caguirofie

哲学いろいろ

#74

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第一節c 理論としてのキリスト史観は つねに工事中である

史観が 自己の主観形成として つねに過程であるとするなら 理論がそれとして工事中であるというのは 当然のことである。過程であるというのは ただし 均衡状態であるとか循環する過程であるとか あるいは一般に共同観念に唱和する無常観ないし停滞的な過程であるというものではなかった。ここに寄留し滞留すると捉えた。
しかし史観が たしかに不安定にして堅固な一定の帰郷の旅路をたどるというのなら この理論の工事中であるということを通じて つまりその過程性・媒介性としての理論をつうじて 歴史ないし社会(またそこにおける人間)の時間そのものが 共同の主観の過程を成すというのも 必然的な帰結とならなければならない。これが 社会的な主観の共同化をつうじて 一定の新しい時代をつちかうであろうというのが いまの理論の第一原則である。
そしてそれは もはやキャピタリスムであるとかの一定の共同主観形態を 何らかの前提としない時代(そういう人びとの自由な内省=行為の形式の時代)であるだろうということ。なぜなら もはや人びとは キリストを生きる=というほどに何らかの自己の史観を生きる・つまりは この意味での主観を主観全体としてのコギトをとおして生きるとこそ その大前提は述べるべきであろう。またこれを一定の概念で規定しようと思えば たとえばインタスサノヲイスムとこそ言うべきであって

  • だから 精神=社会組織の原理は デモクラシないしスサノヲイスム・《S‐A》連関制であり そして知解=生産行為の原理は キャピタリスムないしスサノヲイスト・キャピタリスム・市民資本原理とも言うべきものと捉えることができるだろうし これを愛=経営・共同自治するのがインタスサノヲイスムないし インタムライスム=インタキャピタリスムであり 全体としてそのような共同自治の形式を基本とするであろう。しかしこれは 共同観念形態=国家をおおきな土壌および枠組みとした一定の共同主観形態を前提とするところから来るのではなく むしろこの前提を取り払うというところから到来するのである。

したがって 理論および科学は ここから到来してむしろこれら(内省=行為形式の一定しないという自由)に仕えることになるのでなければならない。これが 理論はつねに工事中であるという第一原則なのである。言いかえると これまでの大前提にかんする批判的・継承的な考察 そこにおける新しい前提こそが 理論なのである。そこに 人間の・主観の史観が 生きてつらぬかれていることは 前提の前提であった。


なお 《人間が欲するままに生きること が真実となるであろう》という命題は もはや論じるなかれと言うべきこととして 共同観念現実からたかも刺激を受けてのように(あるいは同じく 自己の内側からも起こって)欲望するその欲するままに生きるということではなくして しかもこれから離れて別の世界が築かれるということでもなく それは 霊の人たる史観として次の内容を 一義的に言うものでなくてはならない。《意志(愛)するものをみな持つことと悪しく意志しないこと》 これである。これはもちろん 主観形成の過程としての命題であって それに到達すべき道であるものでもある。だから 史観なのであると言おうとするのであるが この過程には さらに具体的に次のような内容を持つということで その作業中であるという性格が理解されなければならない。

欲するものを持たない人は 幸福ではなく

  • その史観において欠如が生じており

 また悪しく欲するものを持つ人は幸福ではなく

  • このときには 史観=存在の善 の欠如そのものか出発している

欲する善きものはみな持ち 悪しきものを欲しない人が幸福である。

  • つまり史観そのものとなる。

(三位一体論13・6〔9〕)

しかし人は ここで 善悪の判断が人に不可能であり不必要でもあるなどと言うなかれ。われわれは具体的な個々の過程を論じている。人はそこにおいて つねにいっていの判断をしないのではない。この判断が存在するという現実性だけで 十分である。つまりかれは事の善し悪し(もしくは さらに どうでもよさ)を自己の中で議論し 意志(愛・決断)しているのであるから。だから同じく 幸福などという抽象的な言葉は用いるべきではないという批判もまったく当たらない。そのような批判をなす人こそ 人間の知解行為としての普遍抽象的なアマテラス概念に言わば影響されているとこそ考えられる。
かれは 抽象概念が抽象概念にすぎないというところに――そのように自分に説くところに―― 幸福があると言わば決断し これを愛している。かれらは これをさらに固定して捉え そこに偽って憩うかのように 理論の作業中であること・その主観形成に対する媒介的な過程性を見ないのである。しかしともあれ この人びとも アマテラス概念が 抽象的でしかなく また 《アマテラス‐スサノヲ》連関体制が 架空の現実であることを知っているのである。ただかれらは これをそうだと明らかにすること だから 架空のこの共同観念現実に対してただ 批判すること(感覚的・経験的なもの そのたとえば怒りを 言葉にして 外に用い尽くすこと)に 幸福があると思いこんだのである。そうしてかれらは 自分たちが 抽象的なものにしか過ぎないと勇敢にも捉えたその当のアマテラス概念に拠ることによって ただ精神的な・現象現実への批判の姿勢をとりつづけるということを生きて その同じアマテラス架空現実体制への予備軍となってゆくであろう。

