caguirofie

哲学いろいろ

#75

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第二節a 史観は至聖所に入る門であり 理論はその前なる幕屋である

史観が 自己の主観形成の過程〔としての人間〕であるなら その理論は つねに工事中である。この第一原則は 次のような比喩で語られるべきである。
史観が 至聖所であるとするなら 理論は その前なる幕屋である。そしてこの幕屋はむしろ立派なやしろを構えるというよりは つねに生きたかたちで建築中であってよいと。
自己の内なる八域(八城)の奥の至聖所に 聖霊なる神 すなわち 御子なる神キリストが父なる神と人間を仲介したまうて かれの名で父が派遣なさった弁護者がいましたまうというのは わたしたちの共同主観の保証される所以である。つまり わたしたちは 自己の・人間の弱さにおいて 自己の力による弁護が尽きるとも ちょうどこの自己の知解を超えてというように 知識としてではなくとも いわゆる愛もしくは生命として この弁護者によって支えられる場合がある
むろんそのとき 人間的な尺度の倫理的な罪の共同自治の中において 互いに確かに罪人であるという一つの人間の原点に立ってのごとく またちょうど人間的な知恵としての弁論術に長けてのごとく 第三者・客観k・アマテラス概念の動員によって 背水の陣を敷いてのような弁護が与えられる場合も考えられなければならないのであるが そのようにして 理論を超えた何ものかを見ようとする場合には――しかもその後では 理論を伴なっての――聖霊なる弁護者が 言わば自由の源であるという考え方も出来ようかと思います。
いまこの仮説にしたがって論議するならば――つまりこれまでも無論 そうしてきたのですが―― このことによって 自己形成なる史観つまり人間は ちょうど八代(聖なる霊の代)となって 社会的に キュリアコン(やしろ)すなわち神の家を その分限に応じて 構成・形成します。社会的な役割分担は――諸精神の原理的な秩序(平等なる差別体系)に応じた社会的な組織行為(つまりスサノヲイスム・デモクラシは―― 言わばここから発します。
したがって アマテラス圏は 今と別のかたちでなお存続するかも知れませんが 神の家(やしろ)の原則的な構成は スサノヲ圏(ヤシロ・エクレシア)の一元的な組織 もしくは このS圏に主権があって A圏を主導する全体現実的な組織体として成り立ち この組織には 律法としての法律体系が 現在では一定の共同主観形態として 支配的でありますが(――つまり共同自治というのは この法治形式によっていますが――) この法律体系も 一定の共同主観形態がむしろ可変的な理論とされたそのかたちなのであると見られるようになるなら 共同主観つまり人間がむしろそれに取って代わる もしくは この法律は すぐれて人間の運用するものとなる。抽象的ながら このような形へと変わると思われることです。
また このような意味での共同主観 主観共同つまり常識は 未来時に属すというよりも 将来またはすでに現在のそれとして ちょうど近代市民スサノヲ・キャピタリストらの築いた共同主観の成果として 現実的であると言うほうが正しいと思われることです。もしこれが すでに当たり前のことであるとするなら このひとつの理論をふたたび固定された一定の理論とするというのではなく この理論は建築中として存在する理論なのだと共同主観されるとき そうなのだと考えられるゆえに このように明言したいということにもなります。
これが 《神から人間に到来し 人間に近づく》という共同主観だと思います。そしてそれは 或る時点で この共同主観が 破綻をきたしたとき 破綻をきたしたと思われたとき そこからは再び 何が何でも 人間的な尺度で測られちょうど建築が完成されたような一定の理論(ないし法律)にもとづいて〔のみ〕 この破綻という一つの疎外を克服していこうというのではなく 神なる弁護者にちょうど弁護をゆだねきってのように この疎外を克服を 社会的には 俟つという共同主観。すなわち現実的には この共同主観の基礎としてのスサノヲ圏が この弁護者を――法律体系・社会制度としても――与えられ受け取ってのように 個々の意思決定をおこなってゆくというそれです。
わたしたちは 共同観念現実つまり そのような倫理的・経験的なことがらを超えて 人間の言葉すなわち理性的動物の言葉に到達するはづです。《律法の顔蔽いを取り除いて 共同観念現実の鏡をとおして 主の栄光を見つつ》 理論なる幕屋を われわれの史観なる至聖所の門口に つねに建築中のものとして打ち建てるでしょう。これによって 知解行為の社会的な分野たる生産・経済行為の領域 これが行なわれることになる。
おそらくここでは 幾何学的な精神によれば なおと言うように 最小の〔二角協働関係の〕価値で 最大の〔二角再生産価値および第三角の〕価値を産出するという意味でのキャピタリスムが その一つの原理として考えられるでしょうし これ(キャピタリスム原理)を 現実全体に 協働二角〔および三角錯綜の〕関係に置いて 生産・経済行為が行なわれるというふうに見通してよいものと考えます。
したがって 殊に問題は つまり聖霊の宿る至聖所の入り口たる人間の史観にとって最大の現実問題は 第三の行為能力すなわち愛の行為ということにならなければいけない。(これが 倫理的ではなかったことは 言うまでもありません)。これは 当然のごとく 協働二角関係および個体の対関係における愛(インタスサノヲイスム)の問題であり その生産組織の経営行為(インタキャピタリスム)および家族の経営行為の問題であり 各自治態勢(ヤシロ)および広く社会形態(ヤシロ‐スーパーヤシロ連関)の政治行為(インタムライスム)のそれということになります。
もう一度言いかえると 対関係およびその第三角(つまり子女)から成る家族(イエ)において 秩序(精神)・生活(知解)・経営(愛)が 過程的に一体となっていることは無論のこと 二角協働関係およびそこから産出される第三角価値(利潤)をもって構成する生産態勢(イエ・キャピタル)において 組織(精神)・生産(知解)・経営(愛)が 同じくそうであり また 自治態勢(ムラ)が 社会組織・協業・自治を三つの行為能力とするというように構成されるのであり 現代においては これらS圏に対して 共同観念形態(国家 イエ・ナシオナル)の枠組みを伴なって A圏がこれらをまとめるというふうであると言うように 三つの行為能力ないし行為領域は ちょうどアマテラス概念によって普遍的に捉えられたというごとく 法律学・司法(精神) 経済学・立法(知解) 政治学・行政(愛)といった分権的にして統一的なやしろ(キュリアコン)を形作っていると言うその前提においてであります。
来たるべきインタムライスム=インタキャピタリスムつまり S圏の自治態勢=生産態勢の連合主導によるS‐A連関制のもとでは これらA圏のもっぱら行為するかに見える法学・経済学・政治学といったアマテラス概念理論は もっぱらS者市民の中へ投げて(降ろされて)棄てられるかのごとく つねにそれらが建築中であるというようにして 各主観がそれらをあたかも統一して一個の幕屋とするごとく 生きた史観のもとに 媒介的・動態的な理論とするということです。これらアマテラス理論を 各主観が用いることによって 生きたスサノヲイストの理論(過程)とするでしょう。
これらすべて至聖所の奥なるお方のお歓びになることであると言ってのように(――われわれは 弁護者をここに求めた。だから 人間の知恵・共同主観が そこから到来すると見て 現実となると考えた。しかしこれを たとえば キャピタリスム共同主観を理論したアダム・スミスが 仮説しなかったとは言えない。だからつねに問題は 初発の共同主観とそれの進展もしくは 時に停滞する共同観念との関係にあると言うことができた――) ともあれ われわれはそれぞれ史観となって ちょうどかのお方の道につらなることであると考えます。これが キリスト史観であり それは 信仰とは言えても 宗教とはなりえず その中で理論は むしろ一つひとつの現実の主題に応じて 共同主観して導かれるということにもなります。もしこれが空想であるとしても この空想(史観)から科学(理論)へ到来することはあっても そのように発展するというまでのものではないであろう。つまりは後者が前者に取って代わるというものではないと考えたことになります。


