caguirofie

哲学いろいろ

#132

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第五節a 《第二の死》とは何か

《人が真理のために神を信じ神を讃えつつ死ぬばあいでも なお死は避けるべきものであるかどうかについて 注意深く考察してみよう》と始めて 《第八章》は次のことを つづけて説いています。

かれが引き受けた死は死の一部であって これはやがて死の全部が生じ 終わりなき第二の死が続いて起こることのないためである。かれは霊魂の身体からの分離を引き受けたが これは その分離の前に霊魂から神が離れることを避けるためであった。そうでなかったならば 第一の死が訪れて人間全体が死ぬと共に 第二の永久に続く死が始まることになったであろう。
アウグスティヌス神の国について 第13巻・第8章)

このことが 殉教者たる聖徒たちの死を基にするようにして いま問題の国家による〔現代の一つの課題としてはそれである戦争犠牲者たる〕死者の問題と考えられる。すなわち このように観想することによって いまのわれわれの中に かれらが確かに復活してくるということ これをまづ見なければならないと思います。むろん 同じくこのことは 《罪を犯すならば 死ぬであろう》という律法に代わって 《罪を犯さないために 死ぬべきである》というがごとく 善い死を迎えるという神の似像に 類型的に あてはめて考えられるべきことだと思われるわけです。
すなわち まづ第一に国家という社会形態が 諸国家の関係という社会体系において その一国家の内部に ファシスムなる言わばウルトラ・ナシオナリスムを敷き そのようにして国家の最終的な展開形態とも言うべき段階を経て(いま ただし キャピタリスムの問題からの接近はこれを措きます) そのあらゆる形態の展開を終えてのごとく その国民という市民であることの罪(律法にもとづく時間的存在の共同自治の仕方につきものであるものとして)は 時間的存在のあり方じたいが〔国家〕構造的であるとともに 〔戦争なら戦争という〕国家行為において 〔罪(時間知)が〕構造的となった。

  • 国民経済といったナシオナルな次元〔へ〕のキャピタリスムの視点は いまは措きます。

そこで第二に この構造的な罪は 各主観の行為形式に深くかかわるというほどに(だから 理性的な信仰が 主観つまり自己をよく導くと 一般的には 言わねばならないのだが) 一般に〔国家行為にかかわるに際して〕善い死を死んだ者とともに かれら死者の復活とともに あたかも総合的なかたちで 神のもとの史観を さらに前進させるように 生きたものとする。またそうでなければならないと考えることができます。言いかえると 《S‐A》連関者ないし連関形態を アマテラス者が 国家行為として ウルトラ・ナシオナリスムないし戦争(端的な死の問題)にみちびいた結果 各スサノヲ者のあいだに 信仰としての史観を よみがえらせてのように 生起させることを強いた。ファシスムないし戦争という国家行為にかかわるに際して スサノヲ者市民は 次の問いを自己に発した。つまり 《人が真理のために神(ないし自己〔の生活〕)を信じ神を讃えつつ死ぬばあいでも なお死は避けるべきものなのであるか》と。
答えはこうである。《かれが引き受けた死は 死の一部であって これはやがて死の全部が生じ 終わりなき第二の死が続いて起こることのないためである。かれは霊魂の身体からの分離(=身体の死)を引き受けたが これはその分離の前に霊魂から神が離れること(魂の死。――身体の死は一つの時代として 《A圏‐S圏》連関体制の中での・つまり国家の中での 権威に従うためのであった)を避けるためであった。そうでなかったならば 第一の死が訪れて人間全体が死ぬと共に 第二の永久に続く死が始まることになったであろう》。

