caguirofie

哲学いろいろ

#128

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第二節 なぜキリスト史観か

なぜわたしたちはこの文章を引用すべきだと考えたのか――《神の国について》第十三巻第五章は 前節末の引用文につづいて述べている――。いうまでもなく 律法は罪人たちの欲望を増すときでも悪ではなく 同様に死は耐え忍ぶ人たちのほまれを増すときでも善ではないからである。

  • とさらに 《死》の問題が考察されている。

律法はそれに背むくことによって捨てられ 人びとをはなはだしい罪人とするが 死は真理のために選び取られて人びとを殉教者とする。

  • 《信仰を捨てるか それとも死の苦しみを受けるかという二者択一をせまる迫害者の前に立った殉教者》(神の国13・4)のばあいである。

それゆえ 罪を禁ずる律法は善であるが 罪の賠償である死は悪である。しかし 不義は悪人によってだけでなく善人によっても悪く用いられるが 義は善人によってだけではなく悪人によっても善く用いられる。したがって 律法は善であるのに悪人によって悪く用いられ 他方 死は悪であるのに善人によって善い死が迎えられるのである。
神の国 13・5)

これを人は 殉教の美化と言うであろうか。《善い死が迎えられた》殉教が ここでは肯定されている――迫害社の他殺がではないことは言うまでもなく 自殺がでもなく 《罪を犯さないために 死ぬべきである》《死なないならば 戒めにそむく者となろう》が 説明されているのである――。しかしこの文章(五世紀はじめである)は 使徒たちの宣教の時代を終えて 殉教者たちの復活を宣する護教の言葉ではあっても 殉教の美化や幻想化のためではなく ましてや人を殉教へとみちびくようなものではなく 時間的存在の時間存在たること すなわちその一環としての死の認識による 史観形成の内省でないなら 何と言うべきであろうか。
ところが 現代では 《罪を犯さないために死ぬべきである》が かつての・すなわち第二のアダム以前の《罪を犯すなら死ぬであろう》の律法の時代に戻ったごとく しかもこの律法は 総じて人間の理論(そして法律――殊に信教の自由――による共同自治)となってのごとく すでにこのような殉教の時代も去ったと言わねばならない。それではあの第二のアダムの派遣という人間の歴史の大いなる転回 これはふたたび 第一のアダムの徒の時代に戻ったようにして むなしいものとなったのであろうか。決してそうではないだろう。それは もはやこのキリスト信仰を弁護する必要のないようになるほど 時間的存在が――原理的には――本来の神の似像の内にとどめられてのように 変えられたことでなければならない。
死の問題にかんしても むしろ 《死よ おまえの勝利はどこにあるのか。死よ おまえにとげはどこにあるのか》と言うほどに 史観の内に変換されていることでなければならない。これは 人間の神に対する逆立の関係が かれに従順なる順立の関係へと向き変えられ 少なくともそのようにこのただ今の生が 裏打ちされているということではあっても だから その限りで むしろ人間の顕揚ではあっても 宣教・護教のあとの人間の理論の時代を排斥するものなどでは たしかに なく そうであるならば 神なるキリストの強要でもなく しかもこのキリスト史観が 時間的存在の内なる人においては 密かにしろ自覚的にしろ 生きて働いているということ ただそのための確認の言葉でしかないものだと言うことができるであろう。
《死は悪であるのに善人によって善い死が迎えられるのである。》

  • もちろん いわゆる天寿をまっとうしてと とるのがよい。しかしキリストは みづからも欲しられて 十字架上にのぼられた。すなわち 人間として涙しながらも――なぜなら 木に懸けられる者は〔律法によって〕呪いとなる―― みづから自己を死につかせられた。これによって 律法はこれも死に追いやられ 神の律法が 時間的存在の内に生きて働くのである。(字面に惑わされることなく 神の律法が生きてはたらく)。

《他方 律法は あるいは法律は 善であるのに悪人によって悪く用いられるのである。》

  • そのとき これに対しては ムライスムなる見えざる律法が あるいは 法律が国家の法律であるというときその――法律じたいの時代の変化とともなる改正やいま別にしても―― 枠組みである国家という共同自治の幻想共同的な形態 これが それぞれ 人間の手によって動かされるようになる。そのように揚棄されるべきであると言おう。国家がなぜ幻想共同的な社会形態であるかは あの最初の時間知 そのような人間の共同知が それじたい罪(神との逆立)であり この神への敵対の中でその罪が共同自治されるための《共同また共同知》の一つの所産であったことによると言おう。しかし この共同なる共同知という幻想共同も まづ時間的存在の内的にでないなら どのように揚棄されるであろう。またしかし あの殉教者を出したことじたい この共同幻想なる国家の力・その手によって為されたもの以外のことではないとわれわれは知るゆえ。

