caguirofie

哲学いろいろ

#178

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十九章a イエスの《第一の死‐復活‐アマアガリ》というペテロの類型は その第三の基軸から全体的に見ることができる・この経験的な方程式展開にも 聖霊(この愛によってアマアガリできる)が派遣されこれを人間が受け取るということをとおしてである

わたしたちの歴史的時間の輪郭は 《お前たちはもうわたしを見なくなる》という第二のアダムもしくは聖霊なる神の時代(§16)。
この歴史的時間の中の史観の方程式は その内容として三つの基軸によって把捉される。すなわち 《第一の死(罪)‐復活(正しさ)‐第二の死の方向転換(裁き)》がそれ(§17)。これは 言うまでもなく 《そのかた(聖霊)は 罪について 正しさについて また裁きについて 人びとのあやまちを明らかにする》という上の枠組みに対応する。
しかし この三つの基軸の方程式は あくまで神の国に属しているものであり 人間キリスト・イエスの《十字架上の死(罪なき者による罪の償い)‐復活(真理)‐聖霊の派遣(神の言葉による裁き)》という 内なる人の秘蹟・外なる人の模範として与えられていることが その原理であり 人間ペテロの展開例は 《キリストの十字架上の死に対してかれへの離反(罪)‐復活(真理なる神の手による蔽いが除かれる)‐第二の死の方向転換(神の言葉・キリストを長子とする神の子への裁き)》である。しかし人間であるかぎり かれがはじめに《岩》――やしろのいしずえ――とされたことによって 不類似の類似において それにおいて方程式どおりに 推移する。あたかも《私の威厳が通過するやいなや あなたは岩の上に立つであろう》と言うごとく。また 《私の手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう》と言われるようにであった(§18)。
また さらに これら輪郭と 内容としての方程式 あるいは人間の側の具体的な展開例を その同じ歴史的時間において 綜合するというときには 方程式の第三の基軸すなわち 聖霊の派遣(《互いに愛しあう》とき愛すなわち神によって 第一・第二の基軸が浮かび上がり 認識され 人はあたかも よみがえる)をすでに見てのように また岩の上に立ってのように この岩なるやしろが 原理的には各個人の各主観の中に確立されたと見るほどに エクレシア(ムラ)つまり 生産態勢としてのイエ・キャピタルを容れてのスサノヲ圏としてのエクレシア(インタムライスム)の次元で あたかも完結するようにして 聖霊なる神の時代の展開として 推移すると見た(同じく§18)。(これを共同主観・コミュニスムとしたことは ここでは 繰り返さない)。


さて いまこのエクレシアなるやしろの中の具体的な展開はこれを まづ措いて やはり 聖霊の派遣を語られた最後の晩餐の席でのキリストのさらに他の言葉を聞くべきである。

エスは この世から《父》のもとへ移ってゆく時が来たことを悟って この世にいる弟子たちを愛し 徹底的に愛した。
ヨハネによる福音13:1)

すなわち そのようにイエスみづからが《弟子たちの足を洗》ったのちのこと そして ユダの裏切りの予告をしてユダがその席から去ったあと 《新しい掟》を次のように語った。

〔さて ユダが出て行くと〕 イエスは言った。
 ――今や 《人の子》は栄光を受けた。神の《人の子》によって栄光をお受けになった。 神が《人の子》によって栄光をお受けになったのなら 神もご自身によって《人の子》に 栄光をお与えになる。しかも すぐにお与えになる。子たちよ もうしばらくの間 わた しはお前たちといっしょにいる。お前たちはわたしを捜すだろう。《わたしが行くところ にきみたちは来ることができない》とユダヤ人たちに言ったことがあるが 今 お前たち にも同じことを言っておく。お前たちに新しい掟を与える。互いに愛しあいなさい。わた しがお前たちを愛したように お前たちも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば お前たちが私の弟子であることを 皆が知るようになる。
ヨハネ13:31−35)

《互いに愛しあいなさい》という《愛》によって のちに語られる《聖霊の派遣》を示されたことは 明白である。これが あたかも掟 史観の新しい掟とされた。また 《わたしがお前たちを愛したように お前たちも互いに愛しあいなさい》と言われるからには この史観の方程式は 神の愛と人の愛とにかかっている(推移する)ことは 明らかである。(《心を尽くし 魂を尽くし 思いを尽くして お前の神である主を愛せよ》これが最も重要な第一の掟である。第二も これと同じように重要である。《隣人を自分のように愛せよ》。律法全体と預言者の教え(つまり 旧約聖書の全体つまり第一のアダムの時代)は この二つの掟に基づいている》(マタイ22:37−40))。すなわち あたかもこの《愛》によって 言いかえると 方程式の第三の基軸なる聖霊の賜物によって 三つの基軸の全体が 推移するというかのごとくに。
エスご自身はこの愛を次のように示したとされている。

