caguirofie

哲学いろいろ

#142

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第五節 《アマアガリ》ということ

それゆえ 世を去る聖徒たちの霊魂は身体からの分離による死のつらさを経験することはない。なぜなら かれらの肉は希望の中に安息を見出し すでに感覚をもたない以上 どんな苦痛をも感じないとみなされるからである。
神の国について 13・20)

《第二十章》に移ると このように聞かれる。もちろんこのことは 現在 アマアガリを見出した者にとっても 将来すべき史観に属しており また誰もが《聖徒》のアマアガリの時間を持つとは限らない。しかし 神が これをかれらに為さしめられたとは正当にも言いうるのである。しかも ここで重要なことは このアマアガリの時間は むしろあくまでスサノヲ者としての身体をもってのそれであり ただあの木の船の力が働いてのようでのみあるということ。これは 人は理性的に観想すべきことがらである。
また だからと言って あの殉教が 人間の眼から見て 肯定されるとか・されないとか ましてやこれが奨励されるとかいうことではない。それにも増して もはや国家による迫害は終わり 国家による〔信仰迫害とは 直接には つながらない〕死も すでにその国家の展開されるべき形態のあらゆる過程を終えてのように過去のものとなりつつある。しかし この国家による死が もしそうして やしろ全体的にも おのおのの史観を自由に持ちうる現実過程の中にあるなら このような内的なアマアガリの時間へと 人間の歴史は さらに進まないという保証はどこにもない。
むしろ時の充満してというように その道が 自由に 開けたと見るべきである。こう言わないほどに あの聖徒たちの殉教という事例の愚かさを見つめるというように 経験的なものになお固執するであろうか。内的なアマアガリの時間を たしかにわれわれは与えられているというほどに むしろ経験的・歴史的な時間を 用いつつ 過程させるのではないだろうか。殉教者もしくは戦死した英霊たちは すでに復活してきていると言われうるほどなのに なおもかれらの魂を 殊更に 祀り 讃えるであろうか。殊更に祀り 讃えて まだ復活してきていないのだ わたしの主観の中にだけは復活しているのだがと自己を誇るであろうか。
しかし このアマアガリの時間は あの哲学者たちのように あるいはA圏の住民となったアマテラス者たちのように 内的にではあれ またアマテラス語はこれを用いつつも そのアマテラス概念の中で理論する あるいは 行動するという時間過程そのものではないはづである。言いかえると この後者の時間過程からアマアガリの時間へと たとえばいわゆる仏道修行という概念で意味表示されるように 或る習練を積み 道に到達するということではないはづである。逆である。アマアガリの時間から経験的な時間過程の中へ到来するのである。或る習練を積んで道に到達するのではないということを いろんな方法で思惟を為し行為するという習練を経ていくのである。
われわれは 良き羊飼いの声を聞いたなら それを聞き分けて かれについて行くのである。そのとき アマアガリが約束されたのである。これが信じられたのである。そうではなく 上に述べた人びとは みづからを もっぱらのアマテラス者とすることによって あたかもS圏の市民らを 読者とし また 政治の読者として これら読者たちS者を かれら自身の真の身体となすかのように あやまって あるいは 偽って アマアガリを行なったのである。かれらは 自己の身体を放棄してのように だからあの第二の死を迎えてのように 真の身体圏でもあるS者を 厚かましくも自分の身体であるかのように思い為し 甘えている。主観は 共同性(やしろであること)を持つことは確かであるが それは 主観であって 外に出かけれてはならず 上のような《単独分立A‐S連関》という甘えは 単なる経験的なものごとから来る観念〔の自然過程――これが それだ――〕の共同性の中にあるにすぎないと言うべきである。
この偽りの雲が取り払われるなら 新しいエルサレムが来ると言うべきである。しかしそれは すでに蜃気楼であるなら いまむしろ到来しているのではないだろうか。このように言うことが すでに非現実ではない歴史の過程に 現代では入っているのではないだろうか。したがって

かれら(聖徒たち)はプラトンの考えるように 身体を忘れることを願うのではない。むしろ 誰も欺かず 髪の毛一本についても全うされることを保証した方の約束を想起し 切なる願いと忍耐とをもって身体の復活を待っているのである。

  • とアマアガリの時間については すでに知られる。

かれらは身体にあって多くの患難に圧せられたが 復活してのちはそのようなものを感ずることはない。というのも かれらの肉がその弱さのゆえに心の思いにそむき 霊的な律法によって抑えられなければならなかった時でさえ 自分の肉(自分自身)を憎まなかったとすれば それがやがて霊的なものとなる(アマアガリする)時は いかほどそれを愛することだろうか。
たしかに 肉に仕える霊は肉的と呼ばれて不当ではないように 霊に仕える肉が霊的と呼ばれるのは当然である。これはある人びとが 《魂(肉)の身体で播(ま)かれ 霊の身体でよみがえる》と書かれているところから想像するように肉が霊に変わるからではなく 肉が霊に対し驚くべき仕方でこの上なく容易に服従し仕えるからである。そしてついに肉は霊の思いを確実に満たし あらゆる苦痛の感覚 あらゆる腐朽と愚かさから解放されて 失せることのない不死に至るのである。
神の国について 13・20)

