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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第二部 唯物史観への批判
第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)
第一節b 理論としてのキリスト史観は つねに工事中である
これは 傍論ふうに議論するなら いわゆる《我れ考うゆえに我れあり》と言って そのような一つの存在の根拠をうたう《我れ考う(コギト)》が 人間の・わたしの《知解行為》であると考えられた結果を表わしていると思われる。知解行為だけに焦点をあてた結果からだと。しかし コギトは まづ《わたしが考える》のであり――ただ知識を問う問題ではないのであり―― 全体として言って 《記憶‐知解‐愛》の三行為能力として存在して生きている原主観のことを言っているのであり この原主観が 真の存在の根拠であるとわたしたちが言う神なる三位一体の似像であって 人間的な次元ではこれが 一つの根拠となっているそのことを言おうとしたものなのである。
それは 理論の再生産と共有が 人間の存在の根拠であるのではないであろう。むろんそこに 意志・愛はうかがわれる。しかしそれは 理論家・科学者としての意志 また職業的な意志であって 《わたし》全体のつまり史観の意志そのものではない場合が しばしばである。これは 物・富の《アマテラス‐スサノヲ》分離連関制的な私的所有の形態ではなくとも 知の私的所有すなわち《アマテラス(学者)‐スサノヲ(一般市民)》分離連関体制を 意味している疑いが濃い。私的所有を揚棄しようとする唯物史観の学者も この知の疎外体制(つねに工事中である理論を再生産することを目的とする私有財産制)にそのまま連れ去られているか もしくは知っていても黙認しているということにしかならないであろう。史観つまり生をではなく 理論を第一とし 理論学習を行ないつつ進むというその方式じたい すでに《A‐S》分離逆立連関体制を意味表示していはいないか。われわれの意志の目的は 模範主観キリストを生きること これであった。
なぜなら 《精神‐知解‐意志》の三行為能力を持った原主観つまりそうとすればコギト これは すでにその各主観において 《S者‐A者》連関主体・その動態そのものにほかならなかったからである。《記憶‐知解‐愛》の三一性主体たる《S者‐A者》連関構造を持った主観は その全体でつまり史観として 知解し愛するのであって 理論の所有の有無を問わず 共同主観して生きるのであって 知の私有財産制とは――そしてむろん原理的に 富の私有財産制とも―― 無縁である。
この原主観もしくは これをとおして身祀る神の国が 祖国であって 《自己還帰する》という疎外の揚棄は ここから つまり《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》のでなければ つねに経験的な事後策に陥っていることであるだろう。だからわれわれは この主観共同の内なる現実から外へ出かけてはならない。もしくは 《理論はつねに工事中である》と言ってのように 外に出かけるのである。また この総体的な主観の動態を アウグスティヌスは 《もし私が過つならば 私は存在する。 Si fallor, sum.》と言った。このような決定的な議論は ここで必要であると思われた。
そこで確かに ちょうど外へ出かけるといった過程も考えられなければならない。
《理論はつねに工事中であり その過程にこそむしろその完成(だから 正確にはその主体である主観の史観の完成)の像が見られるべきだ》ということは 次のことを意味する。一般に主観共同化の過程として 今度はあたかも外へ出かけるというようにして これら理論を提出しあい検討しあい また社会的な形成(共同観念形態の変革)に向かうという作業が問い求められるということ。スサノヲイスムの各ムラ各ヤシロのまつりが再生され確認されたならば その内部つまりS圏 およびそれとA圏との関係が あらためて 問われなければならない。そしてこの言わばなおも内なる共同主観形成への媒介といった性格の 外なる社会的な主観共同化の過程 この作業が有効であるというのは 当然のごとく 理論はそれとして工事中であるという第一原則にのっとる時においてなのである。理論の有効性・現実性は スサノヲ者の主観ないし 各ヤシロのまつりが 決定するであろう。
