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哲学いろいろ

#92

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第一章 人間という種が変わる

第一節 第三部を始めるにあたって――ふたたび 《蝶は 蛹の時代を思わなくなるであろう》――

第三部は 《キリスト史観》の直接的な開示です。
《開示》とは いままで暗闇の中に――葬られてのごとく――あったものを 昼の明るさの下に 取り戻すことです。
《直接的な》とは これを 言葉によって人間の理性によって 表わすこと。
《〈キリスト史観〉の》とは キリストまたは神〔のお顔〕を 直接あらわすことではなく――誰も かれを顔と顔を合わせて 直接 見祀ることはできない(なぜなら 存在することじたいが知恵であり 知恵であることじたいが存在することであるお方の顔を 直視して生きない)―― 《暗きにあったものの直接的な開示》をとおして なお人間の謎において かれの像(すがた)を観想し かれの力と知恵を観想すること。(われわれは かれの背面〔人間性〕を見るであろう)。


《かれの力と知恵》とは 神の言葉――それは いかなる民族のいかなる言葉にも属していない・人間の内的な(発声以前にある)思惟の言葉によって 可感的に 受け取られる(だから 人間の内的な思惟の言葉も いまだ 神の言葉ではない。前者によって後者を 人間は 分有する)その神の言葉――であり われわれはこれを ユダヤ民族の伝統にしたがって キリスト(つまりメシア)と呼ぶ。このキリストは 人間の歴史的に ナザレのユダヤ人 イエスとして出現した。
キリスト・イエスが 《かれ すなわち 父なる神》を指し示した。われわれは このイエス・キリスト〔の信仰〕によって 《かれの像の観想》をおこなうことができる。
《謎》とは 不明瞭な寓喩であり象徴であり 《なお人間の謎において》とは 内的な思惟による人間の真実の言葉・真実の観想は 神の言葉とははなはだしく不類似である――人間の真実の言葉は 神の言葉にいくらかは似ており またそれを人間が存在の全体として分有するも 言葉は真実の内的な言葉も それからはなはだしく遠くかけ離れており―― 本質的なこの不類似においてということ。
これが可感的に・そして人間の理性によって 可能であるということは キリストは ホモ・サピエンスという生物の一種であるこの人間として あのイエスの中に 歴史的に出現したことによるものである。


