caguirofie

哲学いろいろ

#93

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第一章 人間という種が変わる

第二節 ふたたび キリスト史観は 倫理規範ではないということ

新しい時代としての蝶は もはや蛹の時代を思わなくなるであろうとは いろんな視点から観想されうる。
《キリスト史観は 倫理規範ではない》という視点から言うならば それは 経験的な倫理が超えられ しかもそれ(倫理)を蛹の時代とするなら この蛹をなお内に包み込む・あるいは過程的に外に保つようにして棄てている(蛹が・または蛹の時代に対して人が その過去は死んでいる)というかたちで超えられているということ。これは すでに詳説したことがらであるが ここで再び 人間という生物の一種が変わるという命題の視点から その観想的な展開の入り口としたい。
たとえば いったいに人は 時間的な(時間的な倫理行為にかかわる)存在であるものの 倫理としては生きていないということ。倫理規範を《アマテラス概念範型》とすると かれは ほんとうにはアマテラス者――もっぱらのアマテラス者――としては生きてはいないということ。また これを律法(律法主義・律法主義者)の問題としても解せられることだ。
この立論は 一面で いま現実に 社会的な役割として アマテラス専従者(公民範型)が存在するではないかという観点から 経験事実的に批判されることを待ち受けており 反面では そうではなく いや 誰もが身体を伴なった存在でしかないのだから その身体的名条件・制約のもとでは きわめて私的な(規範類型から はみ出した)・そしてそれを指摘するにしても何にしてもともあれスサノヲ者(それぞれの《わたくし》)として 専業アマテラス者も含めて人は 生きているではないかという いま一つの批判を 織り込みずみのものとして 予想している。しかし すでにここで これら相い半する両面からの批判が 現実に成立するであろうとの視点から 上の立論は そのまま新しい時代の史観のあり方を予表していると考えるのである。
いま何ら倫理的な概念操作(証明)も無しに そう言える(その時代に入った)と考えるのであり そうであるなら われわれの言葉で言うならそのキリスト史観は すでに現実を その共同主観(常識)を 構成している。つまり これを あたかも一元的に キリスト史観と名づけ 規定(自己反省)的に了解しなくともよいであろうし 同時に その現実の共同主観の根拠ないし原理的な内容を――あたかも 自己は 精神と愛において滞留して生きるというようにして―― このように キリスト史観という言葉でもって捉えることのほうが 現実的だと言うことにもなるであろうと考えた。
このとき キリスト史観とは 共同主観の内なる信仰 なんなら内省=行為の形式(形相・その源)ではあっても それは何らいわゆる宗教とは関係がないということ。つまり 誰もが 自己の神を持っているというほどの意味である。言いかえると キリスト者であるとないとを問わず 原理としての・一定の・しかし見えざる自由な共同主観のもとに生き 倫理を含む経験的な行為としての主観共同の過程の中で その意味で各主観に応じて多様な 共同主観者として存在する。もし 宗教ないし諸史観がなお残るとすれば それは このキリスト史観のそれぞれ下位概念としての・その限りでの部分的な現実となる。キリスト史観は それほどに大きなものであり このように直接・明示的に開示されるほどに なお見えざる不在なものの現在過程なのであると言ったとしても むしろそう言わないほうが 非現実でありまた人間にとって不遜な生き方となると思われる。キャピタリスム共同主観のもとにおいては キャピタリストと非(ないし反)キャピタリストの 倫理的な相剋の情況にあったものが――なぜならそれは 人間の能力の一部としての知解行為の原理を 全体的な倫理行為の規範としたからだが つまりは 経済・政治・社会組織行為の規範=法律としからだが そしてそこには国家(ナシオン)が介在すると思われるが―― これが キリスト史観という原理のもとの情況では 言わば以前のような共同主観(倫理・法律となったもの)が動くという――動いてしまうという――ことを意味する。これは 知解(生産)行為としての原則つまりキャピタリスム共同主観が それまででは 全体にまで及びその顔蔽いのようであったものが あたかも蛹が蝶に変身するかのように 容易に 人間の本性上の自然的に 取り除かれた結果であり そのように 動かざるを得ないのである。
人間は この歴史過程を 現実に進むとこそ言われるべきである。また この時代が到来したと――すでに到来したと―― あたかももっとも愚かになって 言わざるを得ない。そのためには 史観の変換 暗きにあったものの顕教化という主体的な移行が 経験的・倫理的な制度としての社会関係の再編成とともに 実現されて行くというその時代の現在することをもってしか証明され得ないが また キリスト史観の時代の到来と言うということは それがそのような主体の変移によってこそ成されると言おうとすることに必ずしも主眼があるのではなく いちど自己の主観過程において滞留するかのごとく その新しい自己の確認を怠らないことが その一段階であるとこそ言うにすぎない。のであるが この確認・宣言をとおらないでは 人間という種の変化が あたかも盗人のように――主観がなお隠れたところでこっそりと変身するかのごとく 盗人となってのように――しか もたらされないであろう これを言うに過ぎない。
現代はすでに旧約の預言者の時代ではない。史観の頽廃を嘆き叱責するという意味での預言者の時代ではない。そしていまは これを神の国の歴史であると言ってのように 観想することを扱っている。この精神の――あえて精神のと言うが―― 一つの踏み出しは重要であると考える。むろん 精神のとは すでに身体の運動つまり主観の自己形成過程のことだが 身体として変えられつつあることを言うから それを捉える精神として言うのである。 


