caguirofie

哲学いろいろ

#133

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第五節b 《第二の死》とは何か

さらにここで 《霊魂の身体からの分離を引き受けた死は 死の一部である》ということ つまりそのような第一の死〔につながるもの〕とはどういうことか。あるいは 《これはやがて死の全部が生じ 終わりなき第二の死がつづいて起こることのないため》というときの第二の死とは 何を言うのか。このことを少しく見ておきたい思います。
さてまづ 《第八章》の後半の文章は 次のようであります。

それゆえ・・・死につつある者がそれを経験し それがかれの死の原因となるかぎり 死は誰にとっても善いのではない。しかし善を保持し あるいは求める者は 神の讃美しつつそれに耐えるのである。
もちろん すでに死んでしまったと言われる者にとっては 死は悪人にとって悪く 善人にとって善いと言って間違いではなき。なぜなら 敬虔な者の霊魂は身体から分離するとき平安の中にあるが 不敬虔な者の霊魂は罪の償いをしなければならないからである。そして前者の身体は永遠の生に至るために 後者の身体は第二の死と呼ばれる永遠の師に至るために もう一度生まれるのである。
アウグスティヌス神の国について 13・8)

いま やはり国家による死 そのような外的な 社会構造的な死について考察をつづけよう。《死につつある(あった)者》にしろ《死んでしまったと言われる者》にしろ 戦時体制下の国家の一員としてこの第一の死は 経験済みであるということでした。(いま 自己の信仰によって この信仰を捨てるよりは 国家による戦時体制への組み込まれを拒否して その限りで死の苦しみを受けることのほうを選んだ人びと その信仰内容が何であったにせよすいった行為に及んだ人びと これらの人びとについては 他方の《戦争に動因されることによる死を拒まなかった人びと》とともに やはり同じように この第一の死を経験済みであると見ることにします。それは 信仰を捨てるか あるいは死の苦しみを受けるかを迫られたとき それが――国家によるものであったにせよ―― 信仰じたいへの迫害では直接になかった つまりあの殉教者の例とは 時代的にまた質的に いくらか異なるというふうに見るべきだと思われるからです)。
このとき 《敬虔な者の霊魂は身体から分離するとき平安の中にあり また善を保持し あるいは求め 〔神を讃美しつつ〕それに耐える》というのが 第一の死であると考えられます。もちろん 《その人にとっては悪いものであり 罪の償いをしなければならないという死》つまり悪人・不敬虔な者の第一の死も ここで考えられるわけですが これは一般に――いま必ずしも倫理的なかたちで言っているのではないにかかわらず―― 戦争犯罪人として 直接的なかたちではまづ罰せられたとしてよいでしょう。また 経験直接的なかたち(つまり 人間の手による戦争犯罪人の裁判・処刑)でない場合の償いは それが残るとすれば それは 上の一般に善人にとっての第一の死のその後の経過 つまりその意味での大きく歴史の清算(主観にとってとしては 再生の問題)の過程の中で つれ立って なされるのであろうというふうに ここでは見ることにしたいと思うのです。
いや 逆に言いかえると かれら不敬虔な者の第一の死が 罪の償いを キリスト史観的に行なうため つまり第二の死と呼ばれる永遠の死に至るためにその身体は もう一度 生まれると言われるときには この復活してくる〔国家行為にかんする限りでの〕死の制作者たちに ただしく対処することが 他方の 敬虔な者たちの第一の死からの復活の過程と相即的なものであると言わざるをえないゆえ ということになるではないでしょうか。
国家による死(それは 第一の死)という外的でありまた構造的なものから来る死にかんするかぎり それがなお尾を引いているとするなら それの史観による観想は 以上のことをまづ 前提とするはづです。

  • いま 行論の途中で少しく断り書きを述べねばならないと思われることには これらのことは 必ずしも 史観の内実そのもの〔であった〕とは考えられないことです。史観ないし主観が 現実に生きるとき この地上の生において或る意味で不可避に――そして戦争という事柄にかんしては すでにもはや核戦争という事態が 現実であるとも考えられるそのときに 不可避的に―― この主観〔形成〕に たしかに基本的にもかかわる問題だというふうに考えます。
  • 変な言い方をすれば 核戦争が現実でなかったときには いま考察する史観は必要でなかった。言いかえると そのときには まだ 国家が 必要な現実であったと肯定しなくとも たしかにそれは おそらくそのあらゆる形態の展開を終えていなかった(だから 逆にすでに 国家消滅論じたいがありえたとも)というふうに考えたいと思うのです。

まづこの節は このように前提を捉えて 次の節につなぐこととします。
(つづく→caguirofie070926)