  • むろん 国家の命令に抵抗したばあいも そうしたのである。

したがって いま かれら死者が 復活するのである。しかもこれは 国家形態の中でというよりは つまり国民としてというよりは 国家をすでに幻想とし スサノヲ市民社会圏の中で もしくは高々 《S圏‐A圏》連関制なる一社会形態の中でという新たな前提のもとで 各主観一人ひとりに訪れる復活なのであるでしょう。これが 神の似像に そのような時の充満を用意したと解して差し支えないと考えられることだと思います。
言いかえると 時間的存在のやしろ全体的なあり方 またはその罪の国家単位での構造的なあり様 これらは そのように 現実であって現実でないと考えられることです。なぜなら 罪またはその価としての死が 国家の枠組みにまで広がったかののごとく構造的な現実である(現実であった)ということは あたかもその現実は 市民の一個の主観において そのように或る新しい回転への時の充満をつくり出しというように この回転が行なわれるならば もはや現実でないと言わなければならない一つの経験的な現実にすぎないと思われるからです。われわれは 現代において――第二次世界大戦後の世界において―― このような段階にあると言わなければならないのではないでしょうか。
繰り返して述べるならば 《人が真理のために神を信じ神を讃えつつ死ぬばあいでも なお死は避けるべきものなのであるかどうかについて》 先の世界戦争を考えるならば つまり 国家の問題としては ナシオナリスムが 世界戦争ということとファシスムなる国家総動員としての時間的存在のあり方ということとともに もっとも高い水準にまで上げられてのようにその最終的とも言うべき形態(罪の共同自治様式として)に達したとするなら 国家のために死んだ者の存在を考えるならば 《罪を犯すならば 死ぬであろう〔という〔死が脅しである〉ところの罪の共同自治様式〕》では もはやなく 《罪を犯さないために死ぬべきである》という〔逆説的にでも〕神の似像が すでに現れたと言ってよいのではないか。
したがってさらに言いかえると 時間的存在の内なるやしろの〔信仰であるとか告白であるとか あるいは罪のあり方であるとかという〕形式は あたかも最大枠としての国家というやしろ全体の水準にまで広がるようにして そのときそういった外部構造的な死の問題にもつきあたり 《死は拒むなら 背く者となろう》という――このときむろん何に誰に背くかが問題だが――死(または生)の命題を通過した。つまりそれは いま述べるようなキリスト史観の宣教という手段によってではなく 人間の歴史的に ついに そのまま(つまり信仰の有無を ほんとうには問われないまま あるいはむしろ問われて つまり 一社会形態の中での罪の共同自治の問題として 信仰そのものが排斥・迫害・弾圧されるかどうかではもはやなく どんな信仰を持つ者であれ 死の問題をどう考えるかということを直接・第一の問いかけとしてのように) 〔しかし〕このキリスト史観の命題につきあたった そしてそのように確かに経験済みでもあると言いうるということ。

  • だから必ずしも信仰そのものの問題でなかったことにより キリスト者でも 唯物史観者でも あるいはシントイストでも 具体的にかれが取る方途は それぞれのあいだで 異なったであろう。またキリスト史観にかんしては だから特に戦後の日本でも 宗教人口としてのキリスト教はほとんど伸びなかったし またその必要もなかった。

これを〔共同主観の〕現実としてよいかと思われるのです。ならば このように いまのキリスト史観は やしろ全体的 またはさらに 世界全体的に と言うほどに 各個人の主観に――信教の自由のもとに――現在的である こう思われるがゆえにであります。
したがってそれは あたかも神の佑け(ないし はかりごと)によってのように 死に対する・あるいは生に対する向きが変えられる すでに変えられたと考えられること。

  • つまりむろん それは 国家なるものを介してである。言いかえると 人間の内的なやしろを 国家はすでに 外的に反映する現実ではないようになった。国家なるやしろ(社稷)は 幻想でしかなくなった。

したがって要は すでにこのように時間的存在の構図あるいは過程(ないしは 心もしくは罪)が 向きを変えられたとするなら(それは 内面へと変えられたのである) なおかつ いまだそれが あの国家構造的なあり方に甘んじるかのように存在するということは不必要となった このことだと考えられることになるものではないか。形而上学的にも ここまで言えるのではないか。
これは 信仰の告白でないようであって 〔時間的・歴史的なことに関係される〕信仰の告白であると言ってよいでしょうし また逆に 信仰の告白であるようで 信仰の告白ではないと言ってよいでしょうし そのようでいて同時に すでに実践的な行為への促しを――しかしそのとき あの愛がその基調となっていなければ すべてが むなしい―― 行なっている このように理解されてよいのであるでしょう。史観とはこのようなものであると考えるゆえ。
(つづく→caguirofie070925)