caguirofie

哲学いろいろ

#71

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第六節b 史観の生きる道が 理論の生きる道である

ここには確かに あの望楼に立って 現実全体を動きあるものとして その鏡をとおして 見つめる自由の視点が明かされていると思います。すなわち 共同観念現実との共同主観者のかかわりあいの原理的な視点 すなわちその史観なのです。かれは 神の国のこのような外交官(使徒)なのです。
外交とは 或る国が他の国に対して 一方的に何らかの押しつけによって為すべきものでもなければ 自分が仕えるその国を無に帰して その外交活動を止めるべきものでもありません。また さまよえるユダヤ人のように その祖国がどこにあるのかを知らずに のらりくらりと 媚びを売る人のように 相手に付かず離れず さりとて 自分の祖国がわからないのであるから その主観を いつまで経っても よう述べないことが 外交活動でもありません。つまりまるで 人間が生きていることではなく 動物が生きるように自己が生きることが その祖国であると信じ切ったように さらにつまり 楽園にではなく 楽園からの追放にでもなく また楽園の再獲得にでも無論なく ただあの子守り唄に寝かしつけられた呪術の園に・アマテラス概念崇拝の魔法の園に生存しようとすることでもありません。
それらは 人間の社会活動以前であり また 人間以前であるのです。《アマテラス‐スサノヲ》連関体制なる国が 魔法の国であり スサノヲ者は ほんとうはスサノヲ者として生きていることを知りつつ(――なぜなら かれらは・つまりわれらは 各ムラのマツリを持ている――) あの子守唄にゆえなく まいってしまうのです。つまり スサノヲは 黄泉の国の王に逆にまつりあげられているのです。なぜなら そのように子守唄をうたう当のアマテラス者とアマテラス予備軍は すでに自己の中に 黄泉の国すなわち魂と身体の死を見ているからです。かれらは この死の恐れから逃れられず もう一方で支配の熱望にかられ その支配欲によって支配されて あの子守唄を上手にうたうこと また上手に作詞することに血道をあげるのです。ここで スサノヲイストの生きる道つまりその史観は 過去のスサノヲイストなる死者のそして自己の中の死者の復活を見なければなりません。なぜなら 子守唄なる空中の権能の支配は その空中の権能に属くアマテラス者らのその人びと自身の復活 病いの癒えることを俟って はじめて われわれにおいて解除されるからです。
かれらの欠陥を憎みかれらを(その存在としての善を)愛するのです。これが キリスト者としてのスサノヲイストの愛であり その自由であるのです。共同観念ナシオナリスムは 共同主観インタムライスムの似像であり マツリゴトは マツリのまね 似ても似つかぬコピーにしかすぎないからです。
むろん 共同観念の現象現実(罪の共同自治・観念共同和)に生きているわれわれも その共同自治の主宰者たるアマテラス者とともに 身体も魂も死んでいます。同罪であります。しかし われらが長子キリスト・イエスは 死の制作者たる空中の権能とは違って 生命の制作者であり インタムライスムの生きた心をわれわれに告知しました。それは 宗教的につまり かれをまた再び別種のアマテラス神としてまつれということではなく 各ムラ・各ヤシロの生きたマツリのもともとから存在すること・その永遠のいのちを ただわれわれに告げ知らせたからにほかなりません。また かれは われわれの一番上の兄貴として この永遠のいのちに その生命を投げ出すまでに従順であったことによって 永遠のいのちそのものとなったとわれわれは 理論するのです。
それは かれは もともと神なる永遠者であったと史観するからにほかなりません。かれは その権能・権力によって 空中の権能を征服したまわず この悪魔に滅ぼされるまでに義によって かれを征服したまう道を採られ そのような史観を示されつつ 《すべて労苦する者 重荷を負う者 我れに学べ。我れは柔和にして心低き者なればなり》と語られた。だから唯物史観は スサノヲイスト共同主観としては このキリスト史観に付随する一つの理論であり 社会階級闘争はそれが必然であるとするなら これに付随する一つの愛(実践)のかたちであります。しかしそこに そのものに 本来のスサノヲイストのまつりを見るかどうかは われわれスサノヲ者の主観の中にすでに判断はなされていると言ったほうがよいし 別の方法を考える人は それによればよい。
