caguirofie

哲学いろいろ

#72

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第一節a 理論としてのキリスト史観は つねに工事中である

このゆえに 死ぬべき 誤謬と悲惨に満ちているこの生においては 何よりも先ず信仰が必要であり

  • 共同主観は 《自由‐不自由》連関として信仰である。だから人間が 史観である。これを言うことが ほんとうは 第一理論である。

この信仰によって私たちは神〔という存在の根拠〕を信ずるのである。

  • 神なるお方を見ることはできないが 信仰を持つというその自己の思念は見ることができる。また 神の背面――人間性・キリスト――を見ることは可能である。だから信仰は たとえば人間が正しい行ないや理論作業をつうじて自分で獲得するものではなく 与えられるのである。しかし誰が 自分は自分の力で生まれてきたとか 両親が真の創造者であると愚かにも 言うだろうか。

〔この〕神から人間の中へ到来し

  • 人間から神の中へ到来することは 思惟によって・あるいは理念において可能だと説く人があってもおかしくないかも知れないが いのちとしては 不可能である。それは あたかも唯物史観がすべてのものの第一原因とする物質の中へ人間が到来することが不可能であり(つまりもしくは この第一原因たる物質を人間の手で管理することが 不可能であり) あるいは 自然現象ないし質料(および商品)関係の人間的・社会的な征服・管理・計画は つねにそこからなお はみ出すもの(自然ないし物質の運動)を必然とするであろうことから それを人間は部分的に為そうとしてもよいが ここに人間の根拠を求めることは不可能であると言ったようにである。

人間に近づくのでなければ すべての善 とりわけ人を善きものとなし 浄福な人にするであろうあの善は見出され得ないのである。

  • 善とは 主観の思惟=行為形式である。これを聖にして堅固なものとするとき 人は自由となる。

しかし これらの悲惨な現状において忠信であり善である人が この生から幸福な生に到るであろうときは 今は決してあり得ないことつまり人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。なぜなら かれはあの祝福(《生めよ ふえよ 地に満ちよ・・・》創世記1:26−31)において悪しく(主観の行為形式を眠らせて)生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。愛されるであろうものはすべて現在するであろう。現在しないものは欲求されないであろう。そこに在るであろうものはすべて善であろう。また至高なる神は至高なる善であろう。そして神を享受するために神を愛する人に神は現臨したまうであろう。全くこの上なく浄福なものは永久(とわ)に然(しか)あるであろうことは確かである。
(三位一体論13・7〔10〕)

ふたたび このように抽象的な議論を掲げたのは 引用の中でも註解したように 理論の第一原則がたとえば ここにあると考えられたからである。しかも これは(この文章)は 史観にほかならないものであるとわれわれは考える。これがこのように自己の内に確立されないうちは ほんとうには主観は外に出かけてはならないとこそ言うべきなのである。もっともこの内なる人は 外なる現実を観想い理論することによって 形成されるというのも実際であろうが 人は 《神の威厳が通過するまでは その内なる人は堅固にされない》 言いかえると 《神から人間の中へ到来し 人間に近づくのでなければ 史観は見出されないし したがって理論形成は かなわないであろう》というのは この理論の第一原則なのである。
この第六章はこのように 前章すなわち 理論としての史観の前提的な考察(《史観は理論として述べうるか》)を受けて 理論そのものの原則を明らかにしておきたいと なお足踏みするかのように 思うのである。しかしこれは もはや足踏みなのではなく むしろ理論そのものでもあると実は考えることには それは 節題に掲げたごとく 《理論は つねに工事中である》と言うべきなのであって この過程にむしろその完成の姿が見られるべきであるという 当然といえば当然 しかし人はしばしばこの当然の大前提をわきまえつつ忘れ このつねに工事中であるという理論作業に 生のそしてと言うように職業の 目的を見出そうとする。また何ものかに抑圧され停滞領域に足を踏み入れ 見出さざるを得ない。もし 停滞するやしろの領域が 大であるならば――ということは その陰では あの時の充満がかたち作られているとこそ言わねばならないが―― この《理論はつねに工事中なのである》という第一原則のみを 一生かかっても主張しつづけることは 人間にとってむしろ偉大なことであると考えるゆえなのである。
だから ここにも同じく当然 この共同主観の共同観念とのかかわりが 史観され理論されていなければならず もろもろの研究業績は その初めと終わりにこの第一原則をつねに掲げていることでなければならない。なぜならそのことは すでにスサノヲイスムの永遠の生命に参与し あるいはそれを告知するという嗣業に参与していること すなわち史観を意味するからである。史観は ここにしかない。また史観は ここにある。そうでない場合 つまり《熱くも冷たくもなく ありまいな史観と理論は 吐き出される》と言われたのである。むろん唯物史観は その理論が作業中であることを自明の前提とし またその方向ないし目的もこれを自覚している。ただこの史観の持つ第三の種類の誤謬については これまdに明らかにしてきたし また方向ないし目的についても これらを 共同主観の基礎をなす前提領域において 正しくより明らかにするべく 論議していることなのだとわれわれはすでに考えた。
たとえばここで具体的に わたしはすでに次の表のような史観の理論的な準拠枠といったものを提出したことがある。そしてそれは ここで この一つの理論が それとして工事中なのであり この工事中であるという第一原則を据えることによって この理論が生きるであろうと望んでいる。もし誰かが それは当たり前のことだと言うなら 当然のことを明かすのがキリスト史観であると答える。この当然である内なる人を 去って外へ出かけてはならないというのが 史観であり理論である。これは 外なる現実をいわゆる科学的に把握することを止めるということとは 全く別の事柄なのである。