いま 一方で 既成の時代つまり キュピタリスム共同主観があたかも顔蔽いのごとく 全体として 主観的にも社会的にも 支配的である時代と 他方で新しく もしそれが顔蔽いとなっているなら その顔蔽いであるキャピタリスム共同主観を 理性による自然的に 取り除くことによって(そのとき 暗きにあったキリスト史観が あたかもそれ自体は目に見えては何の変化もないようにして 明るみに出されるであろうと言うが そのことによって) 主観的にも社会的にも このキャピタリスム内省=行為の形式が 動く・容易に動くという時代 これら両時代の差異については いま 触れない。ないし思惟(おも)わない。そして 要は この暗きにあるものが あたかも昼の明るさのうちに示され 人間の主観の全体として その位置に取り戻されるということ この過程をのみ扱うに過ぎない。
われわれがもしキリスト史観のうちに自己を見出すなら これについては固執すてもよいように思うのである。
史観が キャピタリスム共同主観に従属するのではなく 原理としての史観が暗きの内に隠されそれを一定の共同主観が顔蔽いのごとく蔽うとしうのではなく もう一度いいかえると 人間の情念の多様性によるそれぞれ部分的な共同主観(それは 知解行為単独的である。つまり 《コギト》をそう解した)のもとに従属するというかたちではなく 本来つねに全体としてある主観形成としての史観が その原理(それは 一つである なぜなら真理は一つ)にそれぞれ裏打ちされ かつ同時に その裏打ちの現実としては 人間の言葉によって明示的に表明され確認されて 知解行為としての共同主観(キャピタリスム形式)および記憶行為としてのそれ(デモクラシ形式)等と その自己のもとに置く(人間の有とする) また これによって それら各行為能力に応じた一定の共同主観形式は 主観的にも社会的にも 動くということ・人間の有として用いられるということ これはすでに現実となった方向として まづ明らかにされねばならない。この小さな事実にも信を置くようにして ここから出発しなければならないと思うのである。
もしキリスト史観の出発 すなわち人間キリスト・イエスの出現が かれ一個の人間としては小さなものであるものが 人びとから 神を冒涜しているではないかなどといったように非難され 大きなものと考えられ そのかれの誕生と死とさらに復活と高挙によって真に始められたとするなら いまの小さなものの暗から明への開示は これもすでに成されていt事柄であり――神の国の歴史はここにある―― 人間の地上の国にとっても その原理的な出発点であるものであろうし これが史観として(各主観に 一つのものとして・しかも情念的にではなく霊的な個性において多様な史観として) 主観共同化されることは そのはじめであると考えざるを得ない。キリストという永遠が 人間にとってキリスト史観として・つまり キリストが主であるとこととして 時間的に生起するのである。
この低きにある認識は しかし 生きた史観と考える。またこれを 忍耐して待望するキリスト者の信仰の 段階的な一形態は いまの時代の段階として言って 去ったという情況ではないかと考えるからである。
そこで この節の表題から言って このキリスト史観は何らかの倫理的な規範ではないのであって しかも同時に ある意味で倫理的な規則となっているキャピタリスムなどの考え方を 人間の有として用いる存在としての史観を言っているのであり つまりその現実の行為のことを言っているのであり それは たとえてみれば キャピタリスム原則が 主観的にはその共通の内省=行為の形式であり 社会的には これが全体として或る一定のビルト・イン・スタビライザーとなっているとするなら キリスト史観は 主観的に内的なビルト・イン・スタビライザーとして働いているであろうし(これが 内省=行為の形式を生かす) 社会的には 自由な・それじたいが動く内省よりの外的な行為形式であると考えられる。また 外的な自由な行為形式は 社会的に錯綜しているであろう。このとき キリスト史観つまり共同主観の原理としてのそれが 倫理規範ではないことは ある非倫理を能力によって為し得ないというごとく規範性を超えているkとより そうなのであり ましてや 法律化され 宗教(共同観念)となって 国教なり何なりとして統一されることはない。ないし統制の手段とされることはありえない。
社会(やしろ)が 全体として 教会(エクレシアないしキュリアコン)であるとしたわれわれは 信徒団体としての教会(エグリーズ / チャーチ)は 信教の自由のもとに この全体としてのキュリアコンにそれぞれ従うというかたちの中にあり キュリアコン(やしろ全体)をもはや国家という社会形態そのものであるとは・また その概念によっては考えないという社会制度を形作り 言いかえると 国法・国教などというときの国家(イエ・ナシオナル)は すでに概念として・そして社会形態的な現実として 消えていることを 結果的にしろ 見ているからである。
このとき われわれは いまの段階的な移行変え地にあたっては これを キリスト史観と名づけ またそう名づけたことがらによって 自己の主観形成および社会過程へとおもむくのであるが 具体的に儀式としての洗礼であるとかの信仰の入門あるいはさらにその何らかの意味での強制であるとかを すでに不必要とする情況にあると言うのであって むしろこの宗教性の不必要という情況にあるからこそ その情況を尊び保ち 史観の原理ははこれを キリスト・イエスに求めることができるのであり 求めたのであった。その意味で 神は死んだと言ってもよいし また内的な生きた史観(信仰の表明の有無を問う必要のない)としての神の言葉は生きて働いていると言いたい。実際 倫理を超えて超越的な力の存在は 神としか言いようの無い言葉・知恵 そして 被造物を甘美に配置する計画という存在である。

