caguirofie

哲学いろいろ

#130

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第三節b 国家〔の一員〕という死からの再生

しかし――とアウグスティヌスは 神的権威を持って あるいは神の観想に確かに支えられてのように 語り継ぎます―-死につつある者(現在のわれわれ)に 苦痛を感じさせながら感覚を奪い取るものは それが何であれ 敬虔と信仰とをもって耐える者(そのように 《善い死を迎える者》)には忍耐の報いを増し加えるのである。

  • むろん 忍耐から報いへの過程は 人によって 時代によって 地平によって 異なるでしょう。と同時にそれは 日から日への過程であるとも解しなければならない。

ただし 罰という語(時間的存在の死)が無効となるのではない。このように 死は最初の人間から生殖によって受けつがれ

  • だから 或る種の性行為は 一種の死です。 

疑いもなく誕生する者にとって罰であるが それが敬虔と正義のために支払われるならば 再生する者にとってはほまれとなる。すなわち 死は罪の価であるとしても 時として もはや罪のための支払いを必要としないということを実現するのである。
神の国13・6)

だから 自殺がすすめられないと言うように 生がすすめられるのです。
人間の歴史において――少なくとも 人間キリスト・イエスの出現以降は―― この《善い死を死ぬ者 の再生 の実現》が たとえばアウグスティヌスの時代では 成就せず いま現代において成就しつつあるとか あるいはその逆であるとか ということではありません。時代を超えて まづ原理的には その各主観において それぞれ実現されているものであり なおその神の国の実現は 人間の歴史過程的に行なわれつつあるというものであり またそのことは 殉教者なり過去の死者が復活してくるということ あるいは この現在の自己にとってもその過去の死から自己がよみがえってくるということ(スサノヲのミコトは よみの国の王でありました) ここに すdねい・つねに実現されているものであると理解しなければなりません。真理(キリスト)は永遠に属し 時間的存在(神の似像)の信仰は 時間的・歴史的なものに関係されると理解されるからです。

《死は罪の価であるとしても 時として もはや罪のための支払いを必要としないということを実現する》のです。神の似像の歩む道は このように構造的にして 過程的であり またそうであるなら 綜合的に(やしろ全体的に)見ても 歴史的であり それぞれの段階で時代を画するようにして 共同主観的であると考えられ ただ いまの時代〔の終焉〕にあたっては 人間そのものが 一生物種としてものように 新しい存在へと変えられるであろうとわたしたちは捉えるのです。おそらく こう言うほうが より一層ふさわしいと考えるからです。なぜなら それは そのようにバラ色の予告をなすためというのではなく いまの時代のむしろ原理的にと呼ぶべき保守の側にある人びと かれらから発せられるあの空中の権能の働きかけ これにわれわれが つけ入られないためであるからです。
悪魔につけ入らせないためには そう言うべきです。悪魔も 悪霊というほどに たとえば民族の存亡といったことというふうに 永遠の何らかの像を持ち出すからです。あの第一の死から一たんは復活して しかしながら 今度は ふたたびその死がもはや死なないというように 第二の死の中にあって 或る種の永遠をかれらは見ているからです。神がかれらにこれを見させ そのように言うほどに 悪霊も神によって生きている。つまり かれらは神によって用いられていると考えられる。《義は悪人によっても善く用いられる》はここで 聞かれるべきです。このように史観がいままでぼんやりとしていたものが より一層 鮮明になっていくと考えられるべき。なぜなら アマテラス語理論のその最高の段階に達するとともに ますます人間的となっていくことは 経験的な歴史でもあるのですから。
人間の理論〔の時代〕を通じて 一つには宗教がその呪術性・幻想性を明らかにされて むしろ誰もが神の似像であると 自覚しないでもよいほどに そうなったからには――人間の科学的な認識が これを明らかにした からには―― 神の似像つまり時間的存在つまり可死的な人間について このように死の認識による史観をも 打ち出してゆくべきと考えます。いわゆるコミュニスムや あるいはその方向と実態とが異なるものであれナチスムやファシスムなる一般にナシオナリスムやによって すなわちそのような意味での・永遠性ないし死にかんする人間の理論によって この総合的な史観というほどの神の似像の方向性は すでに外的には(行動実践的および観念実践的な外的には) むしろ打ち出されてしまっていると考えるべきだからです。