神(父なる神)は その子である《神の言葉》によって 世界を創造(つく)られた。(だから神の言葉は 神の知恵・力である)。人間もその被造物であり 生物の一つの種である。人間イエス・キリストは このひとりの小さな存在である。ところが人間は この小さなものを大きなものに思い為し恐れたのである。かれらh かれらの人間の言葉(たとえば 律法による真実な言葉)によって思惟を運び 人間イエスの中のキリストすなわち神の言葉(これは 大きなものである)について行けなかった。小さなものであるイエスは 大きなものである神の力・知恵として・つまりキリスト・神の言葉として この大きなものを指し示し そのかれの御心を告知した。
《不類似の類似》――すなわち人間は 神の似像(にすがた)として造られた――を明らかにするかのように この神の言葉を 可感的に捉えるように為し この神の像を 理性によって観想をとおして見祀ることを与えた。
子なる神・キリストは 父なる神によって派遣されたのである。人間イエス・キリストとして派遣された神の御子は 創造者である父の御心を ――そのために遣わされたのであるが――告知した。神の似像であるという存在の人間が 可感的に 人間の理性によって 神を知る・すなわち神によって知られることが可能であるのは このことによる。
キリスト・イエスは 《わたしは 生命であり真理であり道である》と言われた。父なる神は 生命の制作者であり 真理なる光であり 知恵なる道である。子なる神すなわち神の言葉は 人間をそして世界を生かす生命であり 光からの光であり(光〔=父〕とその発耀〔=子〕は 一体であり 一体なる真理である。神の言葉という発耀の明かりによって 光源を読むのである) また 知恵からの知恵である。人間キリスト・イエスは この光・知恵に生きる・自己の同一に留まる知恵(またその愛)を愛する人間の模範である道である。
神が永遠・無時間であって その似像である人間は 有限・時間的な存在であるとすれば この道を生きるその人間は まづ当然 時間的・過程的・歴史的な存在である。すなわちかれは 他の生物と異なって 歴史を有し したがって この歴史は それをとおして神〔の知恵〕の捉えられる人間の歴史である。
ここで 神は 計画(はかりごと)なる至高の存在でもある。(子なる神は 計画からの計画である)。神の計画の不類似なる類似が 人間の歴史である。人間は その時間的・経験的なものごと・つまりその思惟ないし社会行為をとおして すなわち 経験的な社会の歴史的な事実を鏡とし この鏡を思惟することによって しかもなおこの鏡においてではなく鏡をとおして 神の〔栄〕光を映すように見つつ あの謎において観想しつつ 自己の生命(人間の生)とその源を 問い求め 見出し これを――少なくとも問い求めの場を見出してのごとく――受け取り 見出しつつ問い求めまた観想し 生きる。
世代の連結・時代の継起 すなわちそのような歴史において 自己を生んだ親あるいはその祖の生をそれぞれ 経験的・時間的に思惟を為してこれらを捉え これらに帰るごとく前進するというほどに かれは 自己をその似像として創造したお方の 真理・光・知恵・道そして計画の中に 帰るがごとく生きる。人生は このように巡礼であり 帰郷の旅を送るというがごとく 故郷すなわち神の国の 不類似の類似なる時間的な過程すなわち歴史である。
この歴史を観想し しかも一人ひとりの存在・その主観において 生きることが 史観である。これを人間の言葉によって 知解し表現するのが 歴史の理論である。また 歴史の理論〔をとおして 観想する当の主観つまり自己の存在 あるいは観想によって見祀るお方すなわち神の国〕を愛するのが 史観という行為(その過程・人間の生)である。
誰も自己の存在を愛さない者はいないというほどに この神の国を愛していない者はいないと言われる人間は その観想あるいは理論行為を たえず持続的にではないが発展的に・そういしてつまり帰郷の旅路として 継続して保持しつつ そこに史観として生きるほどに 謎において 生命の永遠を欲している。
この朽ちるべき身体を伴なった人間の生において 真理の光に照らされてのごとく 永遠の生命を愛し そのいのち・すなわち神の国に固着して生きている。この神の国の歴史が キリスト史観である。時間的な存在である人間は これをその似像である存在じたいにおいて 一方では この神の国(真理)を何とかして見祀ろうと清らかなあえぎをもって呻きつつ問い求めている(なぜなら 真理は人間を自由にする そして自由とは永遠の生命の獲得である) 他方では この地上の国・時間的な経験社会において この鏡をとおして上の神の国の観想を問い求めるごとく その鏡を理性的な人間の言葉によって捉えようとする。後者は 史観の理論である。

  • この理論には 大きくは 自然科学・人文科学・社会科学全般を含めよ。理論は その理論じたいすなわち鏡を見るためのものではなく 鏡をとおして見るためのものである。

キリスト史観は したがって 純然たる観想による神の国歴史観を主体とし 地上の国の人間の歴史〔とのかかわり〕を問い求め また理論する。
来たるべき時代は このキリスト史観が――《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》――つまり 人間の内的な思惟・言葉による一定の共同主観(原理としてのキャピタリスムおよびデモクラシ)が 人間的な尺度で見て支配的な社会・その共同自治(かつ生産)の様式におけるこれら共同主観にもとづいた人間的な一定の・かつ多様な(それは 人間の情念の多様性による)諸史観ではないところの〔しかし それら諸史観の原理を指し示す〕キリスト史観が
このキリスト史観が しかも神の国の愛は人間のおのおの主観にそれぞれ過程的に多様であることにより 固定的・統一的な一定の共同主観としてではなく(つまり 信仰の一元的な統制ではなく)――なぜなら パウロが《わたしにとて生きるとは キリストを生きることである》と言うことは 一人の人間としては 小さなものであり 大きなものは 非キリスト者をも包んた歴史の計画 つまり 信仰の有無にかかわりなくかれの・かのじょの創造者である。そしてこれは 人間の尺度によって測られ立てられた一元的な規範としての法律・統制ではない だから 統一・固定的な共同主観としてではなく――
人間の存在の類似をとおして いくらか可感的に見られるその類似ないし不類似の源の存在に基づくようにして 見えざる一定の動態的な共同主観〔の原理〕として 人間の内的に立てられている。だから それが共同主観(常識)であるからには 理想論であるとか経験から抽象された普遍的な倫理規範であるとかではないものとしえt 生活の日常において優勢に行なわれる時代である。この時代は 主体的にはつねに 神の国〔の観想・その史観〕において そして地上の国とのかかわりにおいても 現実的な主観共同化の社会過程・生活そえち 到来すると信じる。ゆえに 蝶は 蛹の時代をもはや思わなくなるであろうという命題。
(つづく→2007-08-16 - caguirofie070816)