このように知るとき 誰が厚かましくもわれわれは 殉教を美化していると言うであろうか。したがってわれわれは 現代の視点に立って このかれら殉教者の復活をこそ 内省すべきである。しかし 国家も ひとつの社会形態であるとき つまり 全体としてのやしろの形態すなわちキュリアコンであり われわれも確かに現実にそうであると言うとき あたかも殉教者や国家による犠牲者の死の復活を願うかのようにしてとしても 国家形態の破壊そのもの(アナルシスム)へ あるいは単に国家による遺族補償というかたちによるもの(つまり そのような罪の共同自治方式)へ そのまま史観の全体が みちびかれていってしまうであろうか。ここに 死の問題の認識上の転換 いや そのすでに示されたことの確認 がある。
われわれの言いたいことは このようにして このようにしてのみ われわれの内なる身体に神のやしろが建てられるということ またこれによって 外なるやしろの〔S(主導)‐A連関形態への〕再編成が打ち建てられうということ これであったと考えられる。いまが その時であると言うのが ただここでキリスト史観を考察する所以である。またそれは 全世界があのキリストの派遣の証言であったという限りでは つまりこの信仰に立つ限りでは キリスト史観によって以外には省察されないであろうとも言わなければならないように思われる。

  • 具体的な種々の方向性については 他の哲学等によっても 同じものが指し示されるであろうが ただもし それらが あの単なるアマテラス語による考察にしかすぎないものであるとしたなら 信仰が第一である。それはまた この信仰が それをもはや強要するためではなく ましてやなおも国家形態を存続させるべき国教として確立されねばならないなどと言うためではなく あたかも時の充満してというように 現代の時間的存在は 自覚してかそうでないか知らず それへとむしろ運命づけられていると見ざるを得ないためである。水(教会)や血(コミュニストの実践)やによる洗礼によってではなく ましてやムライスムなる律法による〔国家的な〕団結によってでもなく(その見えざる割礼すなわち踏み絵の強制によるあの和なる団結によるのではなく) 聖霊(かれは内なる人に住む)による〔キリストの〕洗礼(なんなら ミソギ)を受けてと言われるのは そのことであろう。
  • しかし この聖霊バプテスマが わざわざその信仰を口外しなければならなかったり またさらに外に出かけて人が人をバプテスマしなければならなかったりするほど それは 内的でないということが・つまり 内なる人の秘蹟に属していないということが ありうるでろうか。外に出かけて 水で清めなければならないという〔儀式的な〕外なるミソギをなおも それは必要とするであろうか。国家悪も国家による犯罪も それは それを行なった当のアマテラス者が たとえば選挙によってふたたびアマテラス者として帰り咲いたなら この内なるバプテスマたるミソギは 実行されたと言いうるであろうか。だから この意味で 信仰が第一である。しかしなんなら 時間的存在の行為形式が 問題であると言おう。

だから これは キリスト史観以外によっては 観想されえないであろうというとき それは もはやキリストの顕揚のためではなく あの悪魔につけ込まれないためである。しかしこの悪魔が 空気のような身体をもって それじたいを見つめる者にとっては目を見張るようなあの空中の(雲の上の)綱渡りを敢行して 古き時間的存在の行為形式(つまりそれによる罪の共同自治)を あたかも支配者となってのように 保守するのである。われわれは これにつけ入らせないようにしなければならない。そのためには 律法やあるいは人間の理論による存在の形式 その古き行為形式の人を われわれの内に 死なせるということでなければならない。これは たしかに人間の手によって為されることであるが 恣意的に自己の力によってということではなく たしかに信仰による心の回転をとおしてその自己の手によってということだ。しかしこの心は 時間的存在のすでに全体である。それがたしかに 生きて史観となるということは ここに時の充満を見るからである。そうでなければ この心は 〔単なる美あるいは精神主義というように〕むなしいばかりではなく キリストは大うそつきということになる。このことは いま――この今――互いに確認されてよいことと思う。そのような共同主観の――あくまで 主観の 共同の――時代に入ったと言ってよいであろう。
(つづく→caguirofie070921)