caguirofie

哲学いろいろ

#129

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第三節a 国家〔の一員〕という死からの再生

このように この章では アウグスティヌス神の国について》の中から その第十三巻を取り上げ これに沿って考察しております。またそれは 上に見てきたように 人間の墜落(あの墜落)そして死の起源について論じることから始められています。したがってつまり これら主題の展開に沿って われわれとしては キリスト史観を いくらかは現代の視点を交えて 観想できればと思うことです。
この思念を思うことも 史観にとって必要であった。たしかに実践(愛の)が重要ですが もしこのように精神の滞留を見ようとしても それがいわゆる観念論に陥らないのだというためには つまり言いかえると これも 愛なる実践の一部であると言うためには いわゆる理論的な(社会科学的な)実践に際して 悪魔に付け込ませないようにするためである。つまりアマテラス方言の口がふさがれることが 空回りしないようにするためである。世界のインタスサノヲイスト 団結せよというスローガンには このような謂いが含まれていなければならないでしょう。もっとも むろんこれは そう勇み込むためのものではなく たしかにわたしたちは日から日へ変えられてゆくであろう その過程における実践にほからなかたったのではあるのですが。


さて

《死につつある》と言われる人が経験する 霊魂と身体の分離としての身体の死は だれにとっても善ではない。
神の国13・6)

