caguirofie

哲学いろいろ

#177

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十八章 イエスの《十字架の死‐復活‐アマアガリ(高挙)》が 史観の原理的な方程式である。しかしペテロつまり人間は 《イエスへの離反という第一の死(罪)‐復活(正しさ)‐第二の死の方向転換(裁き)》という経験的な過程をとる

キリスト史観の方程式 《神の国》の史観としての方程式は 《第一の死(罪)‐復活(罪の癒され主観の回復する正しさ)‐第二の死〔の方向転換〕(裁き)》にあるとわたしは言いました。また これを 倫理的に受け取るのではなく 単なる道徳として受け取ってもならない。しかもそれらは 経験的な行為をつうじてのことであるから 倫理にもかかわっているということでありました。
より分かりやすい例示を挙げるとすれば 古事記の神話において 《スサノヲのタカマノハラA圏追放(アマつ罪)‐よみがえり〔によるヤマタのヲロチ退治〕(正しさ)‐八雲立つ出雲八重垣〔スガの宮〕(裁き)》の図式。第三の基軸はまた 《ヤマタのヲロチ退治のとき奪ったツムガリの太刀をスサノヲが アマテラスに献げ贈った〔結果 アマノムラクモの剣とされ保持された(つまり A‐S連関体制ということと そこでA圏はむしろS圏の仮象であり反映形態ないし真似であるということ)〕》という一般に S者のA者に対する敗北(男尊女卑といったような女の男に対する従属)なる一たんは《やしろ(神)へのむしろ従順》 すなわちこれによるむしろ アマテラス者〔へ〕の裁きを含む。遠く 男への裁きを含む。
つまり 《裁き》には 第二の死の方向転換(真正のアマアガリ)と 第二の死そのものに陥る(自己を起源とする・人間にしたがったアマアガリ)との 両様の愛(神の愛)のかたちがある。後者も愛とよばれるのは あやまったアマアガリ者が やがて自己を嫌悪するに至り たといその第二の死はもはや避けられないとしても 神の敵として・悪としてでも 神に用いられる・その限り 存在という善を保持するということを 予定するかぎり 善であるからである。これはまた スサノヲの後裔のオホクニヌシが アマテラスに国譲りをしたという事例としても 同じ裁きを語る。原理的に 語る。
すなわちさらにこれは 第一の基軸(罪)において 《罪を犯さないために 死ぬべきである》という神の御子に従うという愛に発し この神の御子の復活(正しさ)とともに この愛がよみがえり 第三の基軸としては 聖霊なる愛なる神が贈られて 第二の死を向き変えらせるというアマアガリの時間(裁き)を得る。つまり あたかもそこに時の変化があるようにして 子なる神キリストから聖霊なる神・弁護者の時代へと移るというかのごとく。またこのとき 父なる神・創造者は 眼に見えないというように 主観・ことにはその記憶の核に保持されており そうしてこれらすべてにおいて しかし結局は なんらの時の変化もないというほどに 父と子と聖霊の三つのペルソナは 真実にして一つなる三位一体の神でいましたまう。
しかしこの観想は このように表現された観想は むろん神〔の言葉〕そのものではなく 人間の能力によって捉えられたその似像としての三一性であり 人間はなおも この三一性(思惟の似像)を 人間のものとして所有して 表現しあうというコミュニケーションにおいて 用いる。(つまり 主観の共同化)。
すなわち言いかえると 神は 三位一体なる神は この人間の経験的なできごとの背後に 不可変的にして常住の真理でいましたまう。
このとき 三つの基軸を持った史観の原理的な方程式は そのままに現われるということでは とうてい ない。その一例は 第一の基軸において 《第一の死》を人間〔の精神〕は引き受けるとは言え これが そのまま容易に 主体的にしろ或る種 偶有的にしろ 推移するとは思えない。容易でないというのは 簡単に考えても そのとき人は 神に――つまり自分にもそして周囲の人びとにも―― まったく見捨てられるのである。(《エリ エリ ラマ サバクタニ》)。これ(この時間)を 人間が 自分で生むかのごとく 主体的に作り出すとは思えない。復活(正しさ)あるいはアマアガリ(裁き)といった第二・第三の基軸とて 同じである。背後に――そして背後というほどに 或る種 言詮を絶して 人間の中に神が介入しつつ 背後に――神は そのはかりごとを持って みちびき手でいましたまう。これを 人間は 介入を受け呼ばれた者のごとく あとで観想するにすぎない。この観想が 漸次 その行為との理性的な結婚に生かされつつ かれは 神の朋友となる。
このように 史観の方程式が 原理的(人間超越的)であって そのままに目に見えて推移するものではないということは 聖書に あの最後の晩餐からキリストの磔にかけての弟子ペテロの言動に 明らかである。
キリストは まづ ペテロの離反を予告して 次のように言う。

《わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておきたい。鶏が鳴くまでに お前は三度わたしのことを知らないと言うだろう。》
ヨハネによる福音13:38)

事実そうなったのであるが つまりペテロにとって あの第一の死は このように離反をとおして実現したのである。裏切りという罪となって 第一の死にあたかもみちびかれ その後 よみがえりと第二の死の克服を受けることになったのである。
はりつけののち 《弟子たちはユダヤ人を恐れて 自分たちのいる家の戸を閉めていた。そこへ イエスが入って来て・・・かれらに息を吹きかけて言った〔のである〕。

――聖霊を受けなさい。
ヨハネ20:19−23)

