caguirofie

哲学いろいろ

#98

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第一章 人間という種が変わる

第六節 《アマテラス語の時代》は終えられるということ

人間という種が変わるとは アマテラス語の時代が終えられるということと察せられる。
共同観念(しんきろう)現実から繰り出されるさまざまなアマテラス語のメロディ・その刺激や捕獲網から来るわれわれの主観にある・そしてそれにまつわりつく虚偽(律法の実行不可能性など) この虚偽を内的に棄てて帰郷の旅を送るわれわれは この生において あの約束された将来の栄光に比しては 身体の悲惨を免れていないというほどに アマテラス語においてかスサノヲ語によってはか知らず また 主観の基体である身体の生命を保持するためであると・主観の根拠である神に固着するゆえであるとを問わず ある種の虚言を語る。人間のあの内的な思惟の真実の言葉も それが神の言葉に遠く離れているゆえからか ともあれ人間の言葉としては 殊にその情況に応じざるを得ないと言いわけをしたくないためと言ってのように 時に 虚言を交える。
しかしまづ 人はこの虚言を語る時にではなく それによって欺かれる時 あの虚偽を持つと言わなければなるまい。虚言を語ることがではなく その語り出すアマテラス語にしろスサノヲ語にしろの全体的な行為において つまづくとき――主観形成に損傷がもたらされるとき―― かれは 虚偽を持つ。
この虚偽を棄てる社会的な解放は まづ・そしてつねに 内的にでないなら どこに人の共同主観は保たれるであろうかということは これまでに考察してきた基本的な前提である。
そこで この虚偽を内的に棄て 内なる革命の道を歩む新しい時代は その主観形成の過程であのつまづきがないということ そして しんきろう語としてのアマテラス概念がもはy通用しないようになるということ そのような生きた人間の言葉の時代であると考えられるのである。神の似像(つまり 人間存在)が 虚偽に出遭い つまづき その主観が欺かれ そこに或る種の損傷を受けるとき 人は空しいものとされる。この空中の権能の差し出す蜃気楼現実の中で 誰がつまづかないであろうか。しかし 人はその主観(こころ)にそれによって損傷を受けても その人間の言葉において 神の似像にとどまるということ――この損傷を癒すためでないなら あの神の言葉(《キリスト》はだから 《救い主》と訳され ローマ市民の・あるいは遠く日本人の言葉として それを欲したとき持たれ得た)は 必要でなかった―― そしてそうであるがゆえに 人間は生きた人間の言葉に到達する道が用意され また到達しなければならない。この時代が 新しい世界であると考えられる。
虚偽の・また虚偽の誘惑の再生産とその罪の共同自治と――それは アマテラス語律法による―― この虚偽の治療とそれからの回復によって アマテラス語を人間の有として用いる 主観〔内の自治による〕共同〔の生活・協働関係〕と。だから 人間の誰が 無償で与えられる神の恩恵をほかにして このしんきろう現実の致命的な――人はみな つねに死んでいる――策略から逃れ出ることができるであろうか。
アマテラス語の克服ということ。空中を行く綱渡りのような上手に語るアマテラス語の網から 生きた主観を取り戻すこと。すべての人の口(そのアマテラス語)がふさがれて その主観が神の国の栄光を その身体であらわすようになるということ。
しかし人は この革命を ある風景の一変する現実であると思ってはならない。神の国の歴史は 有限なる存在である人間の歴史において 時間的・過程的であるから。われわれはここで 神学的な省察を引かなければならない。それは 鏡をとおしてあの謎において見祀るという実体であるゆえに。

《わが神 わが神 なにゆえ われを捨てたまいしや》(詩編21:1)と 《詩編》においてのみならず 十字架において(マタイ27:46)も 発せられたあのお声は 私たちの魂の死を意味表示するために 私たちの内なる人の秘蹟に与えられたのである。このお声に相応して 使徒は 

