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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第二部 唯物史観への批判
第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)
第六節a まとめ――蝶はもはや蛹の時代を思わなくなるであろう――
理論を愛する・ないし愛からの理論として 以上はわれわれのそれです。
第一部・第二部の全体を閉ぢるにあたって 概観します。
まづ繰り返して述べれば キリスト史観は 不在なものの現在として 主観の内に存在し そしてそのとき 明確な知解行為・理論となっていなくともよい。キリストを生きるという人間・史観が そのすべてである。要するに それは 目に見えるかたちで存在しないであろう。
しかし 共同主観が史観となって人間の中に存在するとすれば そして共同主観は 知解行為やあるいは精神(また言葉)においてよりも より一層 愛の行為(そのちからと はたらき)において現われるべきと考えられ この愛がかたちあるものでもなければならないとするならば 土壌としての共同観念的な(経験的な)現実の一つひとつのかたちをとおして やはり生起するものである。
愛の行為は 第一義的に 個体のそれであり すなわちインタスサノヲイスムである。そのかたちあるものとしては 二次的に・外において やしろ(キュリアコン)に現われ そのときには ヤシロ(エクレシアおよび生産態勢)をその基盤として すなわちインタムライスム=インタキャピタリスムとして 考えられる。
現代の共同主観にとって 愛の行為(権威への従順)としては 国家という共同観念形態(また そういう思想)は 現実とは考えられない。S‐A連関が転倒していると考えられる。ナシオナリスム・律法(国法)が 土壌としての現実である。そして 史観となった人間の主観共同化が 生きた現実である。そのかたちは 上に述べた。それは 愛の勝利の現在する将来の栄光(共同主観)である。
しかし これもあれも 主観の内なる自己形成が 現実の現実であり この史観の外には 出かけてはならず(出かけてはならないがゆえに 外に出かけるというように 外なる現実を尊重しこれに寄留する) 理論もこれに従属する一つの手段(人間の有)である。
将来の栄光に向かって この共同主観は現在して滞留してもよい。滞留が 時の充満をつくる。滞留においてすでに現在する将来の栄光であるが 外において社会的に この時の充満は 土壌としての共同観念的な形態を変える。この過程は 主観共同化の過程であり 時の充満をすでに作りつつあり それが訪れたときも 同じ過程を基本的にたどる。
人間の現実の現実は 共同観念現実からの出立 つまり 身体を保持しつつ肉の情念に死ぬであろう霊の人となることである。これが 史観の核である。時の充満がこの霊〔としての共同主観〕において現われるものである。また主観共同化の過程は 霊的な存在としてのそれであることによって 権威への従順・他者の愛(配置つまり経営)という愛も 生きた史観となる。
史観の核は 与えられるものである。それは 全体的な史観として与えられる。そしてまた 人間社会とその歴史の中で 悪しきものとしても それが許されるというようにして 与えられている。つまりそのような状態に 留められている場合がある。全体として・もしくは善き史観によって これが善く用いられる。これは 具体的な個体としてのわれわれ おのおのの主観において 生じる。この全体的な配置の中で 《現在する将来の栄光》を観想しつつも 朽ちるべき身体を伴なう悲惨・無常なる共同観念現実においては それぞれが 快活なる恐れを持って十字架を背負うようにして その主観形成の過程をたどる。
しかしわれわれは すでに 人間の中心性による知解行為・共同知・理論に寄り頼む罪は 取り除かれている。そして救いとも言うべき生は 約束されている。暗いところに隠されていたものが 明るみに出されていくことによって この身体を拘束する共同観念現実が ただ経験的なものであるということになる。そのように 土壌・媒介性としてその位置に浮き上がる。共同主観が これを主導する。なかでも 愛が その中軸である。
またこれらのことは 理論として言っても 主観の中において まづ信仰として始まる(内面へ向き変えられた人の主観から 原主観を発見してのようにそこに到来し その源であるお方への信仰 として始まる)とは言わざるを得ない。また 被造物としての人間は すでに創造者なる神の子であるとするなら この信仰は与えられている。信仰が与えられているとするなら その共同主観の出発つまり信仰の自覚は 具体的には多様なかたちを採って現われるそれぞれの試練の火に出遭うことによって そして これをくぐり抜けてのように 前へ進められる。
- また 夜に盗人のように 試練の過程で 各主観に現われるというのが 信仰は与えられているということの内容である。これが 単なる主観ではなく 多様な個性の中の一つの共同主観と言ってのように 愛されて 前へ進められる。
試練の火は 恩恵を享けた共同主観者 すなわちその愛を 金・銀あるいは宝石によって建てる者もこれに出遭う。また 妻を喜ばせるためにこの世を愛し しかしながら 至聖所に入る史観の源であるキリストを棄てるほどには 愛着しないで その愛を 木や草や藁で建てる者は この〔木の建物を焼く〕火をくぐり抜けて来た者のように 共同主観者として立てられる。
さらに はじめから真理の中にいなかった悪魔の差し出す空中の楼閣 もしくはそのような蜃気楼がかけられて宥(なだ)められた経験的な共同観念現実 ここに生きる者は その配置のままに 全体として正しく生かされ その行為は用いられる。いづれにせよ 全体としてやしろの中では この愛は 自分と同じように他者を愛するインタスサノヲイスム史観となり また一般に権威に従順であることにおいて 保たれ 同じ配置において 権威の制度はこれを変える。
この愛は 内なる人につねに留まるべきであり しかも時の充満とともに 外なる現実への働きかけを為す。
- 内なる人にとどまるときも 働きかけを為す。また 外なる現実へ働きかけるときも 内なる人にとどまっている。
主観共同化の過程であり ここにおいて権威の体系が 時に 変えられる。主観の内に滞留する史観は その時の充満とともに 或る種の〔内なる〕回転が起こり 権威への従順という同じ愛の行為過程において 外なる制度への主観共同化の形式を 自己の中で すでに先に 変えられてのように。
(つづく→2007-08-14 - caguirofie070814)