caguirofie

哲学いろいろ

#127

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第一節b 史観にとって《死》とは何か

身体の死 霊魂(魂または精神)の死 また人間全体の死――その認識――は このような史観に 現在してみちびかれるものでなければならない。悪魔 つまりあの空中の権能たる悪魔が 死の制作者として いわば第一の死へ仲介したというのに対して 神は 生命の制作者であり キリストは この悪魔を征服されつつ 生命の仲介者となられた。
《神は人間を天使のように すなわち罪を犯しても決して死ぬことはないように造ったのではない。けれども 人間が従順の義務を完全にはたすならば 死は介入することはなく 天使の不死と永遠の至福とが与えられるようにと造ったのである。それゆえ 不従順な者に死の罰があることは もっとも義しい判決なのである》というほどに 第一の死へ介入する悪魔を 神は正当にも ゆるされた。この不敬虔と虚偽との死によって 人間が神の似像・神の子らにとどまることに絶望することがないようにと 神はその独り子を派遣され人間として造られた。
かれによって つまりかれの十字架上の死とそれからの復活によって 人間は その第一の死(あの墜落)から この生において 復活してくるのです。だから それは むろん《死そのもののゆえにではなく ただ 神が信仰に恩恵を与え それによって先には生に敵対していた死が 今は生に移される道具となっ》てのように 実現するのです。それでも《悪魔のもとに参集する人びとは 少数であった》と言われるにもかかわらず 悪魔に属く人びとは 永遠の滅び つまり 死が死なないという第二の死へ投げ出されるのです。この死者の復活ということがなければ キリスト史観はすべて空しい。また 人間の理論によって その実践によって また社会制度の変革されたその環境の変化によって 人間が種として変わるというのではなく 信仰つまり時間的存在の つまりやはり信仰の日々の過程において 変えられるとこそ 大前提としては言っていなければならないというのは このことによると考えなければならない。

とはいえ 救い主のきわめて大きく きわめて驚くべき恩恵により わたしたちに下された罪の罰は反転して 神の義をあらわすのに用いられるのである。すなわち かつて人間にこう言われた。

罪を犯すならば 死ぬであろう。

しかし今 殉教者にこう言われる。

罪を犯さないために死ぬべきである。

かつてはこう言われた。

戒めにそむくならば 必ず死ぬであろう。

しかし今はこう言われる。

もし死をこばむならば 戒めにそむく者となろう。

神の国13・4)

これは したがって ここでも 《殉教者》の美化のためではなく 現代となっては かつてのと言うべきこれら《殉教者》の復活のためである。また 時間的存在の精神は 可変的であるがゆえに 悲惨から浄福へ変えられ得 神に敵対していた時間的存在の不義が 神によって義とされることが見られることが信じられるためにである。この栄光から栄光への巡礼の旅路が いま だからこの一生涯の期間内にも 備えられ これを歩むことでなくしては 史観でもある神の似像はわれわれの内にはとどまらないであろうと考えられた。



それゆえ 最初の人間たちは もし罪を犯さなかったならばどんな種類の死も味わうことがないように造られたのだと認めなければならない。しかし この同じく人間たちが罪を犯して死の罰を受け そのためにかれらの子孫となるものもみな 同じ罰を受けてその呪われた起源を保持するのである。なぜなら かれらから生まれるものはかれら自身と同じ性質を持つからである。実際 かれらの本性はかれらの罪の大きさのゆえに 罰せられて劣れるものとなり その結果 最初に罪を犯した人間たちに罰として加わったものが のちにはかれらから生まれる者の中に本性となって働くのである。・・・しかし親と子は いづれも人間である。それゆえ 結び合わされた二人がかれらを罰する神の判決を受け取ったとき やがて女によって子孫となる人類全体がその最初の人間の中にあった。かれは創造された時ではなく 罪を犯して(――そのように むしろまさしく時間を知り 時間的存在となって すなわち むしろそのようにして真に創造者なる神を知ることになりとも言いうるほどに――) 罰せられた時に人間として造られたものを(――つまり 子孫をさらに――)生んだのである。少なくとも 罪と死の始原にかんする限りそうである。
(同上=神の国13・3)

