caguirofie

哲学いろいろ

#179

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十九章b イエスの《第一の死‐復活‐アマアガリ》というペテロの類型は その第三の基軸から全体的に見ることができる・この経験的な方程式展開にも 聖霊(この愛によってアマアガリできる)が派遣されこれを人間が受け取るということをとおしてである

エスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては 聖霊ダヴィデをとおして預言しています。この聖書の言葉(詩編69:25 109:8)は 実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの使徒の一人であり 同じ任務を割りあてられていました。ところで このユダは裏切りでもうけた金で土地を買ったのですが その地面で真っ逆さまに落ちて 体がまんなかから裂け はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り その土地はかれらの言葉で《ハケルダマ》 つまり《血の土地》と呼ばれるようになりました。
使徒行伝1:16−19)

と のちにペテロによって報告されるような結末 この史実としての実際をたとえ別にしても ユダにおける第二の基軸すなわちかれの復活をも 論議しておかなければならない。これは 聖霊の時代の問題であると考えなければならない。
ペテロの方程式展開の具体例と――ペテロも離反したのであるから 同じ裏切りであり あたかもそれとユダのこの例とは 相似関係(遠藤周作)をかたちづくるというのではなく―― まづ並行的であり 互いに重なる ないしは ペテロのそれが このユダの展開例を包むように成立すると思われることについて。
問題は ペテロの展開例について見たように その方程式の三つの基軸は そのまま 人間の意志によってではなく――たしかにみな 主体的に振る舞っているのではあるが なおこの主体的な意志によってではなく―― その原理的な展開(神の国)である神の手によって蔽われ 主体の意志そのものによる全面的な型どおりの展開はこれが 遮られ 成立することになったことである。
言いかえると むしろユダは その聡明さによって この方程式のそのままの展開を 観想しかつそのままそれが行為され推移すると考え またそう望んだかも知れない。イエスが 人間としても また神の子としても そのように 死に渡されずにこれを 欲して実行し すべてが成就すると考えていたかも知れない。(あるいはそれが この当時のユダヤにとって 政治的な解放として成ると考えていたかも知れない〔遠藤周作〕)。また 逆にペテロとしても 《あなたのためなら命を捨ててもかまいません》(ヨハネ13:37)という言葉の中に このように 人間の主体的な意志による行為と 史観の方程式の原理的な展開とが まったく同一であるように 推移すると踏んでいたかも知れない。ただ このペテロの言葉が 自分で史観の原理を行なうというのではなく 自分は 命をかけてもこの史観の原理に属くという意味のことを 表明しているとするなら たしかにかれは 神の手によって蔽いがかけられていた。その中の道を歩んでいたということだ。
こうして――この議論はあたかもここで端折るとするかのように―― イエスの十字架上の死をとおしてはじめて 史観の原理が成就したとするなら 今度は そのあとの歴史的時間においては みっつの基軸の方程式が 逆向きであるかのように すなわち 聖霊の派遣と受け取り(それによって アマアガリがなされる)という第三の基軸の時点から出発するというかのように 神(キリスト)の支配(国)という歴史的時間〔も〕が生み出されたと考えなければならない。ここに 歴史的時間の 輪郭と内容とその人間の側の例の具体的展開 これらの綜合としての聖霊なる神の時代を 見とおすべきである。ここで 《きみたちの持っているもので もらわなかったものがあるか。もしすでに受け取っているなら まだ受け取っていないとなぜ誇るのか》という使徒パウロの言葉が 成就する。
そうして 内なるやしろの史観の展開・形成を あたかも外に出かけるようにして エクレシアなるやしろの史観的展開・形成において 捉える時間が始まるのである。あたかも 史観の原理なるお方をすでに見出した者のごとく しかしその問い求めの場はこれを見出したとしてのように――しかも これは あたかもあの唯物史観と その構造的な一つの方向性として 一致するかのように―― 課題をこのように持つ。やしろの中で《互いに愛(自治・経営・政治)しあいなさい》ということの中に―― これがユダにおいては イエスの死を経過せずに ちょうどかれイエスの権能とかれらの政治的な権力によって そのまま成就してゆくと見られていた。逆に言うと イエスはそのような一人の人間であった。つまり同じことで 具体的には かれらユダヤ民族の政治的な解放のための傑出した一指導者であると 見られていた。