私たちは知っている。われらの古き人は キリストと共に十字架につけられた。それは この罪の身体が滅びるため 私たちがもはや罪に仕えないためであることを。
パウロ:ローマ書6:6)

と言う
内なる人が十字架につけられたことによって 悔悛の苦しみと貞潔の或る健全な鞭が理解され この死によって不敬虔の死は破壊され この死において神は私たちを見棄てたまわなかったのである。それゆえ このような十字架をとおして 罪の身体は消滅せしめられるのである。それはもはや私たちが 私たちの肢体を不義の武器として罪に委ねないためである(ローマ書6:13)。内なる人が 日から日へ新たにされる(コリント前書4:16)なら 新たにされる前には古くあったことは明らかである。同じ使徒が 《古き人を脱ぎ 新しき人を着よ》(エペソ書4:22)と言うのは 人間の内側でなされるからである。かれはつづいて 《このゆえ きみたちは虚偽を捨て 真実を語れ》(4:25)と解き明かす。自分の心において真理を語る人は 神の聖なる山に住む(詩編14:1−3)ために 内的にでないなら どこに虚偽を捨てようか。
アウグスティヌス:三位一体論4・3〔6〕)

これは 日から日へその主観〔形成において 主観〕が変えられてのように 進む人に ただしく起こることがらである。人は この生において 空しくされるが かれはただしく 神の似像において歩むと言われるのは このためである。ここに神の国が見祀られ もしくは神の聖霊がわれらの身体に宿ると拝せられ 時代としての新たな回転が存すると考えられる。見る人は見よ 聞く人は聞けと言ってのように。


