caguirofie

哲学いろいろ

#131

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第四節 最終的に死が滅ぼされる

それゆえ 聖徒らの死は貴い。かれらにはキリストの死がその大きな恩恵のゆえにあらかじめ約束され あらかじめ支払われたのである。かれらはその恩恵に至るために自らの死を代償として払うのを躊躇しない。その死は先には罪の罰として置かれたが 今はこのように善く用いられて 義の実を豊かに生むものとなった。
しかも 死がこのように善いものとみなされるのは 人が自らの力によってそれを善く用いるからではなく 神の助けによって向きが変えられるからである。それゆえ かつては罪を犯させないための脅しであったものが 今は罪を犯すことなく かつ犯した罪が赦され 偉大な勝利の楯が義の報いとして与えられるために望まれるものとなって掲げられるのである。
アウグスティヌス神の国 13・7)

《第七章》では このように これまでの主題がさらに展開されてゆきます。
いま大胆にその一つの方向性を要約するならば 人間という時間的存在にとって《死》は もはや その終わりに来るものではなく 初めにあって このつまづきの石たる《死を 拒まないなら 背向く者とはならず》 神との義しい関係(すなわち 自由)に入り そうして 《順立(義)‐逆立(不義)》の構造的・過程的な神の似像として人は 生きるであろうと推察されることです。

  • 《わたしのために生命を失う者は それを得るであろう》と言われるこの はじめにあって つまづきの石となる死は 自殺などではなく ましてや他殺でもないことは すでに触れた。《人が自らの力によって死を善く用いるのではなく 神の助けによってそれは善く用いられ 〈神の似像〉のこころが向きを変えられる》のである。また ここで《心の貧しい人は幸いである。神の国はかれらのものである》という言葉が聞かれるべきです。

実に 自由とは この心の清らかなあえぎ求めにほかならないのです。義に飢え渇くように あえぎ求めているから かれは善い死を――しかも そのはじめに――迎えるというようにして 神との順立の関係すなわち自由に入れられるのです。

  • また その《告白》は 声をあげてあえぎ求めているのではなく だから こころの中で沈黙の内に行なわれるのであるが あえぎ求めというようにかれは 叫び声をあげている。神がこれを聞きたまう。いや そうではなく はじめの神がこのあえぎ求めなる告白を かれに起こさせたまうのです。

またこの自由は 使徒パウロが 《わたしは 誇るならわたしの弱さを誇ろう》というがごとく 《あらゆる面で苦しめられるが 行き詰まらず 途方に暮れるが 失望せず 虐げられるが 見捨てられず 打ち倒されるが 滅ぼされない》という 復活の像の自由でなければ 単なる人間的な(人間の力による)自由ということになります。これは 何も被虐趣味でこう言うのではなく 同じく使徒が 《人を欺いているようで 誠実であり 人に知られていないようでいて よく知られており 死にかかっているようで このように生きており 罰されているようでいて 常に喜んでおり 物乞いのようでいて すべてのものを所有している》と語るように 《死》と言うからには たしかに神はわれわれを すべてにおいて見捨てたまうようにして 死なせたまうのです。趣味としての被虐は 人間のみづからの力によるものでしかないだけではなく かれはまだ死んでいません。《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》のです。これが 《義(順立)‐不義(逆立)》の連関 しかもかれは なお義に飢え渇くというように この生にあっては罪の人つまり 不義の中におるそれとしての神の似像なのです。
ところが その生の〔或る日の〕はじめに死を 善い死を 死んだ者は――たしかになお生の終わりである死は 罪の価であるとしても―― 時として もはや罪のための支払いを必要としないということを実現するのであるということなのです。
ここで

死は〔愛の 神の愛の〕勝利に飲み込まれた。
死よ おまえの勝利(律法による罪の共同自治は 死刑を考えるというほどに 死の勝利を 前提とする)は どこにあるのか。
〔そしてなお〕死よ おまえのとげ(つまり罪 までもが)はどこにあるのか。

