caguirofie

哲学いろいろ

#88

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第五節a 愛の勝利としてのインタムライスム

理論の基本的な事項を 前節以降はまとめると言いましたが 箇条としてのようにはこれ行ないません。新しい視点の提出のうちに これまでの理論を総括したいと思います。
ここでは 前節に引用したパウロの文章から 次の一節についてさらに見てみます。つまりその最後の一文です。

貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め 税を納めるべき人には税を払い 恐るべき人は恐れ敬うべき人は敬いなさい。
(ローマ書13:7)

納税や権威者への恐敬ということであれば これは 共同主観の言わば社会的・外的な事柄に属します。もちろん 原理としては 権威への従順〔という愛としての主観過程〕 これを基盤としているものでなくてはならないでしょう。ともあれ ここでは 共同主観の このような税(基本的には 価値創出 生産行為の協働関係)にかんする社会的な形態 これに対する主観形成を扱います。これを考察して 理論としてのキリスト史観の基礎的な検討を終えることとしたいと思います。

《ちから》は テツとコメとミュトスをつくる力であった。ちからは チ(血)がテツとコメのキャピタルをつくるチからであり このキャピタル(つまり つきあい・イエカラ・ヤカラ)をつなげるミュトス(神話 だが共同主観を宿すものとして)が ちカラであった。
このうたの成り立ちは ちから(税)による。すなわち 互いのスサノヲ(むらびと)らのちから(はたらき)とちからしろ(イネとヌノ)のつき合わせのインタキャピタリスムのかたちである。
(民主自由会議の基本的な考え方 第二部)

また ローマ皇帝への税金を納めるべきかどうかの問答は 福音書にも見出されます。

それから ファリサイ派の人びとは出て行って どのようにしてイエスの言葉尻りをとらえて 罠にかけようかと相談した。そして その弟子たちをヘロデ派の人びとと一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
――先生 我われは 先生が真実な方で 真理にもとづいて神の道を教えておられ 誰をもはばからない方であることを知っています。人びとを分け隔てなさらないからです。ところで どうお思いでしょうか。お教えください。ローマ皇帝に税金を納めるのは 律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか。
エスはかれらの悪意に気づいて言った。
――偽善者たち なぜ わたちを試そうとするのか。税金を納める貨幣を見せなさい。
かれらがデナリオン銀貨を持って来ると イエスは 
――これは 誰の肖像と銘か。
と尋ねた。かれらが 
――皇帝のものです。
と答えたので イエスは言った。
――では 皇帝のものは 皇帝に 神のものは神に返しなさい。
かれらはこれを聞いて驚き イエスをそのままにして立ち去った。
(マタイによる福音 22:15−22)

ここでの問題は もし 権威への従順という愛の行為の原理は措くとして しかしその愛の勝利の原理的な視点はこれを引きつづき持って 事を 共同主観の外的な第二次的な動きにしぼって見るとすると つまり 納税の制度あるいは広く 協働二角関係ないし生産態勢による価値の創出と分配・その供出および配分の問題に 焦点をあてて考えるとすると 理論は いかなる形の共同主観形態をとることになるか それが主観の内なる形成としてどのように思惟されまた愛(保持)されるか これになると思います。
基本的なかたちで考えられることは 権威への従順という愛によって 共同主観が保持されまた勝利すると考えられるなら この権威が 制度としては 共同主観(その過程)にのっとって 立てられ配置されるということ この中において神によって権威が立てられることを考えるということです。
今ある権威に従い これ(権威に従う秩序)をやしろの全体として鏡とし かつこの鏡をとおして 共同主観の原理が観想されるとするなら この権威が第一原因によって立てられることを その権威のやしろ内の制度としては 人びとの共同主観したかたちの中に 捉えるということ。なぜなら 神の国は 地上の国と その同じ領域に存在するとするなら 一つには そうであるがゆえに 第一の幕屋を主宰する皇帝(アマテラス社会科学主体)のものは皇帝に 至聖所の奥なる神のものは神に返すべきであるという史観が捉えられるものと思われます。
もう一つには 第一の幕屋ないし全体的なやしろにかんして そこに立てられる権威そのものは 至聖所からの〔歴史的な〕計画に由来するものとしても この権威の社会的な制度ないしその共同観念的な現実といった土壌形態については これを人間の共同主観(各時代にそれぞれ生起し継起した)によって 旧いものを〔愛することによってこれを〕衣替えしつつ そのかたちが変えられていったのであり またそのように変革することが可能であると思われる。
もちろん権威が立てられること これも直接には人間の自由意志に由来するとする原理は 共同観念の尊重と遵守つまり 共同主観の寄留形式 を意味表示しています。つまり要約すると 共同観念を尊び これに遵うがゆえに 権威の制度ないしその土壌つまり共同観念の社会的な形態は 時の変化とともにこれを 共同主観がみちびくというようにして 変革してゆくと思われる。そして問題は 第一に このような愛としての共同主観の自己形成とその確立にこそあり つまりそのような理論が 自己としての史観の中に確立されてゆくことにほかならず(――また その逆であってはならず――) 第二に 具体的な共同観念形態を新しいかたちへ変えるということ つまりそのような主観共同化の過程です。

  • その逆であってはならないと言うのは 《上から》A圏主導によって アマテラス語普及的にその顔蔽いをかぶせるという史観であってはならないということであり またそのことが あたかも《下から》S圏の中からこの新しい共同主観の形態化も起こるであろうというとき それは――この形態にかんしては――《上から》つまり新しいと言えるようなA圏によっても総合的に調整されるものであることを 少なくとも当面の歴史過程においては 排除しないということであろうと思われます。

このきわめて常識的な議論において明らかになることは まづ理論はこの過程の中に従属したかたちにおいて作られ用いられてゆく。第二に このように理論というものを理論することは 理論を愛することとしては 愛もしくは共同主観の自己の内における滞留であるということです。
(つづく→2007-08-12 - caguirofie070812)