きみたちは虚偽を棄て 真実を語れ。

これを アマテラス語の支配して氾濫する時代が 終えられようとするその神の言葉に関係づけることができるのではないだろうか。アマテラス語とは あのバベルの塔の寓話は 関係あるかどうか。その支配して氾濫する時代とは 時間が そもそも共同主観的にしてあって かつ 共同観念へとなだめられ寝かしつけられる時代のことである。そこで 人びとは死んでいる。魂さえも死んでいるが あの十字架上の死という生命の樹から成るぶどう酒を飲み祀るなら 復活が約束されていると言われる。十字架上の死は 人びとの二重の死に値すると言われるゆえ。
だから これは 神の国に〔のみ〕属していることであるが もし人が 悪魔(あの蛇)の差し出す死の棘なる樹に成るりんごをその妻と共に食べたことによって 悪魔に支配されその罪によって死んでいるとするなら 十字架の死によってこの罪が死に その魂が死んでいたという不敬虔なる死が破壊され 罪の身体(古き人)が消滅せしめられるというわれわれの内なる人の秘蹟――時間的にも地上においても 与えられ生起しかつ過程でもある秘蹟――として与えられている。
悪魔つまり時間の制作者に支配され 時間に支配され 労働行為時間=価値によって支配され その罪(自己の主観によるのではない労働行為時間の アマテラス語律法統治の中で許されてのような社会階級的な領有 つまり アマテラス語の抽象普遍的な労働とスサノヲ語の具体的な有用的な労働との分離して二重に統一される私的にして公的な 公的にして私的な所有制度(富だけではなく知についても)によって死んでいた各主観が むろん幻想的に癒される・すくわれるというのではなく まづこの虚偽の癒されてのように だからこの古き人がすでに死んでのように まづ主観が――死の樹のほうへではなく―― 生命の樹のほうへ向き返られなければならなかった。この内なる回転が 内なる人の秘蹟に与えられ この観想が 行為と或る種の理性的な結婚をなすと言ってのように そこに力が――共同主観の力が――与えられると考えられた。
それもこれも あの権威への従順という空中の楼閣の饗応なる虚偽をわれわれがまづ内的に棄て 心において自己を――ほかならぬ自己を・つまり真実を――語るなら 《悪魔 対 律法》というアマテラス語の時代(古き人)は脱ぎ捨てられ キリスト(真理)において新しき人を着ることによると考えられたのである。これは 理性的に また 過程的に 主観の内においても社会の内においても 為されることであり その一つの方向性は われわれはすでに示した。
《わが神 わが神 なにゆえ われを捨てたまいしや》という神のお声を飲み祀ることによって 自己の・わが魂の死を思い その罪の赦しと悔い改めへと召すキリストの恩恵(聖霊)を受け取る。人はここで 悔悛の苦しみと貞潔の或る健全な鞭を理解しなければならないと聞いた。もはやわが肢体を 不義の武器のごとく(――しんきろうなる虚偽に対して 外的に アマテラス語なる律法を盾にするごろく人はこれを武器とする・しかも不義の武器とするがごとく――) 罪に委ねないためである。朽ちるべき身体の悲惨(虚偽)だけではなく 内なる人の虚偽・その魂の死をも通過してきたのだと人は 知るべきである。この虚偽は内的に棄てるのでなければ 罪と死(その制作者である悪魔)の克服によるアマテラス語の時代の終焉は どこに期待できるであろう。キリストは すべてのもののはじめとなられたのである。
だから きみたちは虚偽を棄て 真実を語れ。自分の心において真理を語る人に 虚言を語ることをも恐れてはならないというように。虚言は それを語るときにではなく 欺かれるとき 虚偽となる。しんきろう現実の虚偽に対して アマテラス語の抽象真実によって 律法を語るのではなく 虚偽を内的に棄て スサノヲイストの真実を語れ。アマテラス語の抽象真実は しんきろう現実の虚偽に対して 律法(理論)として その罪を自覚させるだけのものであり 人間的にますますなるとともに それだけ反面に虚偽を知り空しくさせられるだけものである。この共同観念の枠組み(顔蔽い)を 男は 人は 被ってはならぬ。ここで 《エリ エリ ラマ サバクタニ》のお声は 聞かれるべきである。
《神よ 何故われを見捨てられたか》という真実の声は この死において神はわれわれを見棄てたまわなかったのである。第一のアダムが死の樹の実を食べたことによって 罪の身体へと追放されたとするなら 第二のアダムは そこで息を引き取った十字架という生命の樹によって 神の国として生きることになったからである。われわれの歴史はここにある。
おおきく第一のアダムの時代に モーセが召されて律法なるアマテラス語が与えられたとするなら 第二のアダムの派遣によって 神はこの時代の終結を宣言されたのである。キリストなる第二のアダムは したがって 神の言葉なのであり かれはしかし 第一のアダムより前に 神とともにあり かれは神であった。かれは この身体を担って人間として存在し(それは あの虚偽と悲惨の大きさにわれわれが 絶望しないためである) 十字架上の死に至るまで 従順であった。これによって われわれは死すべき人間にその内なる人の秘蹟が 神の国の歴史として 与えられた。この神から人間の中へ到来し 人間に近づくことがわれわれに出来る。だから 虚偽を棄て 真実を語れ。だから アマテラス言語をとおして 〔心真理を語ることによって〕人間の言葉としては 虚言を語ることをも恐れるな。アマテラス言語はこれを人間が用いる人間の有であるゆえ。
キャピタリスム原理なる律法を 人間が動かす。デモクラシ原理を人間が過程させる。そうして アマテラス言語の支配を終焉にみちびく。人はこのとき みな第三のアダムとなって 新しい生物の一種としてのように 神の国の歴史とともに 人間の歴史を切り開くと考えられる。すでに団結させられていた万国のインタスサノヲイスト 団結せよと言ってのように。不従順の子らから 従順の新しく人を着て 神の言葉たる人間イエス・キリストが 父と一つであるように 社会において(キュリアコンつまり神の家において) 一つのものとなるように。一つの共同主観ゆえに 個性的・多様性のもとにありうるゆえ。次の時代(千年か数千年か分からない)が導かれると考えられる。もしあの空中の権能が克服されたとするならば。

  • わたしたちは ここでむしろ何も言わなかった。

(つづく→2007-08-22 - caguirofie070822)