外交官パウロは これを次のように説き明かしています。つまりわたしたちは この現実を はじめには信仰〔としての史観〕として観想し いわゆる宗教的なと見られることもありうるような表現で とりあえずその思惟を共同主観します。(それは 必ずしもキリスト史観でなくともよかったが これは これまでの歴史の中で 総合的により一層ふさわしいかたちで よく明らかにすると思われるからです)。
以下 この章の終りまで続く長い文章です。

さてわたしたちは もろもろの天を通過された偉大な大祭司(スサノヲ者のまつりを司るお方) 《神の子》イエスを与えられているのですから わたしたちの公けに認める信仰をしっかりと保とうではありませんか。わたしたちに与えられている大祭司は わたしたちの弱さに同情できないようなお方ではなく 罪を犯されなかった以外 あらゆる点において わたしたちと同様に試練に遭われたのです。ですから あわれみを受け 恵みにあづかって 時宜にかなった助けをいただくために 大胆に神の恵みの座に近づこうではありませんか。
大祭司はすべて人間の中から選ばれ 罪をあがなうために供え物やいけにえをささげるように 人びとのために神に仕える職に任命されています。大祭司は 自分自身も弱さを身にまとっているので 無知な人や迷っている人に 優しくすることができるのです。また その弱さのゆえに 民衆のためだけでなく 自分自身のためにも 罪のあがないのために供え物をささげなければなりません。また この光栄ある任務に誰も自分では就かず アハロンもそうであったように 神からお召しを受けて就くのです。

(つづく→2007-07-30 - caguirofie070730)