外交活動は 共同主観であって 客観共同でもなければ 組織(教会・パルタイ)一元的なものでもない。キリストは 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であって 各自の主観が この国の言うまでもなく全権大使であります。スサノヲ圏・各ムラ(自治態勢)が教会(エクレシア)であり 国の全体(やしろ)が 教会(キュリアコン)でありました。各ムラの市民団体として もしくは パルタイ(政党)として われわれは 民主自由会議を考えましたが それはむろん 必要に応じて採られるいくつかある中の一つの手段にしかすぎません。等々。
ですから このように共同主観者の祖国が明かされたならば まづその史観そのものとなること(――《生きるとはキリストを生きることである / その軛は負いやすく 荷は軽い》――) そして次にこの外交活動の補助手段としても これをさまざまな分野で理論的に明らかにするという作業 これらが必要となるでしょう。言っておきますが 使徒が《死ぬことは有益なのです》と言うとき かれは《肉の情念に死ぬであろう また 婚姻の純潔は性欲を善く用いる》という共同主観者の原理的な過程を言っているのであって それは身体をみづから滅ぼすということとは全く別である。《キリストのために生命を失う者はそれを得る》 罪の体は それじたいで 死を免れませんが あの空中の権能に捕縛されてその死を死ぬのではなく 善い死が迎えられる またその死までこの生においては 十字架上のキリストを飲みまつり 生きたマツリを再生させつつ 巡礼を行なう このことにほかなりません。
もしここに 悲痛な印象を持つとすれば それは 空中の権能の差し出す旧い館の饗応の快楽というほんとうの悲痛さが 反映しているものにほかなりません。もちろんこの現象現実の・つまりマツリゴトの快楽ないし悲痛さを 自分自身の力で逃れよ 倫理的にそうせよと言っているのではありません。それは はじめからの常識でありました。ここに わたしたちの真理があり 真理はわたしたちを自由にすると知られるゆえにです。このことを 直接 神の言葉として表現するのではなく つまりそのように使徒の言葉を直接に受け取るという表現とは別に 人間の言葉としてこれが見まつられるべき 誰にも見えるその栄光(臆測)として 理論は語られなければならない。理論の使命といったようなものは ここにあると見られます。
このように 史観そのものとして 人間が霊の人となることは あの自由の望楼に立ちうることを示す・ことごとく安全な人間の道であるのです。わたしたちは この史観の理論を問い求めつつ まづこの原理を問い求めているのです。またそれが 先決問題であり またすべてであると知られるゆえにです。ですから 史観の生きる道が 理論の生きる道にほかならない。
この追記は このようなことを共同主観します。
くどいように言っておきますが このことは 《血筋によらず 肉の意志にもよらず また人間の意志によらず 神によって生まれた人びと》に 日から日へ生起する史観なのであって この《神の恩恵〔という意志〕のほうが 人間の自由意志に勝った》というがごとくして 人間の意志(愛)となる史観です。神の愚かさは 人間の賢さに優ると知られるゆえに この世の共同観念に対しては《死ぬほうが有益である》と自由する史観であります。もし 今度は 人間的に愚かにもなっってこれに固執して言うとすれば 《わたしは確信しています。死も 生命も 天使も 支配するものも 現在のものも 未来のものも 力あるものも 他のどんな被造物も わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から わたしたちを引き離すことはできないのです》(ローマ書8:38−39)とこの言葉に固着しつつ 主観を保ってまたその中で滞留もしつつ この世でキリストを生きるという段取りです。これは 人間にとって 最も安全な道であるでしょう。また 自由人にとって最も有益な史観ではないでしょうか。ここから理論は生まれて来なければならないと考えられた。
わたしも理論する者の一人として言いますが おそらくここから《人間が欲するままに生きることが真実となるであろう 今は決してないそのことが真実となるであろう》(三位一体論13・7〔10〕)ことが 実現されるであろうと いま――むしろ理論上の表現として――言えるのであろうと。
(つづく→2007-07-26 - caguirofie070726)