これは さらに言いかえると 各時代の共同主観の形態すなわち さらに具体的に法律体系などとして表わされるそのかたち(つまりそれは 共同観念的な規範・律法としても見られるものであることになる)が 当然のごとく 可変的なのであって 理論は――そして一般に 科学全般も―― この共同観念形態を土壌ともする各時代の共同主観形態の可変性を大前提として その可変的な外なる形態に対して つねに 知解および愛(その遵守および変革)の行為として 為される要があるということ。このことは 現在もなされている当然のことのようであって しかし 共同主観の変遷の上から言って 一つの時代を画するようにして 基本的違う視点である。すなわち キャピタリスム(ないしソシアリスム)共同主観を大前提として その中で 理論も科学も 知解・愛の行為として為されるということと その一時代としての大前提である(A圏主導的な大前提である)共同主観形態そのものが 可変的であって つねに可変的であり このことに対して 知解および愛の行為がなされるということとは 一つの時代の違いとして根本的に異なることになる。
キャピタリスムからソシアリスムへと言うときには A圏主導の共同主観形態が したがってそれによる共同観念の自治様式が まだそのまま動かざる大前提となっている。しかしここでは 共同主観の寄留形態じたいが 新しい時代(S圏主導のS‐A連関制)へと変えられるということを言おうとしている。これは ソシアリスム唯物史観を先駆者としつつも それに拠らない また かならずしも 歴史的な段階を飛び超えてそうしようと言うのでもない はじめにスサノヲイスムが発見されて ここに到来しここから出発する・共同主観の主導による共同自治の形式であるということになる。
《コギト》を 知解行為・経済活動→キャピタリスムといったような人間の――原主観の――部分的な行為能力にのみ見るようになる・だから そこに同時に愛の行為が含まれ この愛の行為を なお経済行為として《福祉》と見るとするなら この福祉なる愛の行為を すでに A圏を通過しての再配分行為としては必ずしも見ないようになる・言いかえると 記憶行為・組織行為としても 国としてのもその他もろもろの組織活動としても A圏主導の《A‐S》連関体制ではないようになり S者・S圏のまつりが 主導して意思決定を行なうようになる・したがってこれらは ソシアリスムかキャピタリスムかという問いの次元とは 座標を異にすると言わなければなるまい。しかし ヤシロ=エクレシアのまつりとは 各主体が共同主観として つまり各主観がそれぞれ主体的に 精神の或る社会的な秩序を形成し 協働し 愛(経営)しあい 経済的(私的もしくは個体的な所有制のもと)に・かつ非経済的に(なぜなら スサノヲイスムの根拠である原主観ないしコギトは あやまち試行錯誤しつつ その永遠性つまり自由ないし平等を見ているから) この社会における生を享受しようと 緊張しつつ解放されている共同主観の動態であるにほかならなかった。この原点に立って 全体(やしろ)としての共同主観形態をかたち作っていく社会が 新しい時代のそれである。
言いかえると おそらく新しい来たるべき時代は 一定の時代としての大前提をなすその共同主観形態(法律ないし人びとの内省=行為様式)が もはや一定の方式を採る必要のなくなるであろう時代。人びとは キャピタリスムの時代であるとか ソシアリスムの共同主観の興隆する歴史的な段階であるとかと 一定の共同主観形態を前提とする必要を見なくなるであろう時代(ゆえに 人びとの主観的な内省=行為の形式は 確保される)であるとと思われるのである。
これは 共同主観が共同観念現実を一つの土壌としてこれに遵いつつ寄留していたのが すでにその歴史的な勝利をおさめるかのごとく 共同主観が それじたい工事中なのであるというまでに 共同観念現実へのこの寄留が揚げて棄てられてゆく過程であり時代であると考えられる。寄留していたからこそ 一定の時代に一定の共同主観形態として その大前提が必要とされたのである。この大前提が 取り払われるであろうというのが この理論の第一原則から 現代において 帰結されるべき理論それじたいなのである。
だから この原則的な理論の整理は それじたい 理論そのものを用意するであろうと言うのである。
(つづく→2007-07-28 - caguirofie070728)