  • もっとも通俗的に言いかえると コミュニスムのために あるいは お国・民族のために 死がある 死もある つまり これらの史観の中で 善い死を死ぬことができるとさえ言うほどの或る種の・外的な方向性はすでに打ち出されてしまっている。

われわれは 内的に しかも時代総合的なというほどに外的に しかしやはりあくまで内的に このように史観を打ち出すことも それらに対して沈黙しないためには 必要でしょう。しかしながら実際にも それらの先行するというほどの諸史観が 死の問題をも扱っていたというに類して 可死的存在の行方は 史観にとって一つの本質的な論議の対象であるかもしれません。ともあれ 《律法の支配のもとにあったすべての人の口がふさがれて》 悪魔に――かれはその口にアマテラス語を保持してこれを操って バラ色の時間(イデオロジ・共同主観)などないというしんきろうのバラ色の時間を提出する。またこれによって 罪の共同自治の過去に固執する伝統的なと呼ばれる方式を 保守するその悪魔に―― つけ入らせるべきでないことは 必須条件です。
アマテラス者にたてつくためではなく 権威に従おうとするためにです。それにつけても これは具体的には あの国家という時間が すでに主観にかかわる時間過程そのものなのであって しかもそれは 《S圏‐A圏》連関が形態的には残るとしても 国家なる概念的なもの これは すでに主観の内にはない。つまりそれは 蜃気楼であるという史観を 明らかにするはづではあります。なぜなら キリストの死と復活を大前提として 殉教者が 後の人びとの共同主観に復活したといったように これまでの国家による国民であったことによる死も 現代以降の人びとに さらに新しい共同主観の中に 復活してくることは 必定であると考えられなければならないから。つまり要約して言って 死の認識の問題は 現代の史観にとって 一つには 国家論をすでに用意している。こう思われることです。
そこであたかも 《〈死につつある〉と言われる人が経験する 霊魂(A語。しかしこれはS者がよく保持する)と身体〔S語。しかしA者はこれを自己が単独分立することによって放棄するかのように 空気のような身体(すべてがそうではないが アイドル存在を思え)と為す〕の分離(だから A‐S連関体制)としての身体の死(つまり 国家というやしろの形態のその概念)は 誰にとっても善ではない》と言うかのごとく――つまりいまの時代にあたっては そう言うかのごとく―― 《この死は悪であるのに インタスサノヲイストによって善い死が迎えられるのである》。ここで 《国家形態〔それとしても あらゆる展開をとおってのように 最終・最高の段階に達してというようにして〕において 〈善い死が迎えられる〉》ということは あのキリストの復活にあやかるならば 《もはや時として その〔国民であることの人間性の反面での〕罪のための支払いを必要としないことを実現する》というほどに 人は 再生するのである。
これらすべて神がなしたまうといってのように。しかし人は その時間的なものに関係する信仰によって 歩む。ならば 人間の手によって これが実現の方向へと歩を進めるということは 神への逆立を深めることにはならず 神のよろこばれることを欲する・また神によろこばれることを欲する神の似像たる人間にとっても 不可能ということはなく また よろこばしいことでないことはない。このように言うことは すでに不適当・不穏当でもないのであると考えられる。すなわち これらの議論すべては そこに集約されるようにして 国家という幻想が 世界史的に 崩壊するという過程であると察せられる。しかし 《そのようなこれまでの虚偽も もし内的にでないならば どこに棄てるであろうか》となお言われるのは より一層ふさわしくただしいと――アナルシスムやあるいはいわゆるマルクシスムの国家消滅論に対する意味で またそれらをここにアウフヘーベンする意味で――言われなければならない。このようにも 議論は初めの出発点に戻っていなければならないとも思われることです。
(つづく→caguirofie070923)