と。すなわち 前々章からのキリスト史観の歴史的時間の枠組みとその内容は 具体的にこのようにこそ 推移する。しかし このことも 離反の前にペテロは 

お前はペテロ つまり《岩》である。この岩の上にわたしの教会を建てる。
(マタイ16:18)

と言われ 見通されていたのでないならば 方程式は作動しなかったであろう。
ここで キリスト史観は 別の――あたかも 別の――様相を持つ。

《私の威厳が通過するやいなや あなたは岩の上に立つであろう》(出エジプト記33:22)と言われる。
主が復活して御父の御許(みもと)に昇られるその栄光の座において主の威厳が移り行くや 直ちに真実に私たちは岩の上に堅固にされるのである。ペテロ自身そのとき堅固にされて 堅固にされる前には恐れから 三度 否認した》(マタイ26:70−74)お方を確信を持って宣べ伝えたのである。確かにペテロは予定によってすでに岩の頂上に置かれていたが 主はなお御手をもってかれを蔽い 見るのを遮られたのである。ペテロは主の背面を他日 見るはづであったが 主は未だ たしかに死から生へ移り行かれず 未だ 復活によって栄光を受けていられなかったからである。
(三位一体論2・17〔30〕)

しかも ひるがえって 《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。また主は言われる。


   見よ 私の傍らにひとつの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや 
  あなたは岩の上に立つであろう。
   私はあなたを岩の頂上に置こう。私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
   私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
     (出エジプト記33:20−23)》


と。 あのモーセに 第一のアダムの時代に言われたことは 第二のアダムの出現によって この《神の背面》は 人間キリスト・イエスであると考えられる(三位一体論2・17〔28〕)。こうして すぐ前に見たキリスト史観の別の様相は ふたたび はじめの様相に戻ってのように 史観の原理を提供する。
こうして わたしたちはあらためて 三つの基軸をもった史観の方程式が 第二のアダムの時代ののち あたかも聖霊の時代とよびうる段階に入っていると 裏付けてのように 見る。
こうしてわたしたちは 史観の方程式を なおも原理的に見てよい。すなわち 《第一の死(罪)‐復活(正しさ)‐第二の死の方向転換(裁き)》を あたかもその第三の基軸に立って 聖霊の視点からのように またこの意味で 岩の頂上(やしろのこの上なく安全な望楼)からのように 全体を捉え見てよい。これは 個体のやしろとしては 《罪(記憶)‐正しさ(知解)‐裁き(愛)》の三一性において捉え また外的なやしろとしては 《罪(経済活動)‐正しさ(自治)‐裁き(デモクラシ司法)》の構造的な過程として見ることである。このやしろの内外の両面の綜合は 後者の一面を 個体相互の第一次的な《三一性の綜合》として見ることを促す。すなわち 《岩》とよばれる教会(エクレシア)は スサノヲ圏の諸ムラおよび諸イエ・キャピタルから成る。聖霊が 《罪・正しさまた裁き》について 明らかにする》とは もしこれを鏡をとおしてというときの鏡を想定するならこの鏡をあたかも拡大してのように この次元において 固有の意味で言われる。また それはすでに あたかもはじめに 《もっぱらのアマテラス者》を S圏からA圏へ追いやってのように このやしろの次元を保ったからである。第二の死という裁きを このS圏から外的にアマアガリすることの罪・つまり〔反〕正しさとして 追放したA圏の〔S圏に対する〕分立というかたちで 方向転換したことにほかならない。いま この第二の死の方向転換という裁きが あらためて歴史的時間として つまり国家継体ということをその焦点として 問われていると考えることができる。
これが 聖霊の時代の基本的な課題のように考えられる。なぜなら 《罪‐正しさ‐裁き》の三つの基軸は その方程式の全体として 各主観の史観のなかに あたかもおさめられている時代であるから。なぜなら ペテロ個人が 原理的には神の愛の中で 方程式どおりの史観に固着し 経験的には この主に離反するという過程をとおして 方程式どおりにみちびかれたというあたかも構造的な歴史時間は すでにそれじたいが 堅固にされてのように 聖霊の時代を迎えるに至ったからである。われわれは いまも ペテロの類型を繰り返すというよりは この形式をすでに 基軸の第三の観点から そのように全体として聖霊が与えられてのように 飲みまつり かつ捉えてのように 推移することが可能であるから。このように われわれはすでに外に出かけてよい。また出かけるべきだと言うほどに 内的なやしろの形成にかかわっている。それは 一つに A圏の追放〔ということによる第二の死の方向転換〕のかたちを ふたたび点検するという課題であると考えることができる。嘘をつくことが好きな人は もっぱらのアマテラス者としてA圏・九重の中で生きてゆけばよいだとして 追放=国譲りをしたというのが 《A圏の追放》という意味である。罪でもあった。
あの歴史的時間の枠組みと 内容と ペテロの具体例とが このように綜合されて 同じくあらたな歴史的時間として そのすがたを現わしたと考えることができる。しかし その三つの基軸をもった史観の方程式は 同じであると解さなければならない。(人間にとっては 《イエスへの離反(神への敵対)》というほどに 時間的存在であることそのものにおいて《第一の死(罪)》が及んでいるということ また これを 第三の基軸である裁きなる愛から そこでアマアガリを見出してのように 逆向きに捉えるということ。つまり人間の三一性の史観の方程式が イエスの《十字架の死‐復活‐アマアガリ》という史観の原理的な方程式そのものに属くということ これである)。ここに 共同主観して 聖霊は真理の霊として《すべてのことを教える》時代であるということができる。次章に この点を継ぐことにしたい。
(つづく→2007-11-10 - caguirofie071110)