caguirofie

哲学いろいろ

#89

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第五節b 愛の勝利としてのインタムライスム

このきわめて常識的な議論において明らかになることは まづ理論はこの過程の中に従属したかたちにおいて作られ用いられてゆく。第二に このように理論というものを理論することは 理論を愛することとしては 愛もしくは共同主観の自己の内における滞留であるということです。

  • 共同観念停滞と この滞留・寄留とは違うということ。現代において 《モラトリアム人間》といった存在の形式が捉えられている。すなわち 共同主観を共同観念に同化させない・つまりそれを 積極的に 猶予させるという意味で この存在形式は 主観の自己形式の滞留を表わし また 滞留の中にも主観の自己形成をもしそれが猶予するという消極的な意味では インタスサノヲイスムへの密教的な前段階的な胎動であると考えられる。
  • しかしわれわれは 積極的な意味にこだわることはない。上のようには言ったがそれは 一つの客観的な評論にしかすぎないから。すなわち インタスサノヲイスムは 外から形づくられるものではなく 内にあるものの発見 内にあるものへの到来 自己還帰でしかないから。

第三に この外なる寄留から来る内なる滞留は あくまで権威に従順でありつつ 時の変化とともに動揺する共同観念現実の高みを超えて その共同主観の構造を保ち あたかも古い権威に従うがゆえに 時が充満するごとく 人間という史観の中で或る種の転換がはかられるようにして その理論は新しいかたちを模索するということ。

  • 内面へ・内なるスサノヲイストの生きたまつりの泉へ 主観が向き変えられるからである。それは アマテラス者のれ一方統治の一時代的な崩壊 また それとともに生起するアマテラス予備軍の台頭 これらによって 《モラトリアム人間》形式を 或る意味で必然的に採らされ さらに内面へ向き変えられるということになる。

第四に このような共同主観の歴史的な変遷形式が 主観の内において 滞留しつつも停滞することなく 愛されるということ。つまり愛が自由に それぞれの主観・史観となるということ。第五に ここから理論が出し合われて 共同観念現実を新しいかたちへ導くということ。

  • 理論が先行するものではないということ。あるいは なお繰り返しになるが ここでは 共同観念現実の経験的な事例にかんする経験的な法則やそれにもとづく理論よりさらに前に 時代の転換期に際しての大きく共同主観形式にかんする理論が先行するということ。そしてこの理論は なおその前に史観ないし信仰にこそ先行されるということ。

第六に すでに触れたことがらとして この理論はわたしたちにとっては いまのたとえばキャピタリスム共同主観からまた別のなんらかの一定の共同主観へ変えられるという理論ではなく 現代と次の現代とにかんして言うと その来たるべき共同主観は 何か一定の共同主観形式が 現代のそれに取って代わるというものではなく しかもその形式が新たにされるものであるということでした。

  • つまり 現在の理論観・その位置が変わるという理論であり 理論の内容・要素は それほど変わらない。言いかえると キャピタリスム共同主観ないしもろもろの科学による知解行為は それじたいとして・また知解行為として むしろ〔さらに発展しつつも〕最高の段階にまで到達しているとも見られるのではないか。

第七に このことは 共同主観の寄留形態が別のそれへ変えられるというものでは必ずしもなく その寄留形態じたいが変革されるであろうこと。すなわち 主観の内において史観〔の精神〕が滞留するも その史観の全体的な愛の行為として もはや寄留という形式が止められるべきほどに 共同観念(肉の人)に対する主導性を獲得する そのように勝利すること。表現上 そのように考えられる。
第八に 権威の制度は この勝利の中に 共同主観され理論されること。
第九に そのような新しい権威体系の中では たとえば納税は 自己(インタスサノヲイスト)が自己に対して 共同主観(インタムライスム=インタキャピタリスム)が共同主観に対して すなわち言うなれば市民資本〔としての生産態勢〕の 市民資本という自己に対するものとして 為されるようになること。
第十に 協働二角関係における個体は 個人としての自己に対する所得に課される税は 廃止されること。一般に生産態勢がその所得によって公共的に分担する価値の供出(税)を課されて(または 自己に互いに課し) これによって 市民資本ないしインタムライスム=インタキャピタリスム制が運営されること。
第十一に だから 国家としての共同観念形態は ナシオナリスムないし律法としては 〔第二次的に第一の幕屋とその共同性として〕ゆるやかな・開放的な土壌として存続するが 共同主観・史観の中に見出されなくなる。
第十二に 共同主観はその社会的なかたちとして ヤシロの市民資本がその基盤とされ もしくはそのことが確かに確認されて現実となり 一個のナシオンを超えたインタムライスム=インタキャピタリスムのかたちへと その外なる運動を拡げ その内なる自己形成としては このS圏における基本的な動き(生活・協働)において満足するものであってよい。すなわち A圏は 国家を担うものとしては 消滅し もしくは 全体的なやしろとしてのS圏総体(そのときにもナシオナリスムは 一つの土壌でありうるし また そうでなくてもよい)の相互調整の機関として S圏に従属して存続する。
およそ このような事柄が考えられます。


現在なお あえてこのような理論は発展させないほうが賢明であると考え これだけに留めるべきだと思うのです。また それがつねに建築中・可変的であることは すでに触れました。そのことは言いかえると この一つの理論例を示すことが ここでの目的なのではなく このような理論が たとえばその一例として 唯物史観から導き出されてくるというのではなく――もっとも 唯物史観の理論を援用した部分が大でありますが―― このような理論によって主観共同されるべきような一つの流れ または別種の流れに 唯物史観も しかも各主観の運度として 参加するのだということを 唯物史観への一批判として 提出することが その目的であるのでした。(この第二部として)。
そのときには 人間の史観つまり生が 〔単に〕そのまま史観なのだと〔普通名詞で〕言われることはあっても その大前提に 唯物史観といった一固有名詞でこのたとえばインタスサノヲイスムが 説かれ信奉されることはないようになるだろう。言いかえるとわたしたちも わざわざキリスト史観というように あるいは信教の自由を侵すと見られ兼ねないような固有名詞を必要としないようになるだろう。むろん マルクスの思想も イエス・キリストの名も 残るではあるでしょうけれど。と考えられるからでした。

(つづく→2007-08-13 - caguirofie070813)