caguirofie

哲学いろいろ

#95

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第一章 人間という種が変わる

第三節b 日本人にとって 律法とは何か

しかし 律法に生きる人は 律法によって死ぬのです。死んだ人が あたかも第二の死(つまり その死が死ななくなる)へと あの悪魔(死の仲介者)によって欺かれるがごとく 導かれるとき このアマテラス語の補強を(ムライスムの保守として)次々と その手段のかたちを変えて――しかも 悪魔でさえ光の天使に擬装するのだから その空中の権能を愛するかれらが 義に仕えているのだと見せかけることは わけもないことであって―― かの有名な《踏み絵》を提出します。これによって 罪の共同自治形態が保たれるであろうと主張し 実はかれら自身 地上の権益にしがみつき 支配欲に支配されたまま第二の死へと足を踏み入れていくのです。
このムライスムは 殊に日本の社会に強固な律法形態であろうと思われます。
《もっぱらのアマテラス者》である人の社会的解放が――まづ主観の内なる解放が――  急務であり第一の課題であろうと考える所以です。
そこで 《すべての人の口がふさがれて 全世界が神の裁きに服するために 律法がその下にいる人びとに向けられている》と そしてそのようにまづ抽象的に・しかし史観として 言う(共同主観する)ことが 先決問題である。私有財産制の揚棄 やしろの形態の再編成は これにつづく主観共同化の一過程であった。また もとに戻って このような神学に逃れることは 神学じたいを明かすためでは必ずしもなく 共同観念に寄留する共同主観にとっては より賢明であると考えられた。なぜなら ほんらいの人間の歴史は 〔主観の内的な〕神の国〔の歴史〕の進展にあると 言っていないよりは言っているほうがよい。またそれによって 社会階級関係の歴史的な進展が より一層――滞留しつつ前進するというように――明らかにされ 自己のもとに保持されうると思われたから。
すなわち まづ《神の裁きに服する〔といった言葉で 自己が明かされてのように〕――第二の死へ導かれないように 第一の死から主観が復活し・つまり律法〔による生と死〕が揚棄され罪が取り除かれる――》ことではなく その虚偽を(律法による罪の自覚をとおして ますます人間的となった人は その律法による罪の共同自治の虚偽の面をも見るその虚偽を)内的に棄てることを意味し そうでなければ 神の国はどこに存在するであろうかと問いつづけていなければならないであろうから。あるいは 無階級社会が到来すると 意識的にいま 主観(ないし客観)しつづけていなければならないであろうから。
われわれにとって《生きるとは キリストを生きることである》とは もし神がわれわれを殺そうと思ったなら このとき言われなかったでしょう。それは 何か経験的なものごとから抽象されてきた別種のアマテラス語ではないのであって またつねにそう受け取ってしまうべきではなく ただ ただ今の経験的な歴史つまり 日本社会にとってはムライスムなる共同観念律法が 第一の死からなお第二の死へとわれわれの魂を誘導する力をふんだんにあふれさせて来ている。これに対して沈黙しないがための小さなスサノヲ語にしか過ぎません。これを大きな――ともかくスサノヲ語に対しては大きな―ーアマテラス語であると受け取るなら それはそれとして 律法(ムライスム)によって生きてきた人が 同じ律法によって死ぬことにより その口がふさがれ――キリストのために生命を棄てる者はこれを得るといがごとく―― しかもその死者が復活してくることと拝察されることです。
十字架上のキリスト・イエスを飲みまつる――すなわち かれとともに《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまいしや》と言う――ことをとおして あのアマテラス語(ムライスム律法のパスポートであるような)の駆使によってこの世を渡るのではなく 一個の《S者‐A者連関主体》となった個体すなわちインタスサノヲイストの所有へと進展させるべく 巡礼を送るとまづ 史観していなければならないと考えられたのです。いつそうなるかではなく――《これからどうなるのか まだわからない》と言ってのように―― 今 ただいま この自己を受け取っていなければならない。無償で 神からの神すなわち 保証金たる聖霊を受け取ったなら その領収証をいま発行してのように この自己を見出していなけれならない。なぜなら 《汝みづからを知れ》と言われるとき この言葉を聞いたその時点ですでに――そこからさらに 理論構築をしないで―― この自己をたしかに同じ自己のもとに 人は見出していると思われたから。
人は主観の外に出かけてはならない。または この自己に外から共同観念の《鉄格子の世界》現実といってのように付着したものをすべて取り除き つまり自己を不在なもののように問い求めるのではなく すでに現在するものとして むしろこの自己に付着したものを取り除くべきとわれわれが言うのは このような古き人は死ぬとおしえられたからです。キリストの死にあやかって 律法に死ぬなら キリストと同じくその復活にあやかってのように 新しき人を着ることになると言われたから。
わたしたちは気が狂ったように言いますが このように人間がそれまでの生物種から種が変わるのだと。このスサノヲ語は 誘惑(いざな)うもののように 真実であると言います。その趣旨の方向性は同じもしくは違ったかたちで あたかもフォイエルバッハとともに 《神学の秘密は 人間学である》と言ってのように このように偽使徒であるかのように断言する人があっても 不思議ではないと察せられます。
ムライスムなる律法の揚棄というばいい 何か権力ないしそのアマテラス主体に外的にたてつくということではありません。内的にその虚偽を――ただ人間的な判断で義を問い求めていた人びとは その虚しさに死ぬその虚偽を 棄てるということです。村イスムなる観念(身体・地域共存の)共同和が そのような虚偽を〔或る種の光に変えて〕 アマテラス語〔なる権威〕をまとって 侵すべからざる律法であると誘惑するのです。この権威(もし権威ならその権威)に従うとき その下にある人びとの口がふさがれるといってのように このアマテラス語律法が その虚偽において 死にます。この虚偽は かの空中(雲の上)の権能に拠っている分だけ 蜃気楼であり 蜃気楼の支配がムライスムです。
この悲惨な身体共同和から魂を救うのは キリストの恩恵をもってしてのほかに かなわないと考えられた。ところが 人は この生においては 神の前で誰も 義とはされない。悲惨が取り除かれるというわけではない。わづかに共同観念秩序の形態 権威の制度を変えるということができる。そこで とりあえず――人間という種が変わる ことを措くべきというように措いて―― 《しんきろうの言葉は しんきろうの下にいる人びとに向けられており それは すべての人の口がふさがれて 全世界が神の国の歴史の進展にあづかるためである》と言ってのように 史観が むしろ心の中の内的な回転としてのごとく むしろ心の中の内的な回転としてのごとく 用意された。なぜなら こころは――こころが―― 身体(地域)共同和としての共同観念のその観念(しんきろう)を 観念(しんきろう)でしかもはやないと観念するからです。
こころの伸び(信仰)が このキリスト史観を生きることになるからです。いやむしろ すでにこれを生きて来なかったわけではない・それを愛して来なかったことはないと あのスサノヲイストの生きたまつりを獲得するというのは 日本人の常識であります。日本人にとっての律法はこのようであり そのシントイスムすなわち神の道は キリスト史観と 当然のごとく事の本質として 重なると考えられた。(名称はどうでもよいと言うように)。
(つづく→2007-08-19 - caguirofie070819)