caguirofie

哲学いろいろ

#116

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第一節 スサノヲイスムは アマテラス性を排除するものか

同じく第四章以下を綴ってこれらを第三部としますが すべて随筆とします。前章までで その全体として いわば主張といったものは書き終えたと考えます。(ただし 第五章・六章・七章は 新たな展開となりました)。


一つの批判ないし疑問が 提出されました。神の似像であるという人間を 《アマテラス〔者性 / 語〕‐スサノヲ》連関といった構造として把握し その史観性を考えるとき むしろ精神にも比すべき《アマテラス者性》を排除するかのように これを貶めて その方向性をインタスサノヲイスムと言っているが この《スサノヲ性》は 人間の存在の基体を意味することはあっても その方向を主導する精神・理性はそこに見出されないのではないか したがって 《A‐S》連関という全体としての主観の方向性を考えることはいいが そこに《S者性》を前面に打ち出すことはまちがいではないか これでありました。
この批判には 一理あると思います。いや そう言うよりは その批判の内容は 正しいと思います。ただ ここでの主張の視点は むしろそうであるがゆえに これを 人間の身体性ともいうべき《S者》に 基盤を置くようにしてインタスサノヲイスムと言うのだと考えたいと思うのです。どういうことか。
動物には歴史がなく 人間に歴史(時間性)があるというとき この歴史をみちびくのは あるいはそのために人間の言葉に到達しようと欲するのは 人間の《A者性》であり なおかつ その基礎は 《S者性――〈スサノヲが時間的なことがらをつかさどる――》にあるのだということ。神学的には 神の言葉・キリストは 肉として人間として造られたのだということ これです。言いかえると われわれが人間イエス・キリストに似る者となるであろう神の国の実現(それは各主観においてである)は そのように この地上にあって 約束されており現実でもあり かつこの永遠なる神の観想はそのわれわれに保留されているのだということ。ここに スサノヲイスムの源流があります。また それは先ほどの批判の内容とともに 確かに《アマテラス性》が 排斥されるのではない しかもなおかつ人間の言葉としてはこの《A者》の単独して分離するかのようなアマテラス語は 止揚されねばならない このようになるかと思います。


アウグスティヌスは 《三位一体論》の最終巻すなわち第十五巻のはじめに 次のように記します。

創造主を認識するために読者を造られたもの(だから むしろ スサノヲ性)において習練しようと意図しつつ 私たちは今 ようやく人間という神の似像にまで到達した。
しかし人間が神の似像であるというのは他の動物よりも優れているもの つまり 理性( ratio )とか知解力( intelligentia )あるいは精神( mens )とか精神の力( animus )と称ばれるものに属している理性的・知解的な魂の他のすべての特性(これは アマテラス性である)を持っているからである。この精神とか精神の力という名称によって 或るラテン語著作家は 人間存在の中で卓越しており 動物にはないものを 動物にもある魂( anima )からその語法において区別している。・・・
(三位一体論15・1〔1〕)

ここで われわれが《A者》というべき《精神の力》は ラテン語では それを区別しつつしかも 動物( bestia )の魂( anima )から借りてきて  animus としていることは 注目すべきだと思います。広く人間を含めた動物の魂として《息(∽生き)》あるいはさらに 自然界の魂として《風(⇒霊)・空気》 このような広義の《S者》を基体として《精神の力》という《A者》が捉えられていることは 見逃すべきではないでしょう。
《息》をして《生きている》ことが いのち・史観として《生きている》ことにはならないながら 後者のA者性は 前者のS者性にもとづいている。
《もとづく》というのは 

蒔かれるときは朽ちるものでも 朽ちないものに復活し・・・つまり 自然の命の体が蒔かれて 霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから 霊の体もあるわけです。
(コリント前書15:42−44)

というような《栄光から栄光へ》のアマアガリが A者性においてではなく A者性をとおしてのS者の新しき人への復活であるというその間の経緯について言っている。
これは ある意味で自明の前提であって 目的を含む前提であって 史観にとって だから理論としても ここに帰っているべき前提だとここに明らかにしていなければならない。