世界が造られたときから 目に見えない神の性質 つまり神の永遠の力と神性は造られた物に現われており これを通して神を知ることができます。
・・・
しかし わたしたちの正しくないこと(宗教・共同観念の・そして時に 法律とその裁き)が神の正しさを明らかにするとしたら それに対して何と言うべきでしょうか。人間的な論法に従って言いますが 怒りを発する神は正しくないのでしょうか。決してそうではありません。もしそうだとしたら 神はどうして世を裁くことができるでしょうか。またもし わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて その栄光を増すのであれば なぜ わたしはなお罪人として裁かれねばならないのでしょうか。それに もしそうであれば 《善が生じるために悪をしよう》ということも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷している連中がいますが こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
それではどうなのでしょう。わたしたちユダヤ人には優れた点がありません。すでに指摘したように ユダヤ人もギリシャ人も皆 罪に支配されているのです。・・・
さて わたしたちが知っているように 律法の言葉(アマテラス語・その規範)はすべて 律法の下にいる人びとに向けられており それは すべての人の口がふさがれて 全世界が神の裁きに服するためです。なぜなら 律法の命じることの実行によっては 誰も神の前で正しい者とされないからです。律法は罪の自覚しかもたらさないのです。
パウロ:ローマ書 1:20 / 3:5−20)

(つづく→2007-08-17 - caguirofie070817)