caguirofie

哲学いろいろ

#148

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第三節 結婚ということ

このように考察してくるならば 史観にとって あるいは人間の歴史において 性としては女である人間 かのじょの存在とその役割が とりわけ現代においてのように 最重要となってくると思われます。実際 そうである。
そしてしかもあくまで 一般に《人間》という・つまり 性としてはむろん男か女であるのですが どちらにしてもその一個の人間という時間的存在にとってのアマアガリの時間――なぜなら 神に性はない――を問い求め 見出してゆかねばならない。
これは ヨアキムが男でありこの場合 A者であり その妻スサンナが女でありS者であるというように その対関係におけるA者(精神)が問題だというのではない。言いかえると 両性に つまりこの場合A者およびS者の それぞれの身体(S者実体)が ここでは 問題である。この身体を あたかもそこに性の区別があることより当然であるというように 神が結び合わせ 一体とするのです。しかも このとき ヨアキムとスサンナのように あるいはイザナキとイザナミ スサノヲとクシナダヒメ オホクニヌシ〔の場合 ここでまだ触れていなかったが〕・スセリヒメ等々の例のように この身体の結合 いやその生活全般において 霊的な人とされ アマアガリの時間を持つのであります。
S者(女)に対するA者(男)の優位という意味での A者なる精神的な主導性が いまは問題ではない。それだけでは まだ 精神という肉体に従って生きることに同じい。つまり A者〔概念〕なる顔蔽いを取り除かれていない。また それはそのようにして 倫理ないし道徳である。欲情のない生殖なる愛にみちびかれるためには ここで あたかも倫理的な言葉として提出されてしまうかのように そうであっても たとえば《雅歌(または《歌のなかの歌》――旧約聖書)》の中の次の詩句が 聞かれるべきでしょう。

愛のおのづから起こるときまでは
ことさらに呼び起こすことも
さますこともしないように
(雅歌2:7)

これが イザナキ スサノヲ オホクニヌシ 源氏 また ヨアキムの〔そしてそれぞれの相手の〕道である。しかも この復活の道の前に あの第一の死を通過してのようにである。A語において みちびかれるのではない。むしろS語によってのように あの第一の死を拒むことなく――あたかも拒むことなく―― ただしその後の復活をあてにしてではとうていなく それぞれの試練をくぐり抜けながらも あの《スガの宮》に至るのである。しかし いまにおいては この試練はむしろ初めにおかれている。あるいはあの第一の死は はじめにあり もしくは すでに現代人として経験済みなのである。
復活というアマアガリの時間 そして対関係として 《妻籠みに八重垣作る》の生活 これが 《恥の感情〔という時間的な顔蔽い〕によって妨げられている〕(つまり 第一の死を死んでいる)のにかかわらず 人は――《功績(A語の概念である)に従ってではなく むしろ恩恵によって選ばれて》のように―― 史観として持たれるに到るのである。
したがって あの《愛のおのづから起こるときまでは / ことさらに呼び起こすことも / さますこともしないように》という神の言葉は むしろ より一層 女性に与えられたものである。ゆえに 男性に与えられた言葉である。
妻籠みに八重垣作るその八重垣を》というスガの宮の時間は したがって 時として実現するに到るのです。選び分かたれた者には たしかにそのように助けとして しかしその復活ののち ふたたびのように 第二の死に至らしめられる者にも 実はすでに証言として これらの言葉が聞かれるようになるのです。また 神の言葉は 全世界がその証言であるというものでもあったわけです。神話の時間 その奥に隠されたやしろの秘所なる時間 これを信じてならない理由はないと言うべきでしょう。
また 現代において あのオホクニヌシは アマテラス者に対して その国譲りを為し かれらを S圏(八重垣)から離して A圏へ追いやったという敗北つまり 第二の死を避けるための第一の死の引き受けという勝利によってその八重垣を――むろん服従と苦難を耐えつつ――守ったのですが 現代においては むしろアマテラス者(圏)を S圏の中へ引きずり降ろしてのように 自己のやしろの中で 神の言葉の助けと証言という両者の或る秩序をかたちづくるかのように 新たな八重垣を 《妻籠みに 作る》ということでなければならない。