と聞かれるべく 死の克服が理解されてゆくのです。なぜなら 義によって 十字架の死に就かれるほど 従順であられたキリストによって 死〔の制作者〕が 最終的に滅ぼされると 聖書に記されているからです。神的権威である聖書がこう記すゆえ その言葉が 人間の歴史的に 実現するのです。なぜなら はじめの善い死を死んだ人も みづからの力によってそうしたというのではなく 神の助け(また はかりごと)によってそのように神の似像として用いられるゆえにであるように この《死が最終的に滅ぼされる》ことも キリストがこれをなしたまうからです。このことは 《欲する者もよらず 走る者にもよらず あわれみたまう神によるのである》が 人間は でくのぼうではないのですから その意志(愛)をもって これを欲しこれへと走らなければならないと同時に その欲する所に到達させたまうのは あわれみたまう神によると 理解しなければならないことです。
こうして 《かつては罪を犯させないための脅しであったものつまり死が 今は罪を犯すことなく かつ犯した罪が赦され 偉大な勝利の楯が義の報いとして与えられるために望まれるものとなって掲げられ》ているのです。

洗礼による再生にあずかる前であっても キリストを告白して死んだ人びとにとっては その信仰告白が聖なる洗礼盤(もちろん 聖霊)で洗われた限り 罪の赦しを得させる効力を持つのである。
(同上=神の国13・7)

このように言うとき 前節の国家の問題にも立ち入るべきであり それは 国家のために死んだ人びとも その信仰告白が聖なる洗礼盤で洗われた限り そのバプテスマによる再生にあづかる前に行なわれたものであっても 罪の赦しを得させる効力を持つと聞かれるのです。なぜなら かれらはキリストを告白して死んだからです。なぜなら 全世界が 人間の歴史の全体が キリストの証言だからです。そうでなければ いわゆる英霊を祀ることも――またそのとき なお国家による祭祀のかたちによって祀ることは 斥けられるようにして 別として―― まったく意味のないものとなるからです。このことは たとえばこのようにシントイスムの問題を キリスト信仰とすり替えていると批判されることは 不当でなければならないのであって そのように時間的存在の内なる人に属す原理を言っておらず また《クリスティアニスム‐シントイスム》連関については すでに説明してきたことです。
時間的存在なる人間にとって その究極の原理はこうであろうと言っているに過ぎなかったわけでした。また この告白が 自由であり 自由はその原理なるお方に属(つ)かないなら得られないであろうと見るのでした。ともあれ 人間が 神の聖霊の宿る神のやしろであるとするなら この内なるやしろに祀られ かれら死者の復活が祈願されることは 史観に属すひとつの基本的なことがらでなければならず また 外なるやしろの問題としては 一つの提案として 各ムラつまりS圏におけるヤシロに そのような死者は祀られることが 本来のかたちであろうと考えられ そしてさらに言うならば かれらの人間としての〔誰もが持つ〕罪が赦されるというだけではなく 国家〔の一員〕としての罪が あとに遺されたわれわれの全体とともに その罰である価(すなわち 死)が支払われてゆくということ しかもこの死は むしろ初めに出発点において支払われるべきというようにして(靖国神社の出発は たしかにその時代では そのようにしてであった) 総合的なやしろの問題としても あるいは新しい時代を迎えるべく 人間の歴史が始められなければならないと――ここでは あらかじめ述べるというようにして――見通されることではないだろうか。
これらも 死の問題 なかんづく史観にとっての死 したがっておのおの主観の内における死の問題 に沿ったやはり史観の問題であると考えられることです。しかし 人間の理論の時代を通過した信教の自由である現代において――いや 死の問題やまたそれに際しての信仰告白の問題は 時代に関係なく そうであるというほどに―― 史観にとっての死〔の克服〕すなわち 時間的存在を時間的存在として定立させるいしずゑ〔の問題〕は あたかも聖霊が 各主観の内なる秘所において 生きて働いているがごとく 信仰告白にかんする事柄であって つまり信仰の問題であり告白という内的な過程に属すということはあっても もはや宗教のそれ ましてや国教(あるいは なおさら国法)の問題ではないと 確認されることも必要と思います。また このような魂のことに属す信仰の問題を キリスト史観という一つの史観として考察しても それが宗教の問題ではないと見られうるほどに あるいは逆に言いかえて 信教の自由の確立によって宗教的な問題はすでに解決されつつあると言えるほどであるから いまこの問題を 一つの史観つまりキリスト史観というかたちで述べたとしても 一向に差し支えないというほどに それは 各主観の内側で その時が満ちた つまり死(だから 生)の認識の転換の機が熟したと言えるのではないか。
もっと言うなら このようなキリスト史観〔としていま考察するようなことがら〕は 宗旨の異同を問わず まさしく現代人としての時間的存在の中に いま生起しつつある(だから 観想であり なお同時に 経験的なことがらでもある)と言えるのではないか。またむしろ そうすでに言うべきではないであろうか。こう思われることです。
(つづく→caguirofie070924)