さらに つづきを読むべきである。

その時の身体は 今もっとも善い状態にあるものとも 罪を犯す前の最初の人間たちのものとも異なっている。最初の人間たちは もし罪を犯さなかったならばたしかに死ぬことはなかったのであるが そのばあいでもまだ霊的ではなく地上の身体をまとっていたので 〔今の〕人間と同じように食物を摂っていた。かれらは年老いて死の定めに引き渡されるようなことはなかったが(その状態は 神の驚くべき恵みにより 楽園の中央に禁じられた木と並んであった生命の木から与えられたものである) しかしそのばあいでも 禁じられた一本の木に手をつけることをせず 他の木から実をとって食べた。その木が禁じられていたのは その木が悪くあったからではなく 純一無雑な服従がどんなに善いかをかれらに教えるためであった。
服従は 主なる創造者の下に置かれた理性的被造物にとって大いなる徳である。たしかにかれらは禁じられたものに触れたとき 何か悪いものに触れたのではなくて ただ不従順によって罪を犯したのである。

  • やしろのあの望楼からキリストを見るべきであり この生命の木なるかれに服従を見るべきであり しかるに そこに時間(時間知)の齟齬を見出し 服従を不従順に変え やしろそのもの・つまり《A‐S連関》体制ないしはその象徴であるアマテラシテ(つまり 人格の場合もあるし 形相的なナシオナリスムのカミである場合もある)に絶対的な服従を 説くのが ファシスムなるやしろ主義であり この不従順に生きようとすることは あの空中の権能に自己を売り渡すことであり この不従順の子らの誤謬に気づきつつも《罪を犯さないために死ぬべきである》と聞き この不従順の子らに従うということは 第一の死を引き受けたということにほかならない。

それゆえ かれらが他の食物を摂ったのは その魂的な身体が飢え渇きの苦痛をこうむらないためであった。しかし死が突然に襲ったり 年老いて時間の歩みが断たれたりしないために かれらは生命の木の実を食べる必要があった。ほかの木が食物となったように この生命の木は聖なるしるし(サクラメントゥム)となった。このように解するならば 形態的な楽園(エデン)における生命の木は 霊的知性的な楽園(たとえば 新しいエルサレム)における神の知恵をさし示すのである。これについてこう書かれている。《知恵はこれを抱く者にとって生命の木である》。
神の国について 13・20)

これらのことからも 第一の死から 第二の死に至らないための復活というアマアガリなる史観をよくとらえることができると思うのである。また 現代においては 国家なる形態ないし概念を 大きく介在させているであろう。キャピタリスム経済行為 もしくはその複雑な商品の再生産・流通体系 これについては 史観にとって ただちに もしくは 全面的に 必要・不可欠のものとは思えない。または むしろマルクスは 逆に後者を先行させて それを明らかにしようと努めた。このようにマルクス(その理論)を或る意味で下に見たとしても かれを貶めたことにならず またわれわれ自身を必ずしも不遜な者とすることにはならないであろう。われわれは すでにそのように受け取っているのであるから。ここで

また主なる神は 見て美しく 食べるに良いすべての木を土から生えさせ さらに楽園の中央に〔生〕命の木と 善悪を知る木とを生えさせられた。
(創世記 2:9)

と聞かれるときの《生命の木》は たしかにこの《形態的な楽園におけるものが 霊的知性的な楽園における神の知恵(キリスト)をさし示すのである》と捉えられるなら 史観(つまり その原理的な観想としても そして 人間の歴史的な事実としても)において 西暦のはじめ(つまり後にそう定められた暦だが) ナザレの人イエスのかけられた十字架の木であると解されるのである。マルクスがもし ただ《善悪を知る木(時間知)》によって 人間的な推量に拠って その理論を形成したとするなら かれは何も言わなかったことに等しい。かれはむしろ この生命の木から食べて 理論を形成し しかもこの理論はこれを第一の幕屋とし これを超えて至聖所に臨むという史観を見ていたはづである。もしかれが 今度は みづからが生命の木キリストとなる・後世の人びとからそうならせられるという あの唯物史観的な一つの誤謬の余地を残したとするなら(その表現において この誤謬を防ぐ装置を築き得なかったとするなら) そこにかれの第一の死がある。なぜなら 新しい楽園 〔イヅモ・〕コミュ二スムなるやしろは 主観の内にしか存在しない霊的なアマアガリの時間として 見られなければならないから。
しかし この霊的なと言われるほどのアマアガリが 身体を離れ去ってではないと 上に見てきたようにいま承知するとするならば この至聖所に臨んだわれわれの観想は 現実の行為と連動するはづであり していなければならないはづである。
ただ 次に 形態的な楽園(あるいは 原始的なコミュニスム)における最初の人すなわちアダムに与えられた《生命(霊魂)ないし共同主観》と ここであたかも第三のアダムとしての神の似像を考えるときの〔第二のアダムすなわちキリストによって 《聖霊を受けよ》と言われるその〕《生命(霊)》とは 異なる。つまり言いかえると 第二のアダムの出現以後のアマアガリするスサノヲ者の身体と 第一のアダムの身体とはちがうのである。これを 次節に見ることにしょう。
(つづく→2007-10-05 - caguirofie071005)