caguirofie

哲学いろいろ

#76

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第二節b 史観は至聖所に入る門であり 理論はその前なる幕屋である

さてわたしたちは もろもろの天を通過された偉大な大祭司(スサノヲ者のまつりを司るお方) 《神の子》イエスを与えられているのですから わたしたちの公けに認める信仰をしっかりと保とうではありませんか。わたしたちに与えられている大祭司は わたしたちの弱さに同情できないようなお方ではなく 罪を犯されなかった以外 あらゆる点において わたしたちと同様に試練に遭われたのです。ですから あわれみを受け 恵みにあづかって 時宜にかなった助けをいただくために 大胆に神の恵みの座に近づこうではありませんか。
大祭司はすべて人間の中から選ばれ 罪をあがなうために供え物やいけにえをささげるように 人びとのために神に仕える職に任命されています。大祭司は 自分自身も弱さを身にまとっているので 無知な人や迷っている人に 優しくすることができるのです。また その弱さのゆえに 民衆のためだけでなく 自分自身のためにも 罪のあがないのために供え物をささげなければなりません。また この光栄ある任務に誰も自分では就かず アハロンもそうであったように 神からお召しを受けて就くのです。
同じように キリストも 大祭司となる栄誉を勝手にわがものとしたのではなく
  《あなたはわたしの子
   わたしは今日 あなたを産んだ》(詩編2:7)
と言われたからこそ それをお受けになったのです。また 神は 聖書の他の箇所で
  《あなたこそ 永遠に
  マルキセデクの系統の祭司である》(詩編110:4)
と言われています。キリストは この世におられたとき 激しい叫び声をあげて涙を流しながら ご自分を死から救う力のある方に対して 祈りと願いとをささげられましたが そのおそれ敬う態度のために 神に聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず 多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして 完全な者となられたので ご自分に従順であるすべての人びとに対して 永遠の救いの源となり 神からマルキセデクの系統の大祭司と呼ばれたのです。
・・・
神は アブラハムに約束をする際に ご自身より偉大な者にかけて誓えなかったので ご自身にかけて誓い 《わたしはきっとお前を祝福し お前の子孫を大いに増やそう》(創世記22:16−17)と言われました。こうして アブラハムは根気よく待って 約束されたものを得たのです。そもそも人間は 自分より偉大な者にかけて誓うのであって その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人びとに ご自分の計画が変わらないものであることを 一層はっきり示したいと考え それを誓いによって保証なさったのです。それは 神の偽ることなどありえない二つの不変の事柄によって 目指す希望を持ちつづけるために世を逃れて来たわたしたちが 力強く励まされるためです。わたしたちが持っているこの希望は 魂にとって頼りになる 安定した錨のようなものであり また 至聖所の垂れ幕の内側に入ってゆくものなのです。イエスは わたしたちのために先駆者としてそこへ入ってゆき 永遠にマルキセデクの系統の大祭司となられたのです。


このマルキセデクはサレムの王であり 《いと高き神》の祭司でしたが 王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出向かえ そして祝福しました。アブラハムは マルキセデクにすべてのものの十分の一を分け与えました(創世記14:17−20)。このマルキセデクという名を解釈すると まづ《義の王》 次に《サレムの王》・つまり《平和の王》です。かれには父もなく 母もなく 系図もなく また 生涯のはじめもなく 命の終わりもなく 《神の子》のような者であって 永遠にずっと祭司です。
・・・
いま述べていることの要点は 次のとおりです。すなわち このような大祭司がわたしたちに与えられていて 天におられる《大いなる方》の王座の右の座に着き 人間ではなく主がお建てになった聖所と真の幕屋とで 仕えておられるということです。すべて大祭司は 供え物といけにえとをささげるために 任命されているのです。それで この大祭司も 何かささげる物を持っていなければなりません。もし 今も地上におられるのだとすれば 律法に従って供え物をささげる祭司たちが現にいる以上 この方が決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは 天にあるものの写しであり影であるものに仕えており そのことは モーセが幕屋を建てようとしたときに お告げを受けたとおりです。神は 《さあ 山で示された型どおりに すべてのものを作るように心がけよ》(出エジプト記25:40)と言われたのです。しかし 今 わたしたちの大祭司は それよりもはるかに優れた務めを得ておられます。さらに勝(まさ)った約束にもとづいて制定された さらに勝った契約の仲介者になられたからです。
もし あの最初の契約が非のうちどころのないものであったなら 第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう。事実 イスラエルの人びとを非難して次のように言われています。

《わたしがイスラエルの家 またユダの家と
新しい契約を結ぶ時期が来る》と主は言われる。
《それは わたしがかれらの先祖の手を取って
エジプトの地から導き出した日に
かれらと結んだ契約のようなものではない。
かれらはわたしの契約に忠実でなかったので
わたしもかれらを顧みなかった》と主は言われる。
《それらの日の後 わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は これである》と主は言われる。
《すなわち わたしの律法をかれらの思いに置き
かれらの心にそれを書き付けよう。
そうすれば わたしはかれらの神となり
かれらはわたしの民となる。
また かれらはそれぞれ自分の同国人に また それぞれ自分の兄弟に
〈主を知れ〉と言って教える必要はなくなる。
なぜなら 小さな者から大きな者に至るまで
かれらはすべて わたしを知るようになるからである。
わたしは かれらの不正を大目に見
もはやかれらの罪を思い出しはしない。》
エレミヤ書31:31−34)

