caguirofie

哲学いろいろ

#86

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第四節a 愛の勝利を史観する共同主観において 国家はすでに蜃気楼である

われわれが具体実践的に目指すところは ここでさらに 対関係(ないし家族)の次元から市民社会(ヤシロ・自治態勢=エクレシア・・生産態勢=イエ・キャピタル)における愛としての共同主観のあたらしい栄光です。
修身・斉家・治国・平天下ではありませんが このような順序となります。またこれは そのように 家族と市民社会の栄光(共同主観)そのものにおいて 社会形態(国家・A圏=スーパーヤシロ・そして全体としてキュリアコン)における愛としての共同主観の勝利を 同時にその内容としています。またさらに言うならば 一社会形態の枠を超えていなければなりません。また これらの運動の方向を 規定するならば規定すべきものとして インタスサノヲイスム(愛) インタムライスム=インタキャピタリスム(経営) そして開かれたS‐A連関制(政治ないし共同自治)もしくはこの一個のS‐A連関形態(一つのくに)を自由に超えるインタムライスム=インタキャピタリスム(同じ用語ですが)です。そしてこれらは あくまで史観としての共同主観にとって 第二次的・付随的な事項でした。
ここでは 以後 これらの付随的なことがらにかんして 理論します。また もし付随的であるなら それは むしろ第一の幕屋として 可変的・流動的であることをつねに観念します。つまり 以降は 一つの提案といったものです。しかし これに付け加えておくべきことは わたしたちが その共同主観において これに向かわないものでは決してないということでしょう。
さてわれわれは ヤシロのエクレシア(主観共同化された自治態勢)を根幹とし やしろつまり神の家(キュリアコン)全体にも その心は向かいます。そしてそれは 身体(観念)共同夢でない限り 間接的・第二次的な運動として 言わば土壌の衣替えとして基本的な愛の実践です。


わたしは しかしここで 未来を先取りしてその像を提示するかのごとく あまり先走りしたくありません。理論としてのおまえの無知を隠すためだろうと言われても それはしたくありませんし またできない相談です。
わたしがここで行なうことは 一個の主観の中に エクレシア(ヤシロ)またはキュリアコン(ヤシロ-スーパーヤシロ連関)はどのような形でありうるか これの問い求めです。この意味で 第二次的な主観共同化が 共同主観にとって基本的な運動〔の方向〕となります。したがって 一つの提案とは 政策の提案ではなく 政策形成へ向かうときの主観共同化にかんする基礎的な愛(経営)の形式です。油塗られ史観となった者は その自己の共同主観のうちにおけるいわば滞留をとおして このような領域においても理論しなければなりません。その限りでです。
もっともわたしは このような方向にかんしては そのつど断片的にではあれ すでに触れてまいりました。これを 基本的なかたちで ここでまとめて 大方の政策立案の過程への一考としたいと思うものです。


まづ 使徒の《ローマ人への手紙》の中には 支配者への従順を説いた一節があります。これについて考えておくべきでしょう。

人は皆 上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく 今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって 権威に逆らう者は 神の定めに背くことになり 背く者はわが身に裁きを招くでしょう。実際 支配者は 善を行なう者にはどうではないが 悪を行なう者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないようにしたいのですか。それなら 善を行ないなさい。そうすれば 権威者からほめられるでしょう。権威者は あなたに善を行わせるための神の奉仕者なのです。しかし もし悪を行なえば 恐れなければなりません。
権威者はいたづらに剣を帯びているのではありません。神の奉仕者として 悪を行なう者に怒りをもって報いるのです。それで 神の怒りを逃れるためだけでなく 良心のためにも これに従うべきです。あなたたちが貢ぎえお納めているのもそのためです。権威者は神に仕える役人であり そのことに励んでいるのです。すべての人びとに対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め 税を納めるべき人には税を払い 恐るべき人は恐れ 敬うべき人は敬いなさい。
パウロ:ローマ人への手紙13:1−7)

