caguirofie

哲学いろいろ

#91

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第六節b まとめ――蝶はもはや蛹の時代を思わなくなるであろう――

新しい主観共同化の形式は 一定の共同主観をその時代の典型的な内省=行為形式とはしない形式である。デモクラシという一定の共同主観が 基調として趨勢であるという一時代のような時代ではない。これは人間の行為として 精神・記憶・その精神の秩序・その社会的な組織の原理として 観想され生起することである。(デモクラシが古いということではない)。キャピタリスムという一定の共同主観が 支配的な基調であるという一時代のような時代ではない。これは 人間の行為の中の 知解行為・知性・これによる生産行為ないし経済学の原理として 観想され生起することである。新しい時代は これらデモクラシとキャピタリスムのそれぞれ行為原理を内に容れて むしろ中軸として 共同主観が一定の理論としては固定的ではないことを基調とするような形式と時代である。
理論としてだけではなく 一定の固定的な共同主観(史観ないし つまり人物像といったようなもの)も ここでは必ずしも見出されない。共同主観者つまり 史観の内的な構造・その存在 これは ともあれ 一定である。

  • 《人間》性という意味では 当然だが 一定である。

したがって 知解行為(キャピタリスム)・精神行為(デモクラシ)を含み 愛の行為(インタスサノヲイスム〔と その一定でないものを この一つの言葉で呼ぶ〕)を中軸として それらのおのおのを人間の有(もの)とする全体としての人間が 人間の言葉に到達するという一定の――見えざる一定の――形式であり このような人間は その共同主観において互いに一つのものであ〔り かつ具体的には それぞれはむろん個性的・多様であ〕る。
シアリスム共同主観は キャピタリスム(原理として)およびデモクラシを内に容れ また愛の行為を中軸とし この新しい共同主観と同じもののように考えられる。その方向性は 同じであろう。もしこれに 現在かんがえられる程度に欠陥があるとするなら それは 愛の行為の中軸性が ほんとうには はっきりと定まらないか または 既存のキャピタリスム共同主観と共に歩むその反措定(たとえば 権威への逆らい)としての中軸性に拠っているからである。
シアリスム共同主観は 現実に言って また理論としても 愛を 共同客観ないし理論客観〔というむしろ主観の放棄ないし放心〕においている。

  • いわゆるソシアリスム革命の契機が生じてくるのを待つというようにしてである。しかしもしこの革命が歴史的必然のことだと仮りにしたとしても それは自然史的な過程の中に生起するであろうことだと部外者のわれわれからも考えられ そのとき――わたしは思うに マルクスも あのパウロと同じように―― 《権威への従順(盲目的な従順でないことは 論ずるまでもない)》なる愛を 説いたというよりは大前提とするはづであり そうしていなければならない。いや さらに というより アマテラス語理論の客観共同に 史観が陥らないとするなら その愛は 必然的にこの形式をとっていると考えなければならない。

これゆえに 愛の中軸性は はっきりとは定まらず――さらに何故なら 客観は主観の完成のようであるが 普遍的ではあってもつねに抽象的・知解行為単独的である―― また これの明確な提示を ともあれ 既存の愛の行為の形式(たとえば いわゆる富の分配としての愛)に批判的にしろ継承的にしろ対抗するというかたちでのみ為さざるを得ない。これは 既存のキャピタリスム共同主観の愛の行為形式(だからさらに これは 知解・生産・経済行為・その利潤追求に従属すると言われるそれ)の欠陥を憎むとともに ともあれ キャピタリストその人をも 理論的に(抽象的につまり非個人的に)にしろ 憎むかたちの中にあるからである。もっとも じっさいには 欠陥のゆえに人を憎むことはないと考えられるから(そのように 律法は支配的であるから) 人のゆえに欠陥を愛するところ(そのような身体=地域=民族=観念の共同和)へと行き勝ちである。
少なくとも 客観においては キャピタリスム共同主観の愛の行為形式一般の欠陥を憎むのであるから やはり客観において 人のゆえに欠陥を愛してはいなくとも その客観化された・しかし実際には何らかのかたちで主観にとどまるかれらの主観は 人のゆえに欠陥を愛していると思われる。《服従する者はゆるし 高慢な者は打ち倒す》と考えてのように 共同観念現実の主宰者(別種のアマテラス族)となろうとする。

  • キリスト史観によって A圏――新しいA圏である――の住人となるアマテラス社会科学主体も 何らかのかたちでもっぱらのアマテラス者となるという限りで その身体の空気のような性格は つまりそのような欠陥は 免れ難いかも知れない。ただこのとき S圏の主導性に立脚しているとする限りで あたかも神にのみ属するという愛つまり《高慢な者にはたちむかいたまうが 謙虚な者には恵みを与えたまう》なる神の律法を むろん自己の力で意識的に行なおうとするのではなく 人間的な尺度で考えられたところの意思によってだが〔あたかも〕演技者のごとく――言葉は悪いが 俳優のごとく―― 総合的に相互調整するものと考えられる。しかし 〔前〕古代市民の時代から 俳優(わざをき=業招き)とは 神のわざを観想的に共同主観しようというスサノヲ者総体のまつりを司る者ではあった。これが 新しいかたちへアウフヘーベンされるものと いま ひとつの理論としては考えられる。

全体として人間の言葉に到達するとき――経験的なものどとを超えて その言葉としては同じ経験的なことがらの言葉を用いつつ 人間の言葉に到達するとき―― 人は 知解行為ないし精神行為とともに愛の行為(経営・自治)をその中軸に据えて この言葉が発せられるのであるが この場合 その人すなわちその共同主観者としての内的な構造は 人間として 一定であるとしても その共同主観〔のかたち〕はすでに 一定・固定的ではない。
あたかも経験的に条件反射のような言葉〔のやりとり〕が 超えられ一たん止められて その同じ経験的な人間の言葉で〔信仰・共同主観が〕愛として働くのである。
これによって 愛の行為はそこに必ずしも 知解や精神に見られるような原理はないが(――インタスサノヲイスムというやはり愛の行為の原理としか言いようのないそれがあるだけで また 強いて挙げれば 権威への従順という一原則があるだけだが――) 特定の不在なものの現在として一定の・しかし自由な生きた愛 その史観となって現われる。

  • つまり超越者がそのように現象するというのではなく 人間が かれの霊によってのように 変えられる。

これが 明示的・固定的でない一定の共同主観である。次なる時代は このような愛の勝利の時代である。(その方向性はおおきく ソシアリスム共同主観つまりヤシロイスムと 同じである)。また これが 常識( common sense =共同主観)となる時代である。これが 経験から抽象された倫理的な規範でないことは 繰り返し触れてきたが すでに土壌として(つまり ナシオナリスム・ムライスム・イエイスムなどに代わって インタスサノヲイスムが すでに土壌として)成って またこれによって 人間が変わり(ホモ・サピエンスから別の種 species が造られるがごとく 変えられ) このあたかも変態を通過してのような時代となる。そして 蝶にもはや 蛹の時代を その当時の共同主観の考え方においては 思わなくなる。このように考えられる。
(つづく→2007-08-15 - caguirofie070815)