(たとえばこの政治〔という愛〕による解放が そのまま人間の解放 すなわち時間的存在たる人間のその罪=時間知の揚棄をもたらすと考えられたことは あのアブラハムに始まる共同主観なる時間の中で のちにモーセに与えられた律法によって すなわち律法の正しい行ないによって 罪が取り除かれるであろうゆえ 政治的あるいは経済的な解放が勝ち取られるなら あとは 主観つまりさらなる共同主観の社会的な発展によって すべて《愛》が成就すると考えられ信じられたということになる。しかし イエスは 神の子として この文字(アマテラス語)=律法(その信仰)と 神の律法(愛)(その信仰)とを 区別した。また それはそのように古き人が死ぬということ・だから復活ということをつうじてでなければ それが初めにあるのでなければ 成就せず空しいということを示すべく 示すためには それが神のみこころであるというほどに 《その杯を過ぎ去らせて欲しい》と願うと同時に 神に従順となられ 死に就かれた。つまり死と復活そして再生という史観の原理を 告知した。そのように告知するという手段を採った。だから 神は愛であり その同じ本性であると言いながら あたかもペルソナとしては別であるという聖霊なる神を つまりかれと父とのまじわりである第三のペルソナを その死後 復活してというほどに 地上において・および天上からの二度 遣わされた。それまでの蔽いが取り除かれた十一人の弟子たちは そこで これを受け取って 新しいアブラハム 新しい共同主観者らの父となったのである。
聖霊の派遣と受け取りというアマアガリにおいて キリストなる真理を人間が分有するという共同主観が与えられたが その真理そのものの直視 これは この生においては なお保留された。というほどに 政治的・経済的な人間の解放は 部分的なもの・あるいは手段であるということ が確かに同じく共同主観され そのようにただしく共同主観されたというほどに人は この政治的・経済的なやしろの再編成にも確かに向かいうるという史観の具体的な展開が 歴史的時間として 主観共同されるようになったのである。(一般にはキャピタリスム すなわち《近代市民スサノヲ・キャピタリスト》――資本家的市民および賃労働者市民を含む――によって 実現される運びとなった)。
したがって やしろの中で《互いに愛しあいなさい》ということのなかに イエスが弟子たちの足を洗ったという神の愛そのものが 見出され問い求められるというように である。(イエスは 解答・正解を示したのではない。その具体的な新しい主観共同化はなおも 人間の主観・主体的な行動に任されたというほどに 史観の原理が 河を越えた向くこう岸つまり彼岸として人間にとってあるのではなく 人間に宿ると信じられなければならなかったから。しかし キャピタリスムの成功・繁栄の中では いわゆる資本家的市民のアマテラス者となったものが その圏が 彼岸とされ あるいは これを超えたやしろの一形態像・アマテラス語理論が 悲願とされている)。
ペテロの具体的な方程式展開 あるいはユダのそれを包みこんだそれが このような歴史的時間として その中で・それをとおして 問い求められ 生きられると思うのである。(だからと言って ペテロのように イエスへの離反を わざと行なってよいということにはなるまい)。このように枠組みをはめることは それによって史観の範囲を狭くし あたかも神の愛(史観の原理)を この地上に引きずり降ろすことになるであろうか。十字架上のかれを ふたたび 地に引き降ろす結果となるであろうか。歴史的時間(それは まづ少なくとも あの第一のアダムの時代のそれを超えた新しい)なる鏡を その枠を まづ設定し これによってこの鏡から 十字架の死ののち天に挙げられたその人を見まつるということ そうしてこれは 鏡の中での主体的な史観の展開を その時代にふさわしく共同主観させるということではないだろうか。
ペテロの具体的な方程式展開 これをそのまま望み見るということではないであろう。なぜなら それは そのような謎(象徴)――たしかに 謎である―― あるいは その意味での天使に仕えることにほかならないから。史観方程式の原理に そのペテロとともに われわれは仕えることでなければならない。あたかも聖霊をすでに受け取ってのように――聖霊が神から来てその賜物でありつつ神であるなら―― 天使(神の御使いである)はこれをわれわれ人間は用いるのである。なぜなら ペテロの具体例は それによってわれわれが生き動き存在する源である三位一体の神の似像たる三一性(その像――しかしその像も ペテロという人間そのものではないだろう――)であり これは 人間の精神の中で 三つの行為能力としての精神(=身体)によって捉えられたその精神として 人間が所有し用いるものであるから。こうして 《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》史観の時代に入ると思う。
(つづく→2007-11-12 - caguirofie071112)