caguirofie

哲学いろいろ

#70

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第六節a 史観の生きる道が 理論の生きる道である

この章への補足です。
それは これまでに述べたことから キリスト史観は すでに 全体として 現実であるということ そしてもし 共同観念現実がいわゆる現実であるとするなら キリスト史観は 現実の現実であるということ またこれを言いかえると 共同観念現実は その《現実》の似像であるということ(三位一体の理論) そうしてここからして 理論としての史観は この現実(すべてを含めて)を捉えるのであるが それは 《現実の個々の要因(記憶・組織行為 / 知解・経済行為 / 愛・経営・政治行為の諸要因)を 分析して捉えるにしろ あるいは 現実の或る現象を 論理的に分析された事柄を用いて 論証して捉えるにしろ 要するに理論は その理論じたいにおいて 現実を あたかも或る標本を示すごとくに捉えて見せる》というのではなく 《その理論をとおして 現実が ともあれ生きた全体として 理論の作者も読者も知解し愛すことができるものとして 表現する》ことを その文体として 目指すということであるかと考えます。
このとき 第一に《文体として》ということは 一見 文章技術的なことのようでいて しかし その共同主観(人間)の行為形式全体にかかわっていることであり 第二に 《現実が 生きた全体として 表現される》ということは 一見この表現された現実が 人間を蔽う枠組みないし鏡であるかのように捉えられるようでいて しかし その表現の視点は この枠組みを突き抜けるようにして この鏡をとおして あのやしろの望楼に立つように 現実の動態を見つめているということでなければならない。
以上のような 理論の性格が さらに追加されて言われなければならないでしょう。これは すでに・また つねに 言われていることでありますが ちょうど水かさを増してのように あらためて追加して ここに論議しておきたいと思うことです。また このことは 一つの目的――過程的な目的――とさえ見なされてよいと考えられるからです。学問( discipline )の これを 目的としたいと思うのです。
最後に述べた《望楼に立って 現実の動きを見つめる》というのは 決して《望楼より何か放心したような主観によって その歴史を展望する》ということを意味するのではなく 《このやしろの望楼に立つこと》じたい そのまま 《現実の鏡を見るのではなく つまり鏡に映った自己という人間それじたいを見るのでも必ずしもなく そうではなく 鏡をとおして 自己の動態・なんならその自由とその動態過程を見守る》ということでなくてはならないでしょう。
キュリアコン(やしろ)の望楼に立つことが 主観の放心・放棄ではなく 主観の安全で堅固なる地帯に立つ だから 主観の自己形成それじたいであり その時間を見つめ直すことを可能にするということでなければなりません。このことは 特記して 追加されるべきでしょう。また このことは 史観(生)という人間が主であり 理論(知解行為)は従であるという第三の性格からの必然的な帰結でもあります。
つまり こういうことになります。記憶(視観・視像)もしくは知解行為(視像からの視像)には 観想的な精神と論証的な精神とがあって 後者は前者に従属すると端的に言えると思われることです。前者は知恵 後者は知識と言いかえることもできるでしょうが ただし知識が 前者つまり観想的な精神に伴なわれていないことはなく このような言い替えは 固定して考えるべきではないかも知れません。
これは 現実(共同主観 における史観と理論)として言っているのであって 現実の似像(共同観念 における人間の知恵を知識)について言っているのではない。つまり言いかえると 共同観念現実における倫理的な知恵と知識との関係について考えをめぐらし それをそこから抽象して 知恵と知識の実態はこうであるとかというふうに アマテラス普遍抽象概念を形成して 言っているのではない。このアマテラス概念は 乱暴に言ってしまえば このアマテラス概念をとおして アマテラス語を用いて 主観(スサノヲ者)共同すると言うのでした。
唯物史観は このアマテラス神は 幽霊・幻想・宗教であると批判したのでした。観想的な精神と論証的な精神との現実の似像が 共同観念的な知恵と知識とであると われわれは言うのでした。唯物史観の批判的な視点を われわれは主観・もっと言うならば信仰としたいのです。そうでなければ 唯物史観は つねに批判に回りつつ 批判的精神に徹しつつ そのもの自体を いまひとつ別種のアマテラス神として さらにはそれを客観(A語)共同なる共同幻想としかねません。主観の生きた信仰を見ないことには――この信仰をたしかに信仰(なぜなら 現在して到来する将来の栄光を見るものだから)として認識しないでは―― 唯物史観は 共同観念からは独立して 共同主観の系譜に立ちつつ しかもこの共同主観を裏返して着ることになると言うのでした。この間の経緯に 理論者は留意しなければならないでしょう。  
さらにこれを 見方を変えて言いかえると こうなると思います。つまり はじめい触れたように 現実には 現象的な現実と現実の現実とがあり もしいま図式的にこれらを規定するとするなら 前者は 共同観念的な現実であり ここには常識以前・もしくはそれに反した事実も見出されるとするなら 後者がともあれ常識もしくは共同主観であるといった見方で把握される現実領域だと思われます。常識が通用しないという無力 これも有効だと考えられ そうだとするならば そこには 現実の奥なる現実が想定されるでしょう。無力だが有効な現実と そして 有力だがむしろ無効な観念現実とが考えられます。
しかし問題は 歴史観としては究極に 《現実》つまり共同主観の原理の観想(つまり ほんとうの常識の現実性の享受)にあるとする一方で このとき 共同主観の原理を観想する人間の共同主観が 共同観念現実とどうかかわっているのか これを理論的に提示することが 要請されるということでありました。またこれを やしろ全体としての現実すなわち常識の現実性の 享受つまり 心が歓ぶことであると別の角度から見るならば 心がよろこぶとは やしろのまつり(祀り・祭り)にほかなりません。また このまつりは スーパーヤシロのマツリゴトにではなく ヤシロのマツリに基盤があって インタムライスムの言わばマツリ(複数)の自由な目に見えない心の連帯の上に 従属し主導されて A圏のマツリゴトは行なわれなければならない。このような基本の命題にも立っているのでありました。
それでは 理論はどうなるでしょうか。おそらく すでに提示したように この全体的な現実 これを 各分野に分けてそれぞれ論理的な分析によって説き明かすのでは必ずしもなく また 全分野をつうじての或る現実の現象を 評論の視点から論証してみせることによってでもなく まづ言葉(文章)そのものとしてはあたかも全体の現実にすっぽり包まれるごとくして しかもその文章の視点は やしろの或る望楼に立つというように そして言外・行間の意味を含めて 全体としてこの現実を 動きあるものとして捉える このような基本的な行き方になると思われるのです。
このことは あえてわたしは 愚かの謗りを覚悟して さらに具体的に言いかえると 人間の知解することとして 自己がともあれ生きているということ このこと(つまり 原主観)以外に 確かなものがあるだろうか また だから端的に言って 要は 理論として この一点を 現実全体とのかかわりの中に ほうふつさせるように描く ここに帰すると言っても 理論的な落ち度がないと思います。
人間が生きているということ このことも当然のごとく 有限であり可変的なことであります。しかし 時の変化とともに変わらざるもの これは この一点(原主観)に集中してこそ あるいはこの一現実にこそ宿って 捉えられるべきであり それ以外のことは さらに一層 可変的なものであり この現実の中のさまざまな可変的なことがらを ともかく変わらざる原理を分有しうるという人間の一視点に立って 理論する。これが理論の基本的な行き方であるように思われるのです。また 理論じたい その言葉そのものとして・もしくはその論理的な体系として 生きるのではなく この理論の視点が 殊に言外・体系外のものごととして 見ることを可能にすることがらが 理論の生きる道である このように思うということになるでしょう。
抽象的な議論を 具体的にこう言いかえてみましょう。