  • 表1−1 生産=経営=組織様式の歴史的発展
歴史的空間→ 社会体系relation-intersystème 社会形態 =système Amatérasu-Susanowo ―〔共同体関係〕relation A-S― 市民社会 =société susanowoïste
歴史的時間↓ Amatérasité観念の資本主体 Amatérasu capitaliste社会科学主体 (社会階層階級関係) mura自治態勢/Susanowos capitalistes生産態勢 relation interSusnowo市民二角協働関係
前古代市民的muraïsme - - - pré-intermuraï:sme経済学的・生物学的また観念・軍事的な対立・共存 市民社会:《mura-capital》/《自治=生産》態勢 原A-S連関(A:ムラの第一位のイエ(自治主体)/S:イエ従属の原市民);原階級制;身分(人格)関係以前
古代市民的革命(生産力としての市民二角関係の発展) ihé national (=王室・帝室・国家)← ←〔逆立統合〕→ →諸室(《mura=capital》としてイエihés← ←原A-S連関の経済学的発展
―― nationalité (=公民・市民権) (A-S連関) の形成 ――
古代市民的nationalisme pré-internationalisme 王権empire(nationalitéの観念・軍事的かつ生物学的根拠) =王室empereur(王家従属的な古代市民から成る政治政治学主体;古代市民的官僚) nationalisme(古代市民的な絶対制totalitarisme/アマテラス絶対賦課課税制) nationの各分肢としての《mura=capital》/《共同自治=共同生産》態勢/そこにおけるイエを基軸とする分業=協業 古代市民的な身分(人格)関係/nationalité(市民権)の階級階層差別制
封建市民革命 nationalité大前提 ・・・・・・・・・l'ihé prime(第一室) ・・・・・・・・・分離逆立連関 ・・・・・・・・・ihés(諸室/相対的対立) 市民社会の経済学的発展 (ihéとしての《mura=capital》の独立)
封建市民的inter-ihéisme pré-intercapitalisme 王室empereur(l'ihé prime またはその象徴としてのihé national) 第一室principat/shougunat(第一室に仕える政治学主体;封建市民的官僚) inter-ihéisme/封建市民的な共同自治;アマテラス税制 諸室(ihés)としての《mura=capital》(封土・国・藩)/《自治=生産》態勢;諸室の中における封建市民として相対的独立を果たしたイエ・その商業的capitalによるcapitalisme(主にその政治学的な原形式)/上のような意味でcapitalistesの分業=協業 内省形式としてのcapitalisme(幾何学の精神)を宿した身分(人格)関係;nationalitéの階級分裂(士農工商)・階層規定の観念化
近代市民革命 nationalitéが 大前提であるとともに 実質的復権 l'ihé national 市民社会の発展(《mura=capital》の中の個別的capitauxのそれぞれの発展としてのcapitalisme) nationalitéの四民平等/pré-interSusanowoïsme
《観念の資本= =capital national← ←分離/統合の逆立連関→ Susanowos capitalistes muras coadministratifs
近代市民的nationalisme=capitalisme ihé-nationalisme=inter-capitalisme/impérialisme(inter-totalitarisme) 王権empire(nationalitéの根拠) 帝室empereur(帝室に仕える政治学主体・近代市民的官僚;およびnationの分肢であるイエとしての政治経済学主体;原市民政府 nationalisme=capialisme(近代市民的な絶対制(totalitarisme);近代市民的なアマテラス税制(産業所得への課税) nationの各分肢としてのmura(都市)・capital;共同自治態勢・共同生産態勢;産業革命 capitalisme内省形式が身分制を揚棄(四民平等);《イエとしての人格=capital》による同市民関係;《nations=ihés》としてのA-S連関を基盤とすることによって totalitarismeの中の同市民関係;Susanowos capitalistes の確立
現代市民革命 impérialismeの否定 natioalisme前提 同左 nationalisme=totalitarismeの否定;アマテラス税制の基本的否定 市民社会自治態勢の回復;capital所有のイエイスム廃止(・農地解放)← ←capitalisme(内省形式=共同主観)=Susanowoïsme(スサノヲ主権・démocratie)の確立
現代市民的capitalisme=nationalisme internationalisme=intercapitalisme 王prince(nationalitéの観念的象徴) nationalisme=capitalismeによる政治経済学主体(政治家および官僚);市民政府 capitalisme=nationalisme;共同自治/スサノヲ税制(申告納税国) nation/mura/capital分離連関の中の自治態勢/生産態勢 スサノヲ(家族・個人=価値capital)主権;同市民関係
未来市民的interSusanowoïsme internationalisme=intercapitalisme 王prince 市民政府 《S‐A》連関 inter-muraïsme=intercapitalisme interSusanowoïsme


(つづく→2007-07-27 - caguirofie070727)