人間が――最初の人間が―― 〔あの蛇にそそのかされてのように〕時間(知)を知り 時間的存在となったということは それまで神と順立していた者が 逆立(敵対)するようになったということ。また この逆立の関係が そのまま あの〔永遠による〕時間の裏打ちである。ただし この時間の裏打ちは この逆立のまま すなわち第一のアダムの墜落の結果のまま 推移したということではなく ただしく神による第二のアダムの派遣によって あの順立(至福)のすがたが告知されて いまこの生においては この精神の神への順立の栄光になおふたたび導かれる(回転する)ようにあるごとく 逆立の関係で裏打ちされているということ。したがってそこで 《いまは 罪をい犯さないために死ぬべきである》《もし死を拒むならば 戒めにそむく者となろう》が それぞれかつての《罪を犯すならば 死ぬであろう》《戒めにそむくならば 必ず死ぬであろう》に代わって 聞かれるべきである。したがって人は 時間的にであるが あの神の永遠を いまはこの生において 通過するということを 理解しなければならない。《私の威厳が通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう》と聞かれるのである。
われわれは いま――この今―― 天使の不死と永遠の至福にみちびかれるのではない。誰も かのお方の顔を直接に見ては生きてゆけない。しかも この逆立の関係そのものにおいて 《この罪の罰は反転して 神の義を そのままそこで あらわすのに用いられる》というようにして 《〔キリストのために〕死を拒まないならば 戒めにそむくことなく 創造のあるべき像すなわち順立の関係において 永遠のいのちが約束されている》と聞かれるべきなのである。
だから人は この逆立の関係そのものにおいて すなわち第一のアダムの子孫としてそのままの像で そこにはじめの知によって 律法を受け取ってのように 人間の倫理規範を築き これによって生きる(そのような〔罪の〕共同自治を 個人的にも社会的にも 築く)ことから すでにいま 離れなければならない。人間の初めの知が すでに墜落した天使である(その限りかれは 不死である)蛇なる悪魔の所産であったように この知(時間知)による社会的な共同自治の中へ 神によって与えられたそれじたい聖であり霊である律法を これに従う行ないのみによっては ただしい(初めの順立の関係の)者とされることはなく むしろいそれは なお初めの知〔の獲得 すなわちその知への人間の墜落〕という罪を 自覚されるだけのものだと理解された。
この罪を もはや今ではすでに犯さないために キリストとともに十字架上に死ぬべきなのである。第一のアダムの子孫として かれから受け取った人間の本性によって《罪をなお犯すならば 死ぬであろう》は すでに旧いものとなったと理解された。誰も 律法を守る者はいないからである。死〔の認識〕は 史観にとって このように省察されてのように 観想と行ないに導かれてゆくことになった。

使徒パウロ)は 恩恵が助けない限り罪はどれほど人を損なう力があるかを示そうとして 罪を禁ずる律法じたい 罪の力であると言うのを躊躇しない。かれは言う。

死の棘は罪であり 罪の力は律法である。

と。これはまったく真実である。なぜなら 人が義(あの順立の関係)を愛し その愛によって罪への欲望が征服されるのでないならば 律法の禁止はかえって不正なわざへの願望を増大させるからである。

  • あの初めの時間知は この律法の禁止をかいくぐってでも なお別の・逆立関係の中でのあらたな知(それは 蛇のように這い進む・順立からの墜落という 基本的には 罪がその形態である。さまざまな悪事となってあらわれるその多様性は むしろ偶有的なものであるそのあらたな知)へと あたかも想像力を(つまり あたかも無知によってかき立てられるところの知を)たくましくしてのように いざり進むからである。

しかし神の恩恵が働いて助けるのでないならば 人は真の義を愛し喜ぶことはない。

  • 《不正を愛する人は自己の魂を憎む》ようになる。

とはいえ 罪の力となったために律法が悪であるとみなされることがないように 使徒は別の箇所で次の問いを出している。

このようなわけで 律法はたしかに聖であり 戒めも聖であって 正しく かつ善である。それでは――とかれは言う―― 善なるものがわたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ 罪があらわれるための罪のしわざである。すなわち 罪人あるいは罪が戒めをつうじて はなはだしいものとなるために 善なるものによってわたしを死に至らしめたのである。

  • 《死に至らしめた》のであって アマテラス語による罪の自覚をもたらしたとしても その正しい行ない に至らしめたのではない。空気のような身体をもって スサノヲ者を写す単独分立アマテラス者が 古き人として まったき死を死ぬのである。スサノヲ者〔の中で 真にアマアガリ(アマテラス化)した・つまりあの順立への関係に 現在する将来の栄光として入った その者〕として 新しき人が 生きる。

ここで 《はなはだしいものとなる》と言っているのは 罪の欲望が(――時間知が またそのような逆立知なる無知が あたかも想像力ゆたかになって欲望をかき立てるように――)増して 律法すら軽蔑されるとき そこに大きな罪が加わるからである。
神の国 13・5)

(つづく→caguirofie070920)