caguirofie

哲学いろいろ

#87

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第四節b 愛の勝利を史観する共同主観において 国家はすでに蜃気楼である

《神の奉仕者として あたかも第一の幕屋のまつりごとをあづかり この権威者は 悪を行なう者には怒りをもって報いるのです》という言葉は じっさい 時代の継起やその転換にかかわりなく だから 国家形態によるA‐S連関体制が インタムライスム=インタキャピタリスムによるS‐A連関制になったとしても その神の家の中の社会的な役割分担としての権威のシステムにかんしては 変わりなく言えることでなければならないからです。
またこのことは あたかも この権威が 外なる共同主観のかたちであるかのように・そしてこの権威への従順という愛が その内なる共同主観であるというようにして 権威形態的な制度的な秩序は 共同主かにとって付随的・第二次的な過程ですのです。そのように 共同主観されなければなりません。
このような史観を生きることが 第一問題であり そこからの理論は この史観を生きる社会的な土壌にとっての衣替えを かたちあるものとして観想し 具体的な施策する史観の歴史的な継続を支える一助となるのです。しかしくどいように言いますが 共同主観の基本的な内なる構造といった意味での史観は むしろ変わらざる人間〔なる神の似像〕の存在形態であって この史観を生きることが 権威への従順をどこかで断っているいうものではありません。つまり 史観〔全般〕の愛と 権威への従順という愛とが 二つの別様の共同主観であるとは思われません。理論的に言って インタムライスム=インタキャピタリスムと言うとき それは 基本的な(初発の)近代市民キャピタリストが主張し実践した共同主観のかたち すなわち 生産行為のキャピタリスム原理と社会組織行為の〔キャピタリスト・〕デモクラシ原理 これらに従う愛(経営・政治)によってこそ その従順の持続(ときに忍耐)によってこそ 打ち出される理論であって もしこれを外しているなら その理論は空しいものとなるでしょう。このようにして 時の充満は生成してゆきます。
われわれは 神によって立てられた権威にしたがい その権威のよって立つ生産行為の原理と社会組織行為の原理を尊びこれに遵いつつ 愛の持続を共同主観し 共同主観を愛し続けるからこそ その時代的な継起としての愛(経営・政治)のかたちを いまのA‐S連関制からS‐A連関制へ変えよと主張します。S‐A連関制という理論を愛するがゆえにではありません。また A‐S連関制ないし国家形態という現実は 共同観念として 社会的な土壌であって 理論ではありません。その知解行為は キャピタリスムとデモクラシという原則にこそあり 共同観念・ナシオナリスムは 愛の行為にとってもその土壌です。ナシオナリスムにもとづいて かつ神によってその権威は立てられたと言うのは うそです。なぜなら愛は 内なる共同主観の中にこそあって 外なる共同観念現実には――《この世に倣うな》と言うかのごとく―― 見出せないからです。神に由来するものはないからです。
また 共同観念は律法であり 律法は聖であり霊であり 神から与えられたものではないかと言うなら こう答えるでしょう。この律法じたいが 権威を立てるといったような意味で 神はこれを与えられたのではない。神が 罪の子となったアダムの子孫に律法を与えられたのは この罪の自覚によってますます人間が人間的となるためであり その限り罪の共同自治が行なわれるというようにしてでもあり 律法を愛するのではなく それを与えられた神を愛するのであり自己を愛するのであり この人間の自己の愛は 律法をとおして 共同主観されるものであり 律法じたい その成文(ないし密教的なムライスム・ナシオナリスム)は 人間が愛すべき対象ではなく 人間が人間を愛するときの媒介物・その土壌にしかすぎないものであると。
律法に生きる者は 律法によって死ぬ。あるいは文字は殺し 霊は生かすと言われるように もし律法が霊であるなら この霊においてこそ〔神が〕愛されるべきであり そのようにして愛〔としての共同主観〕が形成されるべきであり またさらに この律法そのものが・ないしナシオナリスムといった共同観念が 愛されるとか愛されないとかというものではありません。また 律法にもとづく共同自治の様式の中においてその権威も定められるのであって 律法ないしナシオナリスムが直接 この権威を自己にもとづくようにして制定するのではない。それは 人間〔の愛(経営・政治行為)〕が立てるのです。この愛の行為の原理において 権威は神に由来しないものはないと述べられたのです。
あたかも キャピタリスム原理やデモクラシ原理が 知解行為ないし精神・記憶行為において 神に由来するものであるというように。だから 権力は悪しきものとして回避すべきではないが 秩序が守られなければならない。われわれは この秩序によって先行せる義(権威)に随いつつ 義(その愛)によって 悪魔(愛の蜃気楼を作る)を克服すべきです。
