caguirofie

哲学いろいろ

#126

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第一節a 史観にとって《死》とは何か

神は人間を天使のように すなわち罪を犯しても決して死ぬことはないように造ったのではない。けれども 人間が従順の義務を完全にはたすならば 死は介入することなく 天使の不死と永遠の至福とが与えられるようにと造ったのである。それゆえ 不従順な者に死の罰があることは もっとも義しい判決の結果である。
アウグスティヌス神の国 13・1)

これが まづ 時間的存在の像であり それは まづ 神の似像として造られたということでありました。また このことからは――のちに見ることになりますが―― いまでは この人間に 《死が介入することがない》ことはなく しかも神の子キリストの秘蹟をとおして神は この死を免れない人間が 死ののち《天使の不死と永遠の至福とが与えられる》というほどに いま――この今――あの復活を約束されるというみ心を示されたのでした。
したがって 《真理(キリスト)は永遠に関係されるというほどに 〔人間の〕信仰がこの今の時間的なことに関係される〕と聞かれるというわけです。(または 《時間的なものが永遠に関係されるように 信仰は真理に関係する》。なぜなら 信仰は これもなお 可変的であり 真理なるお方を顔と顔を合わせて見る・かの日には もう残されていないものだからです)。神の似像であるということ。そのように たしかに裏打ちがなされているということ。

《ところで――とアウグスティヌスはこれにつづいて 《神の国について》の第十三巻第二章では―― わたしたちは死の種類について 少しく詳細に論じなければならないであろう》と 考察をつづけます。時間的存在を明らかにするために。すなわちわれわれの言葉で 史観を 観想しつつ形成するために。

しかし――《人間の霊魂が不滅であると言われているのは間違っていないとしても それが一種の死をこうむることはたしかである》 しかし―― 身体は あらゆる生命を失うことがあり ある時 自分では生きて行けなくなるゆえに可死的である。それゆえ 霊魂の死は神がこれを捨てる時に起こり 身体の死は霊魂がこれを捨てる時に起こる。したがって両方の死 すなわち全人間の死は 神を捨てた霊魂が身体を捨てる時に起こる。そのとき霊魂は神によって生きず 身体もまた霊魂によって生きないのである。
神の国 承前)

これは 人間にとって死とそののちの復活(善き霊魂だけではなく 悪しき霊魂も  その場合は ふたたび 破滅にみちびかれるためと言ってのように いちど復活してくると言われる)が むしろこの今 現在的である(そのようにも あの裏打ちがなされている)のと同じように このような死も いま現在的であるとまづ 理解すべきでしょう。すぐつづいて

こうした仕方で全人間の死に続いてくるものは 神の言葉の権威(聖書)が第二の死と呼んでいるものである。救い主(キリスト)もこれをさして 《身体と霊魂とを地獄(ゲヘンナ)で滅ぼす力ある方を恐れよ》と言ったのである。しかいこれは 霊魂と身体とがしっかり結びついていて どんな切断によっても分離されないうちは起こらない。
(承前)

と聞かれるように いま現在的であるというこの死も それはただ裏打ちされているという限りでのみそうであって そうであるからには それはまた いま現在の史観形成の基盤となる観想に確かに属している。すなわち身体は〔そして霊魂も〕史観の基体であるというがごとく このような時間的存在への省察からもたらされる死の認識は あたかもそれ(死)は《かつては罪を犯させないための脅しであったものは 今は罪を避けるために選ばれるものとなった》(同上13・4)と言うようにして 現在して生きた史観〔の基盤〕となっている。
すなわち同じことで 

悪徳の罰(つまり死)さえも徳の武具に変わり 罪人の受ける刑罰(死)もまた義人の報いとなる。死はかつては罪の行為に続くものであったが 今は死によって義がみたされるのである。・・・〔さらに〕最初の不義の者たちが信じなかったために受けたものを 今 義しい者たちは信仰によって受けることを選ぶのである。前者は罪を犯さなかったならば死ななかったはづであるが 後者は死なないとすれば罪を犯すことがあろう。それゆえ 前者は罪を犯したために死んだが 後者は死んだために罪を犯さないのである。前者の咎のゆえに人は罰せられた者となり 後者の罰のゆえに人は咎なき者 となる。
神の国 13・4)

これが 倫理規範(刑法等)の以前の時間的存在の倫理であり 律法の以前の神の律法であり それは キリスト以後にただしくそうなのであり またあたかも神の似像の以後として 人間の今の問題であると考えなければならない。

このように先に悪であった(死は悪であった)ものが善となるのは 死〔そのもの〕ゆえにではない。それはただ 神が信仰に恩恵を与え それによって先には生に敵対した死が 今は生に移される道具となったことによるのである。
(承前)

すべての人の口がふさがれて アマテラス言語が止揚されて アマテラス者が アマテラス者であることじたいによって 死に そうしてこの死において――なぜなら 精神にしたがってというほどに 肉にしたがって つまり人間にしたがって 自己を律し生きていた《倒錯せる〈A‐S〉連関者〉という魂の死が 死ぬというこの死において――人は 神によって復活するのです。《死が今は生に移される道具とな》って 復活するのです。これが――形而上学的ながら―― キリスト史観です。


身体の死 霊魂(魂または精神)の死 また人間全体の死――その認識――は このような史観に 現在してみちびかれるものでなければならない。
(つづく→caguirofie070919)