  • 現代では 社会科学主体アマテラス者は 市民スサノヲ者の代表または代理である。主観(主権・共同主観)は S者の側にあり このA‐S連関の中で もし言われているような両者の癒着する連関が やしろ構造的に――あの国家による死の構造性を受け継ぐかのような――であるとするならば これは そのままでは或る反面教師でしかないながら すでに あのオホクニヌシS者のA圏への国譲りなる敗北を 転換させようとしている。逆に言いかえると その将来に保留された勝利を 実現させようとしている。このような歴史的な移行の問題としても考えなければならない。そしてそれは 《八重垣を 妻籠みに 作る》ということが 《A圏主導体制の中で 妻をこもらせるために》という八重垣から 《妻とともに作る》というインタスサノヲイスムへと おおきく軌道修正しつつあるのだと 歴史が捉えていることを意味しなければならない。

妻籠みに》というのであれば 女性を この歴史の共同相続人の場からはづすなどという道理も言われもないはづです。だから あのスガの宮なるやしろを 女性も男性とともに あるいは男は女とともに 自己の内なる霊屋(みや)としなければならない。しかし この霊の人は 身体を離れてはありえない。言うなれば 《男は 神の似像であり その栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。しかし女は 男の栄光である》は 女性の立ち場からも あたかもその女という性の中に この《男》が存在してのように 観想され行為に及ぶということであるとも考えられる。《女は 男の栄光であるから 男には被ってはならないとされるその顔蔽いを 被るべきである》がゆえに 《妻とともに 八重垣を作る》と――そう言われることがより一層ふさわしいというように――聞かれるのかも知れません。

  • これは やはり 旧い考え方だと見ます。(20071011記)

もしこれが 倫理や道徳として聞かれるのであれば 人は何を史観すると言うのでしょう。だから 史観 人間の生・存在は 信仰であるということが 現実的・科学的であると言われなければならないでしょう。この信仰の動態を見ない 少なくとも排斥する科学は 確実に非科学的な愚かな史観ということになるでしょう。

モーセイスラエル人の心のかたくなさのゆえに離縁状を書くことを許したということから 人びとは主(キリスト)に向かって どんな理由でも妻を離縁させてよいのかと尋ねた。・・・その答えは 命令する精神と服従する身体 支配する理性的霊魂と支配される非理性的欲望 他にまさる観想的能力と他に従属する活動能力 精神の知と身体の感覚にかんしてではなく 明らかに二つの性を互いに結ぶ夫婦のきづなにかんしてなされたのであった。
主は言われる。
――あなたたちはまだ読んだことがないのか。始めに人を造った方はこれを男と女に造り そして言われた。

それゆえ人は父母を離れて その妻につき 二人は一つの肉となるべきである。

と。かれらはもはや二人ではなくて 一つの肉である。だから神が合わせたものを 人が離してはならない。

それゆえ 人間はたしかに最初から男と女とに造られ それは今わたしたちが見かつ知るように 二つの性別を示している。それが一体であると言われるのは 結婚のゆえか あるいは女の起源が男の胸から造られたことのゆえである。
神の国について 14・22)

これは 《命令する精神(A者)と服従する身体(S者)》にかんしての議論ではもはやなく ただしく《妻とともに八重垣作る》ということの史観〔の原理に対する観想〕であることを語っており この当然のごとくある夫婦のきづなは この史観の原理たる言葉が 信じる者には助けとなり 不敬虔な者には証言となるその史観の過程そのものを ――そのまま現状肯定にみちびかれようとも――意味表示していると考えられる。

それゆえ わたしたちに罪と欠陥があるとしても それを創造者の不義に帰し それじたいはその種類と秩序とにおいて善いはづの肉体の本性を非難することは許されていない。善い創造者を捨てて造られた善に従って生きるならあb 霊魂に従おうと肉体に従おうと あるいは霊魂と肉体から成る全人間に従って生きるのを選ぼうと 善いことではない。なぜなら 霊魂の本性を最高善であるかのように讃美し 肉体の本性を悪いものだとして非難する者は 神の真理に従ってではなく人間の空しさに従ってそのように思っているのであって 実のところ 霊魂を肉的に求め 肉体を肉的に避けている者なのである。
神の国について14・5)

(つづく→2007-10-11 - caguirofie071011)