ここでは 基本的に言って やはり共同観念への寄留の形式 すなわち 支配・権威の関係から成る共同観念現実の尊重と遵守とが述べられています。したがって そのことの中に 共同観念をむしろ主導するという契機も 間接的に述べられていると言うべきでしょう。
《神に由来しない権威はなく 今ある権威はすべて神によって立てられたものであるから》 これに どこまでも従うべきです。権威者・支配者のその人を愛し その権威〔という共同観念秩序〕には従うべきです。そうして このように権威に逆らわず 共同観念の自治様式に従ってゆくとき その現実が可変的であり その理論〔的な権威〕が可変的であることによって むしろ権威に従う支配者への従順が その共同主観の一つのかたちが 時の変化とともに変えられ 時に動揺する共同観念現実を 新しい時代へ変えてゆくのです。そうでないと 共同主観のあたらしいかたちは 生起して来ないでしょう。これは 第一の幕屋をとおして 至聖所の前に立った共同主観者の愛の過程です。権威への従順が 時の充満をつくるのです。
現代では あえて時代を先取りするごとく言うとすれば この第一の幕屋を張る共同観念現実〔の権威〕に従うことは その権威が至聖所の奥なる神によって立てられたからには この権威もしくはその律法を社会的にも成就するべきように 第一の幕屋はこれをとおして 第二の幕屋をのぞみ見なければならない・あるいは言いかえると 第一の幕屋には 至聖所の垂れ幕が逆向きにかけられることになるということ このようにこれらすべて 権威への従順から 共同主観の歴史的な過程として 生起していくるものと思われます。
あえてわたしは言いますが 聖書は神の言葉なのであって この至聖所から離れて その史観の原理を あたかも知解して解説するというようにして 第一の幕屋(理論・科学)において 思議すべきというものではないのです。われわれは 至聖所の前に あの道なるお方を観想して はだかの身体で立つべきです。そこに形成される史観において 人間に近づくように・理論も打ち出されてくることが大事である。
支配者への従順を説く言葉が 人間的な尺度で 殊に現代人から見れば 愚かなものに見えるとするならば それは われわれにとっての《つまづきの石》です。われわれはこれに固着しなければなりません。なぜなら それは われわれにとって生きるべき唯だ一つの道だからです。神の愚かさは 人間の賢さにもまさるのです。あたかも しもべの貌としては涙しながら十字架上の死につかれた人間キリストの弱さは 神の弱さであって これが人間の強さにまさるというように。そこに 至聖所の奥にいます神の力があります。この神の力・神の知恵によって われわれおよびすべての被造物が造られたとするなら 人間の知性に寄り頼む力が 可変的で朽ちるべき性質のことがらであることは 目に見えています。われわれはこの第一原因に固着することによって あたかも神の計画と配置にあづかるというように(――あたかもというのは それが現実でないからではなく それ現実として 人間は 直視しては生きていない それは不可能だからです。だから このご計画にあづかるということは 神の言葉をあづかる預言をとおして いくぶんかは予感しつつ つまり可感的な現実として 史観となる・キリストを生きるということです――) つねに史観を進めます。
これが 権威への従順ということであり それは時代の転換期においてもつねにそうであり(――だから言うならば むしろ歴史的に言えば既成の権威に従うからこそ 共同観念現実の秩序・権威の体制が 別のかたちへ変えられると言います――) ただ 共同主観は この権威の形態を むしろ既成の権威に従うことによって 新しいかたちとしても理論するのです。主観の自己形成(――つまり主観とは このただいまの・身体を伴なった主観です――)は ここにあって ここ以外にありません。
人間の生きること・もしくは愛が 持続的なほどには 理論は 持続的ではありません。まづ 権威への従順が 愛なのです。理論はあたらしいかたちを思惟しますが 理論が時代を変えるのではなく 人びとの愛(権威への従順を含む愛)が それを為すのです。《実際 支配者は 善を行なう者にはそうではないが 悪を行なう者には恐ろしい存在です》という使徒の言葉は このような権威への従順という愛の〔持続的な〕過程において 共同観念形態(支配制度・権威体制)の転換という契機を含むように意味表示していないとは言えません。
支配者すなわちアマテラス者は 自分たちが必ずしも 善を行なう正しい者ではなくとも ちょうと空気のような身体をもって アマテラス語律法に固着し 共同観念的な罪の共同自治を主宰するのです。空気のような身体をもってということは それでもすべて善を行なうようになるとは考えられずとも 生ま身の体ではとうてい無理と考えられたからです。たといアマテラス者であれ またスサノヲ者であれ この生ま身の体の人間に スサノヲイストの生きたまつりの源流がちょうど永遠の生命のように見出され獲得されるとこそ言うべきですが 地上の国の罪の共同自治は このアマテラス者の権威をもって――なぜなら 《S者‐A者》連関構造の主体である時間的な存在である人間の共同自治には 中でも精神において A者・A語の普遍概念・その範型・律法をもってあたるべきと考えられた―― 過程されるというのが 共同観念現実なる土壌であるものでした。この権威に従うべきです。
しかしこの権威者も 一個の人間としてスサノヲイストの生きたまつりの力に従いつつ かつアマテラス者となるとき実際には 空気のような身体にその身体(ないし主観)を変えてしまった(そのように自己の力でアマアガリした)ことにより 生きたスサノヲイストのまつりによってその行なう善が裏打ちされ支えられるというよりは 悪が行なわれない問いうえ律法の遵守に固着することによって その空気のような身体性が 不安定なものとなる。したがって原主観たる《S者‐A者連関主体》としては 半独立的な主観=史観となる つまり 《悪を行なう者にとっては恐ろしい存在》であることじたいが目的となるようにして 主観の外側で 《S者(悪を行なう者)−A者(自己)》の連関といった主観の 観念(身体)共同化(他者への従属的な主観化)がもたらされることになる。こうして 一つの権威体制が 内側から崩壊し 新しい共同主観を求めるようになる。そのように時代が変わろうとする。そしてこれらの過程はすべて 一般にスサノヲ者が 権威に従順であるという愛を持続させることによって起こるのです。
またこのとき革新的と呼ばれる人びとの中には 権威に従うというよりは 権威体制に従属しつつ 精神的には権威を否定するということによって この崩壊をくい止める役割を担うアマテラス予備軍となる人びとが生起してくるのです。だからわたしたちは 権威者には従うべきです。しかしこのように言うのも この至聖所からのみ言葉をあづかった使徒の言葉が あまりにも固い食物で 過度にそこに人びとがつまづかないためにほかなりません。
《神の奉仕者として あたかも第一の幕屋のまつりごとをあづかり この権威者は 悪を行なう者には怒りをもって報いるのです》という言葉は じっさい 時代の継起やその転換にかかわりなく だから 国家形態によるA‐S連関体制が インタムライスム=インタキャピタリスムによるS‐A連関制になったとしても その神の家の中の社会的な役割分担としての権威のシステムにかんしては 変わりなく言えることでなければならないからです。
(つづく→2007-08-10 - caguirofie070810)