アウグスティヌスは 第十三巻第六章を始めています。《死は一般に悪である》と要約される章(ただし その分量は 日本語訳わづかに十行足らずですが)です。《前章》までつまり 第十三巻の第一章から第五章までが 死にかんする基本的な認識であるとするなら これが今度は一般的に展開されていこうとします。
そこで いまただちに この上に引用した第一文について論じようとするなら それは こうです。
《身体の死は 誰にとっても善ではない》。そして われわれ前二節までの考察によれが 死は 史観にとって必ずしも 現在していないものではない ということでありました。したがってそこで 《死は悪であるのに善人にとって善い死が迎えられるのである》(13・5)という基本的な認識が聞かれることになるのでした。(《死が 現在的でもある》がゆえに そのように知解されうるということ)。また 同時に 《わたしは 日々 〔身体の死および霊魂の死を〕死んでいるのです》という使徒パウロの言葉もここで聞かれます。したがって 《善人によって善い死が迎えられる》ということは――あの殉教者がその死ののちの復活が約束されたということとともに しかしこれとは ここでなお角度を変えて見るとするならば―― 《日々 死んでいるわたしが 日々 よみがえっている》ということでなければならないでしょう。
昼と夜との一組の世界(労働の二重性を許容するアマテラス方言の世界統治)の中で 夜へは渡されずに継ぎの朝を迎えることができるというのは 実際 霊の人として・しかも肉と精神を持った霊の人として そのようでなければならないと考えられます。つまり われらが師の十字架上の死にあやかるわたしたちの死(もしくは 生)の姿が これでなければならないでしょう。おそらく 信仰を思念として見 思うとき このように捉えられ この主観の形成過程の中で いわゆる実践が行なわれてゆく。なぜなら 《不義(労働の二重性の中の労働)が悪人によってだけではなく善人によっても悪く用いられ》 いわゆる共同主観者も これによって死ぬわけですが 《義(この世に属していないがわれわれがそれによって裏打ちされるべき力)は 善人だけではなく悪人によっても善く用いられる》という 共同観念世界の中の共同主観のいのち これの現実の中ででなければ 実践は生きて来ないと思われることになるから。
《善い死》とは あの神への従順なる順立の関係をもとにした・もしくは それに裏打ちされた 死ないし生ということでなければならない。おそらく 栄光から栄光へ 前史から本史への神の似像の変容は ここにあると考えられるのです。これを観念論だと言う人は なおあのアマテラス方言の観念(幻想)論がかれに蔽いとなって掛けられている だからそう錯覚するのだと考えられます。このような死を死んだ したがって われらが内なる人の秘蹟および外なる人の模範たる人間キリストの復活にあやかって 不類似の類似たる永遠のいのちを生きる 生が 人間の新しい〔種としての〕生であると拝察されるのです。
ここでは
ムライスムなる律法が 棄てられつつ保たれていることでしょう。ここでは 人間の理論なる法律・科学が 人間の有として 用いられ動きあるものとしてなお有効であることでしょう。一般に人間の理論は すでに キリストの証言となるいうよりは キリストの体のそれぞれ一部となった人びとの有として かれらがその史観を生きることのために 道具となる・あるいはコミュニケーションの手段として用いられている。
もう一度 引用するなら 《不義(あの順立からの墜落 すなわち 逆立・敵対の関係)は悪人によってだけではなく 善人によっても悪く用いられるが 義は善人によってだけでなく悪人によっても善く用いられる》(13・5)ということ この《義》のもとに 《善い死を死んだ》人びとのあいだで そのように律法・アマテラス語規範・人間の理論がアウフヘーベンされているなら はじめの《不義》からもたらされる人間の《罪》は――この世の真実によって生きるかぎり なくなるというのではなく―― その罪の共同自治の方式が 衣替えされてまったく新しいものとなっている。つまり 昼の禁止と夜の自在との一組によってではなく はじめに自由が立てられ この自由(自由人)の門口のところまで一杯に罪がやって来るが この自由人はすでに善い死を死んでいるのですから 死の棘たる罪はかれの内にまでは突き刺さらない。また 婚姻の純潔は性欲を善く用いると言ってのように たとい突き刺さっても あの善い死という生へふたたびよみがえる。このように 暗いかたちから新しい明るいかたちへと変えられていると 理解すべきです。
《悪人――順立からの墜落つまりあの不義を ついに衣替えされることなく この世のしんきろう現実の中であたかも愛し それによる支配関係(不義による無知に陥ったかのような共同知による罪の共同自治)を保守しようとする人びと――》がなくなるというわけではない。また誰が《善人》であるかも その人の霊のみが知ることです。だが われわれの信仰は 汲めども尽きぬ泉のごとく その時間的存在を転回させてゆきます。あの天使の不死と永遠の至福なる順立関係を愛し これを信仰において希望させるゆえにです。たしかにキリスト〔の聖霊〕が このわれわれの霊をみちびき その順立の関係へと牽き行きたまうからです。そのとき 《罪を犯さないために死ぬべきである》 《死を拒むなら そむく者となろう》が聞かれるならば この《善い死を死につつ われわれの時間的存在は その衣替えがなされるのです。あたかも神の国がこの地上に降臨するというがごとく(――人はここに シントイスムの《天孫降臨》を思ってもよい。このアマテラス語は 神の国の地上版たる神々の国のようである――) 世界にインタスサノヲイストが立って輩出するのです。いや すでに輩出しているがゆえに これを確認するのです。
そこで 《〈死につつある〉と言われる人――したがってこれは すでに現在して生きる人すべてである――が経験する 霊魂と身体の分離としての身体の死は〔たとえば 或る種 性行為のとき あるいは経済的な制約による現実への屈服という霊と身体との分離を思うとよい。もっとも イエス・キリストなるパン(身体・質料)は 生命(霊)のパンである。が この死は〕 だれにとっても善ではない》が そのように《死は悪であるのに 善人によって――それは神の霊にみちびかれ そのような義の愛へと牽きいゆかれないなら 誰もこの善き魂たりえない―― 善い死が迎えられる》のです。
新しく衣替えした新しき人も 性行為をおこなうでしょう。またその時代にも 〔現実の土台である〕経済的な制約から来る身体の死は免れないかも知れない。あるいはまた これら性行為(目的である視像に憩うことは 無思慮にされることである。神の愛と同じではないが 類型的に比されて捉えられるとも言いうる)や経済上の〔しかも しばしば経済外的な・あのムライスムによる律法に縛られるかのような〕制約にからんで あたかもいまだ第一のアダムの徒であるかのごとく 地上の不義・地上の悪にからみつき・からみつかれてのように その時間的存在を悪しく転がしてゆく人 つまり悪人が いわゆるアコギな行為に出ることも 消え失せてしまうとは思えない。しかしながら 《義は――インタスサノヲイストらの輩出とともに――善人によってだけではなく悪人によっても善く用いられる》そのような罪の共同自治の新しい方式が――人間じたいが新しい種へ変えられてのように―― 行なわれるとすでに言うことができます。
いつからそうなるのかではなく 《今が恵みの時》だからです。もっと言うならば この自己(しかも不在なものの現在する自己)に立たないならば それは 宗教へと上昇して(偽ってアマアガリして)ゆくか それとも 理論的な知解行為へと横滑りしたかたちで(裏返しで) 真のアマアガリ(スサノヲが霊の人となること)を 理論的にまたは社会的かつ外的に 表象し 精神のアマアガリをもってこれに代えます。しかしわたしたちの認識では 人間の精神も いまだ肉の人であるということでありました。
こうして このような新しい世界の社会一般的な また時代一般的な条件も あの人間の理論も その最高の段階に達したとするなら――つまりたとえば 知の閉塞情況あるいは《知のパラダイムを変換せよ》の声が叫ばれることは むしろその証しです。そのように 或る種の最高の段階に達したとするなら―― これとともに あたかも時が――時間的存在のそれぞれ内なる秘所に実際にはおいて――充満してのように 整ったとむしろ推察されるがゆえにです。

  • 時間的存在の内なる秘所とは 当然 その思惟・内省=生産・行為の形式を意味し これの時(また過程)が充満するということは――アマテラス語規範によって人間がますます人間的となるというとき―― 《人間の理論がすでに あらゆる展開を終えてのごとく その最高の段階に達した》ということです。

これらすべてのことは バラ色の時間をほうふつとさせるように提出するというよりは バラ色でない時間(つまり死)に対して そこからよみがえることを人間は志向するということ だからこれを必ずしも 予言などというふうに理解すべきではないということです。これが 《今が恵みの時である》という人間の三一性主体なる過程にほかならない。

(つづく→caguirofie070922)