  • 殊にわが国の社会では 労働組合の幹部が――かれらはアマテラス層を批判していたのだが―― 経営者アマテラス層にその身をつらねるという実情が しばしば見られる。これは スサノヲ者のアマテラス化 つまりアマアガリのようであるが それはつねに 架空現実体制の中の梯子をのぼるアマアガリであって かれらは ただ精神的に批判をしていただけであったと言うほどに あたかも身体の運動は 空気のような身体を持ってこれを行なっている。かれらはすでに かの空中の権能に身を委ねたのである。自己を偽って ここに憩うであろう。これは 蜃気楼であると考えられた。

あるいは 次のような内容でもある。

欲求されたものを獲得しない人よりは 悪しく欲求されたものを獲得する人のほうが たしかに一層 幸福な生から遠去けられている。
(三位一体論13・6〔9〕)

これらの具体的な内容(過程としての内容)は 言わば人間的な尺度で測られた倫理的な思惟にしかすぎないようにも見える。しかしだからと言って 理論がこれも過程的・時間的なものであることが否定されることにはならないであろう。人間的な尺度で測られた倫理的なことがらとして 共同主観を説明するということは 共同主観が この人間的な倫理から出発して 何ものかへ到来するということにはならないし またそう言おうとするのでもない。すでにわたしたちは あの人間に与えられた安全な望楼に立ったとするなら これら倫理的なことがらに対して その鏡の中に 自己をただ映すようにして とどまるべきではなく――停滞すべきでないことは無論のこと 滞留さえすべきではなく―― この鏡をとおして 道ないし自己を捉えるというようにして これら倫理的な現実を動きあるものとして 見るという過程が付随しているはづである。
あるいは むしろ自己に逆らってのように 自己は 神から人間の中へ到来し 人間に近づくということ この原理的な過程によって 倫理的な過程を捉えるのである。これを 人間のもっとも安全なもっとも自由な史観であると知った人は――これに同意しない人はいないであろう―― その共同主観の歴史的な勝利を 忍耐して待ち望むのである。これが 将来の栄光であり 人間が史観そのものとなるという道である。神から人間の中へ到来し 人間に近づく人は これを約束されたと知るゆえに。したがって これの人間的な実行(愛)は 上に捉えた倫理的な思惟といった内容 これらを 理論としても アマテラス概念において捉えるのでなく むしろこのアマテラス概念による思惟を用いて つねに過程的に理論するのである。
また この《現実(そこにはすでに 共同主観の寄留形態じたいが変えられてある)》が 社会的な現実となることを――だから 共同観念のほうの現実が 鎖につながれる もしくは個々の土壌ないし媒介要素として 自由に用いられることを―― あえぎながら求め しかし 忍耐して待ち望んでいる。ところが この将来の栄光は この呻きつつあえぎ求める忍耐(不自由)の中にすでに達せられて現在するものでないなら キリストの示された道はより一層むなしいであろう。

かれは悪しきものの中にあっても善き人であり すべての悪が終息し すべての善が充たされるとき 浄福な人になるであろう。
(三位一体論13・6〔9〕)

というのは 《将来の自由にして現在する》共同主観者のすでに力であるのでないなら キリスト者はすべての者の中でもっともみじめな存在なのである。理論としての史観は このことを――それをあたかもすでに スサノヲイストの中から叫ばれた叫びとして受け取ってのように―― 堂々と主張してゆかなければならない。この不遜は 初発のナシオナリストや初発のキャピタリストあるいはソシアリストら 共同主観の歴史的な系譜において はじめのスサノヲイストしてのすべての共同主観者が 同じように訴えた時間的な過程でもある。
もしこの力を いま受け取ったなら(アマテラス概念においてではなく それをとおしてスサノヲイスト主観の中にたしかに受け取ったなら) この力この生産力を愛さず主観共同化せず実践しないとしたなら それは 人間の不遜であり不敬虔なのである。要するにいま すでに新しい時代が 見通されているべく 共同主観すべきである。

(つづく→2007-07-29 - caguirofie070729)