ヒトは そして理論者は 人間が生きているということであるその内なる人(その主観)から外に出て行ってはならない。

  • 批判する=つまり欠陥を憎み人を愛するということと あの共同観念現実の中から その罪の共同自治の虚偽に対する《叫び》を叫ぶこととを 混同する場合がある。理論家じしんは 《叫び》人でなくとも これを代弁する・つまり 他の主観を自己の主観そのものと思い為してそれを行なう場合がある。これは《共同主観》=常識ではない。常識は スサノヲ者の《生き生きとしたまつりを つまり人間が生きているということを根幹として 理論する。

これに付け加えるとするなら もしこのことが一つの真実を 言葉によって表わしているとすれば しかもこの言葉じたいは 理論でもなんでもない。または理論にしかすぎないものであり 人間の生きる現実 その全体は その言葉以前にある・もしくは その言葉の無化された(つまり そのよそよそしさが人間の有として再び取り戻された)各自の内なる人の中にある。言い換えるなら いま何らかの言葉による表現として 或る真実が言い当てられたとするなら それを受け取った人は すでにそのことを自己のもとに知っていた・ないしすでにそれを生きていたと言うようにして その史観(精神・知解・愛)の健康な滞留を行なっているにすぎない これらであります。どんなに精緻な・あるいは膨大な理論もすべて これに還元されます。史観の生きる道が 理論の生きる道である これです。
わたしたちの史観からは 次のように言われます。すなわち 

わたしにとって 生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ書:21)ということ。だから もっと固い食物として信仰次元に立って言うとすれば 同じ使徒はつづけてこう述べます。《わたしにとって 生きるとはキリストを生きることであり 死ぬことは有益なのです。けれども この世に生き続ければ 実り多き働きができます。とすると どちらを選ぶべきか わたしにはわかりません。板ばさみの状態です。
一方では この世を去って キリストとともにいたいと熱望しており このほうがはるかに望ましいのです。でも他方では この世にとどまるほうが あなたたちのためにもっと必要なのです。
(ピリピ書1:21−24)

ここには確かに あの望楼に立って 現実全体を動きあるものとして その鏡をとおして 見つめる自由の視点が明かされていると思います。すなわち 共同観念現実との共同主観者のかかわりあいの原理的な視点 すなわちその史観なのです。かれは 神の国のこのような外交官(使徒)なのです。
(つづく→2007-07-25 - caguirofie070725)