食事のとき イエスは 《父》がすべてを自分にゆだねたこと また 自分が神のもとから来て 神のもとに帰ろうとしていることを悟っていた。イエスは 夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ 手ぬぐいを取って腰に巻いた。それから たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い 腰にまとった手ぬぐいでふき始めた。シモン・ペテロのところに来ると ペテロは ――主よ あなたがわたしの足をお洗いになるのですか。
と尋ねた。イエスは 
 ――わたしのしていることは 今お前にはわかるまいが あとで わかるようになる。
と答えた。ペテロが 
 ――けっして わたしの足を洗わないでください。
と言うと イエス
 ――もしわたしがお前の足を洗わないなら お前はわたしとなんの関係もないことにな  る。
と答えた。そこでシモン・ペテロが
 ――主よ それでは 足だけでなく 手も頭もお願いします。
と言うと イエスは答えた。
 ――すでに体を洗った者は 全身 清いのだから 足だけ洗えばよいのだ。お前たちは清 いのだが みんなが清いわけではない。
エスは 自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っていた。それで 《みんなが清いわけではに》と言ったのである。
さて イエスは 弟子たちの足を洗ってしまうと 上着を着て 再び席に着いて言った。
 ――わたしがお前たちにしたことがわかるか。お前たちは わたしを《先生》とか《主》 とか呼ぶ。それは正しい。わたしはまさにそうだから。ところで 主であり 先生である わたしがお前たちの足を洗ったのだから お前たちも足を洗いあわなければならない。わ たしがしたとおりにお前たちもするようにと 模範を示したのだ。はっきり言っておきた い。召し使いは主人よりも偉くはない。もし このことがわかり そのとおりに実行すれ ば 幸いである。わたしは お前たちみんなについて こう言っているのではない。わた しは どのような人びとを選び出したかわかっている。しかし こうして 《わたしのパ ンを食べている者が わたしに逆らった》という聖書の言葉が実現する。そのことの起こ る前に 今 言っておく。事が起こったとき わたしが《主》であると お前たちが信じ るようになるためである。はっきり言っておきたい。わたしを遣わす者を受け入れる人は わたしを受け入れ わたしを受け入れる人は わたしをお遣わしになったかたを受け入れ るのである。
ヨハネ13:2−20)

ここでは 二つのことが明らかにされている。一つには 聖霊の派遣・受け取りは 《わたしを受け入れ わたしを遣わす者を受け入れる》人びとにおいて またそのことを はじめとして 生起するということ。もう一つには ここでの方程式の三つの基軸は 第三のそれが この上の第一点であるとするならば また第一の基軸は 《イエスが神のもとに帰ろうとしている》そのことであり そうして 第二の基軸は 弟子たちに語られたというほどに その弟子たちにとって のちに裏切ることになる一人の弟子・ユダのそれ(つまり 第二の基軸としての《復活》)を 焦点としていることになる。(ユダに入りこんだ悪魔の克服は 他の弟子たちにとっての第二の基軸ないし第三の基軸になりうる)。
この第二点は やはり 方程式の具体的な展開の例につながってである。先のペテロの例とは異なるのであるとも あるいはペテロを含めた十一人の弟子たちにも語られたというほどにペテロの展開例に含まれるとも 考えられる。(つまり ユダも《復活》するのである)。つまり このユダの展開例であるが それは 裏切りの予告としては 上に引用した文章にづぐ続いて 記されている。すなわちまづ その前に イエスが弟子たちの足を洗う前に 《すでに悪魔は イスカリオテのシモンの子ユダに イエスを裏切る考えを抱かせていた》(13:2)と ヨハネは述べたのち 次のように記す。

エスはこのように話すと ひどく動揺してあからさまに言った
 ――はっきり言っておきたい。お前たちのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。
弟子たちは 誰のことを言っているのか見当がつかず 顔を見合わせた。イエスのすぐ隣りには 弟子たちの一人で イエスの愛していた者(ヨハネ)が席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に 誰もことを言っているのか尋ねるように合図した。その弟子が イエスの胸もとに寄りかかったまま
 ――主よ それは誰のことですか。
と尋ねると イエスは 
 ――わたしがパン切れを浸して与えるのがその男だ。
と答えた。それから パン切れを浸して取り イスカリオテのシモンの子ユダに与えた。ユダがパン切れを受け取ると サタンがかれの中に入った。そこで イエスはかれに
 ――しようとしていることを 今すぐ 実行しなさい。
と言った。座に着いていた者は誰も なぜユダにこう言ったのかわからなかった。ある者は ユダが金入れを預かっていたので 《祭りに必要な物を買え》とか 《貧しい人に何か施せ》とか イエスが言いつけたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると すぐ出て行った。夜であった。
ヨハネ13:21−30)

このあと 《さて ユダが出て行くと》とつづいて 先に引用して 見た《新しい掟》の箇所に受け継がれる。ユダが 実際にこのあと 金でイエスを敵に売ったこと(またその内容と解釈)はこれを措くとすれば ここで 《悪魔が ユダに入り かれは〈しようとしていることを すぐ 実行する〉ことになる》このことが ユダにとっての第二の基軸すなわち 第一の死からの復活である。第三の基軸は 第二の死の方向転換ではなく それの実現ということになる。時間的(罪的)な存在で人間があるという第一の死が死なないという永遠の滅び。
《イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては 聖霊ダヴィデをとおして預言していまう。この聖書の言葉(詩編69:25 109:8)は 実現しなければならなかったのです。・・・

(つづく→2007-11-11 - caguirofie071111)