caguirofie

哲学いろいろ

#115

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第七節b わたしの墜落

この観想を ただしいと見る人も これを 言葉として掲げ 前向きに善処するというよりも むしろ後向きに 自己の経験的な行為事実を振り返ることによって そこに神の言葉(神の力・知恵)〔の証言〕が見られたとするなら あの回転をとおして(心が内へ向き変えられるのです) この道に立ち戻るというように 自己の史観およびインタスサノヲイスムとしての社会的な行為へ 向き直りつつ進むようになると考えることがらです。この誘惑は 真実であるとわたしたちは 知っているからです。
あの古き人の衣服を脱ぎ捨て やしろの至聖所の前に裸で立つことによって 主観全体が新しき人を着ることになると人びとに ただしく生起することがらであると思うのです。《日本人》はこれに最も近いと お世辞ふうだと見られようとも 我田引水ふうに わたしたちは考えます。
《なぜなら 不敬虔の只中においてさえ 罰せられるべき悪徳が大きければ大きいほど賞讃されるべき本性はいっそう確かである》と言うことによって この論が ずる瑕疵来い取り入りでないことは 内なる人において・心の眼によって了解されることをわたしたちは知っているからです。
あるいはしかし この言辞は 《神の言葉を曲げ》たものであるかも知れません。ひとり行かなければ 独立主観でなければ 神の似像はとどまらないからです。しかしそこには それにもかかわらず あの蔽いはかかっていないと知っています。神の言葉を曲げたかたちででも 《神の前で自分自身をすべての人の良心の判断にゆだね》たいと思うことからです。この墜落を人は採らないでください。神が裁かれますように。
この墜落において 神の似像 あの身体的な肢体の仕組みに限定されない理性的な史観は とどまらないと思います。しかし この神の似像のとどまらない領域を包むようにして 神の似像のうちにとどまる神の国の栄光を 求めあらわして行きたいと願い欲します。人間的な尺度で捉えられた経験的な事柄(いや つまり 人間)を容れて 史観を生きたいと願います。


ここでもし この第七節の《わたしの墜落》が 少なくともこの第三章の全体を蔽うとしますと そうするならば わたしたちは 次のことを証明したに過ぎなくなります。すなわち 《わたしの書いた書物》ということは 《わたしという書物 すなわち 史観》の一つの付属品にすぎないということ。ここに たとい文字で書かれた書物に読者があるように 人という書物んも読み手があって それらがあいまって或る何ものかの証言になるとしたとしても これらはまったくの ありきたりの事柄をしか述べなかったということです。人間の歴史はまたそのように 可変的・偶有的なものにすぎないのだとも。
そこで問題はこうです。このような可感的にさえも誰にも明らかな経験的事実 これを 人間の言葉(内なる人の・どの言語にも属さない真実の言葉)は 超えていかなければならない。ところが この人間の真実の言葉も 永遠の真理・神の言葉(それは 目に見えない)に比べるなら それにいくらかは似ているが なお遠い隔たりがある。したがって求められることは あの信仰に拠る以外にない つまり かたちあるものは希望ではなく 不在なものの現在こそが 真理のありかということになり これを生きること であります。
ここに到達したむしろい青臭い結論は これがしかし キリスト史観であるだろうと考えます。《すべてこれらのことは あなたたちのためであり 多くの人びとが豊かに恵みを受け 感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです》とむしろ 恩着せがましく述べることを付け加えるならば わたしたちの務めは 終えられてことになるかとも思います。日本人にとってのキリスト史観は このようであるとわたしは思うのです。ここまでひっぱってきたわたしの責任は むしろこの負い目をこそ支払うための一つのよすがであったことの中にこそあると思うのですが。・・・
と申し上げれば 日本人にとっては 逆にその史観は このような堂々巡りの中にあることになるのでしょうか。いわば 《日本人》という罪の身体・古き人が滅ぼされるべきであるのでしょうか。その魂の死 不敬虔の死を 自己のもとに確認させられるという歴史の中にこそあるのでしょうか。この死が破壊されるべき内なる人の秘蹟と外なる人の模範は 肉において生ける人としては 存在しないと言うべきでしょうか。いやそのように 不在であるがゆえに 存在したまうのであり これへの小さいが偉大な一歩は たといいまだ踏み出されていなかったとしても むしろ希望の内にあるとこそ見るべきなのでしょうか。《わたしの墜落》をどう考えどう受けとめるべきだとお考えでしょうか。
永遠の堂々巡り 栄光の堂々巡りの中に日本人は生きて死んでいくのでしょうか。いやむしろ ここで《主よ早く来てください》という言葉は すべての人間に与えられた永遠の秘蹟にこそ属していると言うべきでしょうか。或いはただ マルクス者のように  実践〔をともなった理論行為〕に励むべきと言うべきなのでしょうか。
はたして キリスト史観とは いやキリストの派遣とは何であったのでしょうか。そしてキリスト史観とは何であると言うべきでしょうか。
この問いによって ひとまづ第三章を終えることにしたいと思うのです。

  • なお このように言うのは つまりこのように締めくくりの言葉をのべるのは 読者に《恥ぢをかかせるため》というよりは 読者を怒らせるためです。むろんそれが目的ではありませんが 日本人のあいだに共同主観が生起するためには――一般に西欧人にとって 恥ぢをかかせられ自己嫌悪に陥ることをとおして 至聖所に臨むことが備えられたと言ってのように―― この怒り(自己への怒り)の生起をとおしてのように 共同観念の隅っこの密教圏に隠されていたスサノヲ主観が見出されること そこに自己が到来すること これが内省・思惟の一過程として 必要であると考えたからです。あの顔蔽いを共同して取り除くためには この不遜をわたしたちはここに採りました。もう一つお世辞を述べるなら その余のことは われわれ日本人はすべてすでに 承知していることだからです。わたしたちは こう言って憚りません。

(つづく→2007-09-08 - caguirofie070908)