権威は神によって立てられたものですが また共同観念の自治形式は 律法によって成ったものですが もし共同観念者ないし権威者が 律法そのものを愛し律法によって生きることにより 律法において死ぬ(誰もこの律法を愛すほどには 律法を守っていない)なら この権威者および権威に従うことによって そのときエ律法によって死ぬべき人間を空中の権能によって支えるその悪魔(ないしアマテラス予備軍)の提出する蜃気楼(たとえば 国家という共同観念を至上とする幻想)を克服すべきです。それは 愛の土壌が 死(死者)を捕獲し自己のもとに拘束する悪魔の差し出す蜃気楼へと 変えられた姿であり――空気のような身体をもって アマテラス概念=精神規範的に自治するアマテラス者の崩壊の過程で これを幻想的に支えようとするアマテラス予備軍の活動の姿であり さらに言うならば アマテラス社会科学主体があのアマのイワヤドに身を隠さざるを得なくなり いけにえとするべきスサノヲを必ずしも見出せず アマテラス予備軍が 時に物理的な力によって 幻想を共同化しこれを現実だと言い張るときの姿であり―― ナシオナリスムならナシオナリスムという愛の土壌それじたいは それじたいで共同観念現実であり またそう言うほどに 同じくそれじたいは意志の主体でもなく そうして現代では すでに律法(憲法)としてもこの国家に主権があるのではないことが明確にされており この国家がすでに蜃気楼〔となりうる共同観念現実〕であるなら それを愛するとか愛さないとかには なじまない一つの社会形態土壌である。
権威者に従う愛の行為者は 共同主観の〔既存のでもある〕義によって この蜃気楼の源である悪魔(子守り唄)を克服すべきなのです。主観の中に 眠れる停滞した主観として・だから土壌としても空中楼閣となった主観 つまり観念として この国家がなんらかのかたちで入ってくるなら この眠りから覚めるべきです。ナシオナリスム(民族=言語の同一性)一般は 愛の一つの土壌であるかも知れません。しかし 権威への従順を保持するなら このナシオナリスムという一つの土壌において 律法には従いつつ しかも蜃気楼となたt国家形態には 主観を見出してはなりません。それは 客観でもありません。ナシオナリスムが一つの土壌であり 律法(法律)がアマテラス概念による一つの客観であるかも知れませんが もはや 今ある権威(主権の存する市民によって立てられた)に従うなら 国家は まったくの蜃気楼です。A圏はまだ A‐S連関形態という共同観念の現実を構成しています。しかし 古代市民的な共同主観のかたちとして出現したA‐S連関形態が すでにいま存在するキャピタリスムとデモクラシ原理にもとづいて 共同観念現実として 作用しているとしても これを昔のように 《国家 イエ・ナシオナル》として見 ここになんらかの愛の対象であるとか・まして愛の主体であるとか また 共同観念現実の一部つまり現実だるとかを捉えることができません。過去の死者を自己のもとに保持しつづける悪魔(かれは はじめから真理の中にいなかった)が その保持の一手段として差し出す空中の楼閣です。過去の死者が主観の中にいま復活してくるなら これととともに つまりそのような共同主観の確立とともに 蜃気楼と見なされ そう見なされると同時に崩壊する・主観の中の死者(眠り)なのです。
もし いまなお《国家》という言葉は存在し また A‐S連関という社会形態じたいは現実ではないかと言うなら 同じそのA‐S連関形態の律法(憲法)が 市民(S者・S圏)の主権を 観念共同かつ共同主観しているのであって それは 要らなくなった古い上着のようなものであるのです。国家成立の以前つまり前古代市民的な〔プレ・〕インタムライスムの時代には この上着はなかった。また 古代市民が その共同主観の確立の一手段としてもこの国家形態という上着を必要としたというなら それは アマテラス普遍概念のともあれ普遍化 言いかえるとスサノヲ者市民の公民アマテラス者化のため したがって 現代から見て歴史的には 公民アマテラス者をその主観の内に宿した市民の市民化のため 〔プレ・〕インタムライスム化のため であった。そのためにのみこの国家という上着を 人間の歴史の一定の期間において 必要ともしたと考えなければなりません。
共同主観の歴史的な変遷は――いま形而上学的にだが――ここにあり 言いかえると 共同主観の時とともに変化した結果としての眠りは ここに見出され このことは まさに ほかの外なる場所のどこにでもなく そのように 主観の史観するところに存在する。すなわち 死者が復活してくる つまり国家の以後と以前とを問わず見出されるスサノヲイストの生きたまつりの源流が 史観されるそのことであります。またそのような理論であり なおかつこの理論は これを知る知らないにかかわらず 自己の主観の内に 意識するとしないとに関係ないと言ってのように 愛されるものであり それによってわたしたちが行き動き存在する至聖所なる愛そのものであるものなのです。
この愛を そこに経済学的な分析がなくただ形而上学的な議論にすぎないから 幻想だと言う人は その分析・施策を考えていただきたいと思います。この愛の勝利が 共同主観の勝利つまりコミュニスムなるやしろの実現と言おうとするのですが しかしそれは 主観の自己形成としての過程にこそあって またこれを ただアマテラス語・その精神において知り保つというところにあるのではない。なぜなら この形而上学の精神は ほかならぬ社会的な身体の運動を基体としつつ生きるその姿を こういう普遍的な概念で説明することも知っているのだよと言って 擁護するものであり 時には本音で語る場合には 逆であって(つまり 人間なのだからしょうがないという言い回しとともに逆のことを語るのであって)その〔身体の運動の〕反映そのものでさえあると言わなければならないのですから。
(つづく→2007-08-11 - caguirofie070811)