caguirofie

哲学いろいろ

#193

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十章a イエスは義によって死に そこで 悪魔の征服(第二の死の方向転換=アマアガリ――第三の基軸――)を成就させた

いま イエスの死が始まっている。
次に 逮捕されたイエスは 

《大祭司のもとに連行される》

(参照箇所:マタイ26:57−58 マルコ14:53−54 ルカ22:54)

そこで 一部隊の兵士とその隊長 およびユダヤ人の下役たちは イエスを捕らえて縛り まづ ハンナスのところへ連れて行った。かれが その年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。一人の人間が民に代わって死ぬほうが好都合だと ユダヤ人たちに助言を与えたのは このカヤパであった。
ヨハネによる福音18:12−14)

カヤパの助言については こう書かれている。

そこで 祭司長たちとファリサイ派の人びとは最高法院を召集して言った。
  ――この男は多くのしるしを行なっているが どうしようか。このままにしておけば 皆がかれを信じるようになるだろう。その上 ローマ人が来て 我われの聖所も国民も滅ぼしてしまうだろう。
かれらの中の一人で その年の大祭司であったカヤパが言った。
  ――あなたたちは何もわかっていない。ひとりの人間が民に代わって死に 国民全体が滅びないで済むほうが あなたたちにとって好都合だと考えないのか。
これは カヤパが自分の思いつきで話したのではない。その年の大祭司として イエスが国民のために死ぬことを預言したのである。イエスが死ぬのは 国民のためばかりではなく 散らされている神の子たちを一つに集めるためでもある。この日から かれらはイエスを殺そうと計画した。
ヨハネによる福音11:47−53)

この《自分の思いつきで話したのではない》カヤパの預言については 次のごとく。

〔・・・また 神がそこに将来のものと過去のものとが存続しているご自分の御言と知恵によって指示したまう聖なる天使たちから 或る人びとに予告されるのか あるいは天使たちから聞いたものがさらに他の人びとに伝えられるのであろうか。また 或る人びとの精神が 天使によるのではなく 自らによって事物の最高の原理そのものにおいて将来するものの確固とした諸原因を見抜くほど聖霊によって昂揚されるのであろうか〕。
要するに 空中の権能が 将来するものを それを告知する天使からであれ 人間からであれ 聞くのである。しかしかれらは 万物が服従せしめられているお方が必要であると判断される限りでのみ聞くのである。多くのことが 或る刺激によって また知らざるまま霊の衝撃によって 予告される。例えば あのカヤパは自分が何を語ったか知らなかったのであるが 大祭司であったとき 預言したのである(ヨハネ11:51)。
(三位一体論4・17〔22〕)

しかし このような すでにその問い求めの場所を見出したところの歴史的時間においては カヤパの見方・その預言は 決して一般に なじみの薄いものではないことを わたしたちは知っている。預言ではなくとも 《一人の人間が民に代わって死ぬほうが好都合だ》という見方とその手段は 《誰に代わって》かを別としても 人間による共同自治のあいだでは 珍しいことではない。《しようとしていることを 実行しなさい》と言うとき このような《空中の権能》による。だからA圏主導のA‐S連関体制的な統治の一方式を やしろ全体の次元では その史観の方程式過程において そ成就の一手段として イエスが利用した。つまりかれらにこれを用いさせた。あの歴史的時間の中の方程式の運動が やしろ全体の次元では そのように推移するというやはり一つの類型である。まづ 前章から引き継いだ課題に対する答えは 以上である。
なおも 前章に引いたパウロの《ローマ書簡》から他の箇所を引用すれば――

それでは どうでしょうか。神との正しい関係を求めなかった異邦人が 正しい者 しかも信仰によって正しい者とされました。しかし イスラエルは 人を正しい者とする律法を追い求めましたが 律法の意図するところに達しませんでした。なぜでしょうか。それは 信仰によらないで 行ないによって達せられるかのように 追い求めたからです。かれらはつまづきの石につまづいたのです。

わたしはシオンに つまづきの石 妨げの岩を置く。
これを信じる者は 失望することがない。
イザヤ書8:14 / 28:26)

と聖書に書いてあるとおりです。
兄弟たち わたしはイスラエルが救われることを心から願い かれらのために神に祈っています。わたしはかれらが熱心に神に仕えていることを証ししますが この熱心さは 正しい認識に基づくものではありません。なぜなら 神の前で正しい者とされる道を知らず 自分の道を求めようとして 神の道に従わなかったからです。実は 律法はすべてキリストを目標としていたのであり 今やキリストを信じる者はみな正しい者とされるのです。


モーセは 律法によって正しい者とされることについて 

掟を守る人は掟によって生きる。
(レヴィ記18:5)

と記しています。しかし 信仰によって正しい者とされることについては

心の中で《誰が天に上るだろうか》と言ってはならない。
申命記9:4)

と述べています。これは キリストを引き降ろすことにほかなりません。また

《誰が底なしの淵に下るだろうか》と言ってもならない。
申命記30:13)

と述べています。これは キリストを死者の中から引き上げることになります。それでは なんと言っているのでしょうか。

御言葉はあなたの近くにあり
あなたの口 あなたの心にある。
申命記30:14)

と述べていますが この御言葉こそ わたしたちの宣べ伝えている信仰を生み出す御言葉なのです。
(ローマ書9:30−10:8)

引用文の前半で やしろ全体の次元のあたかも方程式の展開を そして 後半で その根拠を かつそれを個人的な展開の次元で それぞれ示している。また これらはすべて いま見ようとしているキリスト・イエスの死のあとの見地から あたかも総括的に述べたものです。
だから 史観の方程式は やしろ全体の次元で その歴史的時間〔の一類型〕が 大祭司カヤパの預言とともに――個人的にはあのユダの裏切りのあと―― このカヤパの前へ 逮捕されたイエスが 連行され〔次に見るように 尋問を受け〕るというかたちで 推移する。
(つづく→2007-11-26 - caguirofie071126)