神は 《新しいもの》と言われることによって 最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは 間もなく消えうせます。


さて 最初の契約にも 礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち 第一の幕屋が設けられ その中には燭台 机 そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また 第二の垂れ幕のうしろには 至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と すっかり金で覆われた契約の箱とがあって この箱の中には マンナの入っている金の壺 芽を出したアハロンの杖 契約の石板があり また 箱の上では 栄光の姿のケルビムたちが 《償いの座》を翼で覆っていました。こういうことについては 今はいちいち語ることはできません。
さて 以上のものがこのように設けられると 祭司たちは礼拝を行なうために いつも第一の幕屋に入ります。しかし 第二の幕屋には年に一度 大祭司だけが入りますが 自分自身のためと民の過失のためにささげる血を 必ず携えて行きます。このことによって聖霊は 第一の幕屋がまだ存続しているかぎり 至聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは 今という時の比喩です。つまり 供え物といけにえがささげられても 礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは ただ食べ物や飲物や種々の洗い清めにかんするもので 改革の時までこの世の生活に課されている規定にすぎません。
けれども キリストは すで実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから 人間の手で造られたのではない。すなわち この世のものではない さらに大きく さらに完全な幕屋を通り 雄山羊と子牛との血によらないで ご自身の血によって ただ一度 至聖所に入って永遠のあがないを成し遂げられたのです。なぜなら もし 雄山羊と雄牛の血 また雌牛の灰が 汚れた者たちにふりかけられて かれらを聖なる者とし その体を清めるならば まして 永遠の聖霊によって ご自身を完全なものとして神にささげられたキリストの血は わたしたちの良心を死んだわざから清めて 《生ける神》を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで キリストは新しい契約の仲介者なのです。それで 最初の契約の下で犯された罪をあがなうために キリストが死んでくださった結果 召された者たちが すでに約束されている永遠の相続財産を受けることができるのです。遺言のばあいには 遺言者が死んだという証明の提出が必要です。遺言は人が死んではじめて有効になるのであって 遺言者が生きている間は無効です。ですから 最初の契約もまた 血が流されることなしに効力を発するようになったのではありません。というのは モーセが律法に従って すべての掟を民全体に告げたとき 水や緋色の羊毛やヒソプとともに子牛と雄山羊の血を取って 律法の巻き物そのものと民全体とにふりかけ 《これは 神があなたたちに対して定められた契約の血である》(出エジプト記24:8)と言ったからです。またかれは 幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血をふりかけました。こうして ほとんどすべてのものが 律法に従って血で清められており 血を流すことなしには罪のゆるしはありえないのです。


このように 天にあるものの写しは これらのものによって清められなければならないのですが 天にあるものじたいは これらよりも勝ったいけにえによって 清められなければなりません。というのは キリストは 本物の模型にすぎない・人間の手で造られた聖所ではなく 天そのものに入られ 今やわたしたちのために神の前に現われてくださったのです。また キリストがそうなさったのは 大祭司が年ごとに他のものの血を携えて聖所に入ったように たびたび誤自身をおささげになるためではありません。もしそうだとすれば 天地創造の時からたびたび苦しまれなければならなかったはづです。ところが実際は 世の終わりにただ一度ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り去るために お現われになったのです。また 人間にはただ一度死ぬことと その後に裁きを受けることが定まっているように キリストも 多くの人の罪を取り除くためにただ一度 身をささげられた後 二度目には ご自分を待望している人たちに 罪を取り除くためではなく 救いをもたらすためにお現われになるのです。
いったい 律法には やがて来る恵みの影があるばかりで そのものの実体はありません。したがって 律法は年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって 神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら 礼拝者たちは一たび清められた者として もはや罪の自覚がなくなるはづですから いけにえをささげることは中止されたにちがいないではありませんか。ところが実際には これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄羊や雄山羊の血は 罪を取り除くことができないからです。
それで キリストはこの世に来られるときに 次のように言われるのです。

あなたは いけにえやささげ物を望まずむしろ わたしのために体を備えてくださいました。
あなたは 燔祭や罪をあがなうためのいけにえを好まれませんでした。
そこで わたしは言いました。
《さあ わたしは参りました。
聖所の巻き物にわたしについて書いてあるとおり
神よ あなたの御心を行なうために》
詩編40:6−8)

・・・
パウロヘブライ人への手紙 4:14−10:7)

この《至聖所 / 幕屋》の語を用いる比喩表現は これからの議論にも使いたいと思う。
(つづく→2007-07-31 - caguirofie070731)