょを愛する》とき その可変的な移ろいやすいものではあるわたしたちの経験的な愛のなかに 流れるように注がれ 注がれてのように流れるのを わたしたちは見ないであろうか。

  • 神秘的・宗教的にこれを捉えてはならない。理性をもってみよ。

ムライスムなる律法和(もののあはれ)は 人びとの共同の水路ではなかったか。八重垣に この水路がなかったか。あの九重をめぐらす国家という共同観念なる社会形態でさえ あたかもブルドーザーで このやしろに観念の運河を掘り築いたではないか。

  • おくにのため ヒコクミンという言葉・その観念で すでに人びとは何らかの反応をする。そういう観念の・共同心理の水路のことである。

近代市民スサノヲ・キャピタリストでさえ 自由主義経済というものと貨幣の航路を生み出したではないか。われわれは 肉にしたがってではなく また人間にしたがってでもなく 霊にしたがって すなわちわれわれのこころ(生命)に宿りたまう聖霊なる神にしたがって このことを 新しい水を注がれてのように 為さしめられるのである。

  • 要らない観念の運河はやがて捨てられ ムライスムなる・あるいは経済的名いくつかの水路をとおして――いまあえて神秘的に言うと――見えない愛が 流れてのように 行為するようになる。

ムライスムなる共同水路が だから なくなるのではない。観念の共同運河でさえ そのシンキロウ形態を揚棄してのように とどまるかも知れない。(みんぞく性)。ましてや 経済生活のリベラリスム〔という意味でのキャピタリスム〕は 消えてしまうものではないであろう。ものは 重要である。貨幣も 必要な限り そのために用いられる。まして生産という働くよろこびが 棄て去られてしまってよい法はない。霊のやしろが 打ち建てられるのである。(そのように 内へ向き変えられる)。新しいエルサレム(平安の敷居) 八雲立つ出雲八重垣 コミュニスム 神の国〔としての地上の国〕 なんならキリストのからだ エクレシアおよびキュリアコン。
《行け 父と子と聖霊の名において すべての国人にバプテスマを授けよ》と言われるのは わたしたちの内なる要請である。この神の掟は 倫理規範ではなかったのだから 自由に要請されてでないなら 誰もこの要請を引き受けて為しうることはない。またバプテスマは 聖霊による洗礼である。わづかに 悪魔が そして悪魔に要請されてのように人間にしたがう自称アマテラス者たちが これをシンキロウ(空蝉あるいは 古事記では アメノワカヒコ)のように提出して為すことをなす。しかしかれらも なおも大きくは自由に要請されて 自己の虚偽と悲惨から癒され回復されたいと願ってのように このみづからのシンキロウを打ち破ってほしいと言ってのように 行動しているのである。だれも神のふところの中にでなければ その憩いを見出さないのであるから。
このとき だれが厚かましくも 信仰を宗教に変えてのように それを強制するであろうか。《すべての国人にバプテスマを授けよ》とは 内なるバプテスマであり あの聖霊の交流する水路をとおって 信仰の共同主観(コミュニスム)が打ち建てられるのではなければならない。それは 開かれたムライスムであろう。しかし 目に見える行動(衣食住の生活)はそのときも みな同じである。以前と少しも変わらない。キリストは確かに昇天されたが このアマアガリは 人間(肉)スサノヲのアマアガリであって 霊魂があたかも幽霊となって ましてや怨霊となって アマガケリゆくものではないのだから。
聖霊が それでも 空想的・非科学的・非現実的であると語る人は みづからの科学と現実をみつめなおすべきである。なんなら 人(キリスト)に問え。わたしたちは 第三のアダムの時代を迎えるにあたって このように言う愚か者になってよいと思う。
(つづく→2007-10-31 - caguirofie071031)