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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第三部 キリスト史観
第一章 人間という種が変わる
第三節a 日本人にとって 律法とは何か
《律法は 罪の自覚しかもたらさないのです》というときの《律法》について もう一度 考えてみたいと思います。その意味で《倫理規範ではないこと》と継ぎます。
それは――神学的に申すならば―― 《律法の言葉は 律法の下にいる人びとに向けられており それは すべての人の口がふさがれて 全世界が神の裁きに服するためです》という史観――これが 史観です――によく表わされていると思われるからです。またこのことは 前節の趣旨と確かに同じことになります。言いかえると 重要なのは 《裁き》を倫理的に考えてはならないということです。
さて 《すべての人の口がふさがれて 全世界が神の裁きに服するために 律法の言葉は 律法の下にいる人びとに向けられている》ということ このことが 《キリスト史観は倫理規範(律法)ではない》ということを 歴史過程的に――そしてこれは まづ一人の人の一生涯を思うとよい―― 指し示します。
人間の言葉によって明示的なものとしては 律法は 日本人にとって――そして次のように言うときは 一般的でもあろう―― まづ 人間の《わたくし》が あたかも生物の一種であるという領域すなわち《スサノヲ者性という自己》から始まってのごとく この市民スサノヲは その時間的・偶有的・可変的なものごと・あるいは行為の中に 倫理的な一定の規範を見出しこれを捉え そしてそれを 公民性の両いいというがごとく 《アマテラス者性としての自己》として さらにこの《スサノヲ‐アマテラス》連関構造から成る自己に 《わたくし》の或る範型をかたちづくる。
次に この《自己の倫理的な規範ないし範型》は 言葉としての象徴(たとえば 正しさ)ないし存在としての象徴(かみ)といったような像を 抽象して表象する。これは いわばアマテラス語によって表現されたアマテラス概念である。おそらく社会(やしろ)も これらの《スサノヲ者としての自己の存在》および《アマテラス概念》等によって その関係行為がなされ かたどられてゆくであろう。したがって この社会の中で もっぱら《アマテラス語の倫理規範》を担い 存在としても生きようとする人びと(一般に 政治家) これを《アマテラス者》としたのであった。
- これが殊に 《政治》ないし《経営》行為に現われるというのは 人間的な尺度と次元でだが それらが《愛・意志》の行為を固有に担い この《愛》の行為は 《知解・経済》行為の人間的な土台性に対して 中軸性を持つであろうからである。
このような主観的には《スサノヲ‐アマテラス》連関構造としての存在の自己形成 社会的にもあたかも《スサノヲ圏‐アマテラス圏》連関体系としての倫理的な(経済・政治・社会組織をつうじて倫理的な)過程 これ自体が 律法であり 律法の前提であり それはアテラス語によって いろんなかたちが 表現され共有される。観念的にせよ共同化される。またそれらをとおして 社会における罪の――なぜならそこには つねに知解行為と意志の行為とのあいだにあたかも齟齬が生じているその意味での罪の――共同自治 これを行なうというものであるが このとき
このとき 言葉によって捉えられる明示的な事柄としてだけではなく 実体(経験現実的な実体)としては 殊に日本の社会にあっては イエイスム・ムライスム・和ないし踏み絵(これらによって 共同自治つまり秩序が保たれるというのであるからには)等であろうと考えられる。これを 共同観念または観念(=身体)共同和としての律法というのであった。
この共同観念現実の中では そもそも 一般市民スサノヲ者は アマテラス語ちう規範(それは ムライスムのようにむしろ見えない規範として より大きく実体である)によって つまりそのような律法によって 共存している。このことは言うまでもなく この《律法は 共同観念現実の秩序を保つ》というとき つまり罪の共同自治を担うというとき それは 《罪が揚げて棄てられる(つまり一人ひとりの主観形成の中で おのれの罪ないしひとの罪が 許し合われる)》というのではなく この罪の自覚しかもたらさない(つまり この自覚 反省的な意識すなわちアマテラス語において 罪つまり 知解と意志との齟齬 あるいは 意志と意志とのゆきちがいが 許しあわれてのように 過程されてゆく)》。なぜなら 律法・アマテラス語規範は まさに地上的・経験的な抽象概念・倫理規範にしかすぎず これによって人は 他律的に(つまり不自由に)しか生きていない。
律法は 聖であり霊であり 罪の自覚をもたらすというとき それは そのことによって人間が ますます人間的に(《スサノヲ‐アマテラス》構造者に)なるために築かれたものである。だから 《律法はその言葉は 律法の下にいる人びとに向けられている。しかしそれは このようにますます人間的となったすべての人の口が そのアマテラス語の行使による社会の中の支配的な位置の独占(むろん いわゆる私有財産を含む。ないし基盤とする)ないしこれの保守に進もうとするとき ふさがれる》ことのために与えられてというのが――人間がこれを受け取ったというのが―― キリスト史観のおおきく過程的な観想に属します。
いま この抽象的な論議を推し進めるなら この一つの観想が 行為を伴なわないものは―― 一面でそれは 精神の滞留を意味するも―― 主観形成という信仰ではなく 同じ共同圏念現実の中に同化した宗教ということになるでしょう。くどいように言えば これが 《キリスト史観は 倫理規範ではない》ことを 反対の側から 証します。また 正当にも キリスト史観は 律法の成就・アマテラス語の生きた完成ということを(模範なる道を観想することを)証します。あたかも見えざる領域で 不在なものの現在としてというように。
アマテラス語の生きた完成・その史観を生きることは 当然のように スサノヲ者においてこそ 備えられ行なわれなくてはならない。つまりもしくは 《スサノヲ‐アマテラス》連関者においてこそである。いま 抽象的な論議という前提で 或る種の飛躍をおこないますが そこで 《心の貧しい(アマテラス語規範に豊かさを見出し得なかった)人は 幸いである。かれらは神の国を見るであろう》という史観が これに続きます。かれらは アマテラス語の倫理規範(たとえば ムライスムの掟じたいに則る義(ただ)しさとその和)に ほんとうにはその問い求める道を見出しえなかったのであり そうでないなら 《義に飢えかわいている人びとは幸いである。かれらは飽き足りるようになるであろう》とは 言われなかったでしょう。むろんこのとき 飽き足りる道が いわゆる自己還帰であり その《スサノヲ‐アマテラス》連関主体としての自己の主観過程において 一つの方向性として いわゆる私有財産制(私有とは アマテラス語規範・法律制度のもとの スサノヲ的所有制である。つまり A語規範が外なる共同観念現実であるときまだ このスサノヲ者の所有は つまり言いかえると 《S者‐A者》連関主体による個体的な所有は 分離・疎外されているか または その途上にある)の揚棄=歴史的な進展に参加するよう おもむくことになります。ところが これらの言葉(《・・・は 幸いである》)は 必ずしも理論としてではなく 史観として・つまりアマテラス者の政治行為と同じ類型・同じ性格の意志・愛の行為として 言われたのであり これを宣言したまうた人は その義・その道が 天にあって(つまり この世には属しておらず) しかも ほかならなうスサノヲ者その人の中に宿ると――倫理規範を超えたいのちとして 聖霊として 宿ると――言って その模範を示されなかったなら 以前と同じ水準で別種の律法そしてこのアマテラス語によって他律されるいま一つ別のアマテラス人種の教唆で 人を欺いたことになるでしょう。
しかし 律法に生きる人は 律法によって死ぬのです。
(つづく→2007-08-18 - caguirofie070818)