だから――とつづけてアウグスティヌスが―― 私たちがこの本性を超えて 或る存在 真実は存在を問い求めるなら 創られずして創る本性としての神がいますのである。

と述べるとき かれは あるいはわれわれ人間は 動物と共通して所有する魂・身体性の前提に立って 語っているはづである。しかし 《A者‐S者》連関という人間の《本性を超えて》であるのだから 動物的な魂(S者)はもとより 人間の精神の力(A者)をも超えて 神の言葉(イエス・キリスト)によって・かれにおいて 《創られずして創る本性としての神がいます》ことを観想し 信じるのであり この神は 人間の理論としてのアマテラス語の中にというよりは 身体もしくはスサノヲ語の中に――むろんそれは 《S者‐A者連関主体》の全体であるが――いますのである。これは 《市民社会(ソシエテ・スサノヲイスト / ヤシロ)が 歴史のかまどである》(マルクス)と言えば そのことでもあります。
また 《〔われわれが〕アマテラス性なる精神はこれをとおして アマテラス語はこれを止揚する》とは 次のようにも解されます。いま 《神の聖霊が 身体もしくはスサノヲ者の中に宿る》というとき(――霊とは《現実》のことであるなら 自己を現実とする ないし実現すると言いかえることができるのだが――) これを ブッディスムの言うように 《ブッダのいのち(仏性)がすべての人あるいは自然界にも あまねく存在する》という命題と対比させるならば それぞれ 人間キリストあるいは人間ブッダをその模範として これを信じるということになるが いまきわめて図式的なかたちで言うと キリストは創造者でもあるが ブッダは創られた者すなわち人間の一人であるということ 従ってこの図式の限りで論じると 《創られずして創る本性としての神》を見ないブッディスムは 人間の理性ないし知解力あるいは精神ないし精神の力そのもの すなわちアマテラス語による或る種の観想であり信仰(もしくは哲学)であることになる。
さらに従って ブッディスム〔による人間理解あるいは社会の像の把握〕は 《アマテラス者‐スサノヲ者》連関の構造に即して見ると 人間理解としては《A者》を突出させ 社会像としては ブッダ自身 スサノヲ者として生きるのであるが 《王アジャータシャトル(A者)‐市民ブッダ(S者)》連関体制という両者・両圏の分離形態を すでに固定的にして一定の制度と見なしている。つまりそれは 人間理解としての《A者性》の突出 言いかえるとアマテラス語(倫理)の優位・規範性を打ち出す結果となっている。こう考えられることに 両者(キリストなる模範とブッダなる模範)の違いはある。
ゴータマ・ブッダが 一人の人間として歴史を生きた あるいは後世 これが経典として編まれたその一人の史観が ブッディスムとして形成された これは アマテラス語であり またそのアマテラス言語の世界においてさらに理論が展開されたのであり これに対して イエス・キリストが 一人の人間として歴史を生きたとき かれは 罪なき不当な死(ユダヤ人司祭たちが かれを反駁できなかったばかりか ローマ総督も《何の罪も見出さなかった》)に至るまで従順であったことによって 言わば全世界がかれ(神の言葉)を証言になった。したがって かれの史観としても編まれた聖書は むしろそのことを指し示すためのものであれ 聖書じたい 倫理規範としてのアマテラス言語から無縁である。聖書が読まれ講解されるとき それはかれの史観ないし理論の発展的な展開などというもとではなく かれの証言となるべき全世界を読むことの単なる一環としてある。
言いかえると そのとき人間は 神の似像にとどまることが可能となり それによって観想する神からの人間の中へ到来し 人間に近づくことになるのであるが ブッディスムにおいては あたかも逆にこの人間から あのアマテラス言語において ブッダなる模範を知解しようとし これに近づくことを行なう。これは 人間の理論であり その宗教・哲学性において倫理規範である。キリストの信仰は 倫理規範を超えた神の国を観想する史観であり 史観として生きることであり 人間の知恵を省察する哲学であるのではなく また 共同主観としての史観ではあっても この共同主観が アマテラス語において〔表現されたものを共通とすることによって〕 人びとに共有されるといった情況としての宗教であるのでもない。
人間の本性を超えて すなわち《動物とも共有する魂(S)−精神(A)》連関存在つまり理性的動物という本性を超えて 或る存在 真実な存在を問い求めるなら 創られずして創る本性としての神がいますと告白する信仰である。

  • これは 一人の主観の内に 完結している。だから 外へ出かけたとしても しようがなく 外から強制したとしても成立しようのない それじたい《信教・良心・思想の自由》を人間的な次元では表わすところの信仰である。人間の存在は 《考える・知解する》ところにあるというよりは 《愛する ないし あやまつ》ところに つまりその意味で 時間過程的な存在であると認識されるとき その史観なる生は 《信じる主体としての史観》ないしそのまま《信仰》と呼ばれるほうが 現実的であり科学的なのである。

創られた存在としての人間は 神ではないのだから しかしそれとして創られた神の似像なる存在にとどまるなら スサノヲ者の基礎に立って アマテラス語を用いて この史観を生きるということになる。キリストの信仰は 宗教となりえないものであるだけではなく――主観が宗教となるというとき それは この信仰(《A者‐S者連関》とその生きた個性)に 《A圏(主導)‐S圏》分離連関体制なる外なる共同観念の顔蔽いがかぶせられることであり―― その信仰じたいも 外に現われない。つまり その外に現われないことによって 全世界をその証言として持った神の言葉に固着して生きるその内なる人が あたかも外に現われるというように 信仰が愛(キャピタル・資本連関)をとおして働くというように 共同主観を形成する そのような生である。
したがってまた 《市民社会(S圏)が人間の歴史のかまどである》は そのまま神の似像たる一個の人間の主観の中において――市民社会の像といったなお外なる人においてでもなく 主観の中において―― インタスサノヲイスムとして 《S者が 史観の基体(かまど)であり A者なる精神を通して A語を用いて この史観を生きる》と 揚棄されなければならない。しかしこのとき S者・身体性・肉の情念に死ぬであろう 婚姻の純潔(イザナキ‐イザナミの対関係形式)は性欲を善く用いるであろう つまり《スサンナ(S)‐ヨアキム(A)》連関なる対関係形式において 霊の体として復活するであろうと言われるのである。
キリスト史観の方向性といったものをここで インタスサノヲイスムというのは 《精神にも比すべきアマテラス性を排除するのではなく また決して貶めるものでもない》ことは このようなことと考えなければならないでしょう。

  • またもしインタスサノヲイスムと言っても それが アマテラス語単独分立は排除して しかもこれを用いるなら アマテラス思想と言いかえても 同じことであります。がそうは言わないほうがよいでしょう。基体を離れる結果を招く恐れがあります。

(つづく→caguirofie070909)