caguirofie

哲学いろいろ

#198

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十二章b 悪魔はイエスを死に追いやって 勝利したところで イエスの愛(神)を見て 征服された

さて まづ個人的なかたちで 自分の弟子の一人であるユダに裏切られ 逮捕され やしろの次元において 大祭司カヤパから尋問され また 同じやしろの次元ないしこれを超えた次元において 総督ピラトから尋問を受け そうしてここで これら全体的な歴史時間の中でのように 綜合されたかのごとく ピラトとユダヤ人たちとのあいだで イエスは 死刑の判決を受けた。また かれが 自分ではりつけの刑に処せと言ったのではなく あたかもみづからの生命の主張・展開をなおも静かにしっかりと行なう途上で 行き違いはあるにせよ(実際 ローマ人ピラトやイエスに罪を見ていない) 各自がそれぞれ主体的に――ともあれ主体的に――行動するという中で その結果 死刑が取り決められたのである。
ここには 必然性があると言えば言いうるし また 単に偶然の結果だと言えないことはない。目的意識的な行動によってつらぬかれていると言う人はいるかも知れないし しかしまたそれは 自然史の過程だと見る人が排除されるわけではない。唯物史観は これらの歴史過程について その一定の解釈はこれを為すことができるであろう。または どうでもよいというのではなく 疑いつづけることも。ただ そのばあい 唯物史観の場合は 自己の史観に立って 歴史を解釈し説明できたとしても 自己の本当に信じるべき史観の原理は なおこれを明らかにしえない。言いかえると ほんとうは自分は何を信じてその史観〔とそれによる理論解釈〕を持ちこれを行なっているのか なおもあいまいである。ましてや 万人の信じうる史観の原理を 自己の史観ないし理論以上に 表現することは――誰にとっても―― 不可能だ。〔そうなのだ。だから〕 唯物史観だけでは けっきょく かれらは この生きた歴史的時間のなかにいるのではなく その構造的な過程ないし過程的な構造をよく明らかにするというほどに むしろその視点(つまり自己)は この歴史時間の外に位置している。ないし位置せざるをえなくなるからだ。(この《よそよそしさ》をかれらは キャピタリスム社会の階級関係 労働の二重性による自己疎外に帰して つまりそこから来ると言って 自らは《よそよそし》くなくなったと思っている)。かれらは 自己の信じるべきものが なお不明瞭なのであり――日本人にあってはなお 第二の《天孫》がいつか必ず降臨して来ると考えて その解放を未来に託すかのようなのであり―― または この歴史時間の外に立って 一般に歴史的時間を観察するということを 自己の信じるべきもの(生)と信じているからである。《ここが ロードスだ。飛べ》と言っても 容易に信じない。それはむろん アマテラス語の蔽いがかけられているからであるが――自己の信仰をむやみやたらに明かすべきではなく 一人勝手に行動することは許されていないといったようであるが―― しかしもっと真実には 《ここがロードスだ。飛べ》といった史観・信仰・主観を 知解して知っているということ が自己の歴史時間なのだと あやまって・あるいは自己を偽って 信じてしまったからである。アマテラス語のしんきろうに対抗するべく 別のしにろうを自らにかけているのだ。
《神が与えられていなければ わたしに対して何の権限もない。〔だから わたしを引き渡した者の罪は もっと重い〕》というように 唯物史観は 神がこれを用いたまうのである。なぜなら その理論じたい(つまりかれらが知っていることじたい)は 人間の真実の言葉なのだから。しかし この人間の真の内密な言葉も たしかにいくらかはあのキリストなる真理すなわち神の言葉に似ているのだ。だが これがどんなに似ていないか われわれは考察するのに躊躇すべきでは無いと言うように またわれわれは この真実の言葉たる唯物史観の理論を 用いるのである。

  • このように言うことは 唯物史観を論駁するためではなく つまり第二部でいくらかそうしようとしたのと違って 唯物史観者が自己の歴史時間に現われてくるのを欲してのことである。そうでなければ 論議は出来ない。

またこのように言うのは むろんそれらが 人間の三一性の像であり それは 三位一体の似像(つまりなお可変的)であるものだからだ。こうして 現代の歴史的時間〔の構造〕が 生きた歴史時間となるであろう。(もっと言うならば 現代において公然と 唯物史観者であると表明する人びとも 実際にはなお そのようにして研究・学習する者ではあっても 隠れてマルクシストであると言ったほうがよく つまりなぜなら それは かれらがなおいわゆる《転向》しうるかも知れないという理由からではなく そのような知解行為の理論は もともと三一性の似像であり可変的であり 自由に《転向》しうるのであり その転向は あのユダの裏切りにまでは達しない自由意志の産物であるしかない。そうして 中には 隠れキリシタンである史観者も いるであろうと思われたからだ)。
この現代の歴史時間において かく言うキリスト史観者が いま死刑の判決を受けるキリスト・イエスであると言おうとするのではない。同じく 総督や祭司長ないしユダヤ人たちが 唯物史観者を 《十字架につけろ》と叫ぶわけでもない。どちらも キリスト・イエスではない。しかも いま このイエスに死刑の判決を渡すユダヤ人たちの時間を つまり イエスを釈放するのではなく《強盗バラバを〔釈放せよ〕》と叫ぶその時間を 誰が見ないであろうか。キリスト史観が スサノヲイスムと言う限り また 《万国のインタスサノヲイスト 団結せよ》と主張する限り いまの歴史時間は このような生きた構造において 推移しているのだ。これをしも誰か 疑うであろうか。《わたしを信じなくても わたしのわざを信じなさい》と言ったイエスにおいて この〔やしろの〕生きた構図は 生きた構図であると思う。
《我われには律法があります。律法によれば この男は死罪にあたります。〈神の子〉と自称したからです》と われわれインタスサノヲイストが責められているのではないが われわれの長子であるイエス咎められている そのような構図を見ないであろうか。

  • または それはあまりにも《神秘的な》物言いであろうか。いや 《自己疎外とその止揚》を叫ぶほうが そしていまあえて言うとするとそのようにマルクス・ボーイになることのほうが より《神秘的》ではないだろうか。なぜなら 通俗的に言うのだが キャピタリスムの恩恵を受けつつ キャピタリスムを悪魔と規定しようとする場合にはである。これは 神わざである。

もしこれが正しい認識であるとするなら いまでは 唯物史観の理論的な精緻化(それも重要だが)にかかずらっているべき時ではなく また キリスト史観の宗教的な信仰を自己にもまた他者にも訴え(それも その核としては重要だが)ているべき時でもない。ここでアジタシオンめいたことを言おうとするなら この歴史時間が 死に直面している のではないだろうか。そのための方途は すでに考えた。また そこに 滞留があることも。また 方途のさらに具体的な議論は これを――いわば現代の《万葉集》として――期待するとともに その原理は これまでに問い求めてきたし また今後も問い求めてゆくであろう。ならば 《インタスサノヲイスト 団結せよ》というプロパガンダは あながち非学問的な態度でもないであろう。
《ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし ユダヤ人たちは叫んだ。〈もし この男を釈放するなら あなたはローマ皇帝の友ではありません。王と自称する者はみな 皇帝に逆らっています〉》。歴史的時間の構造が 現代と同じようであると見たのであるが しかし現代では このような総督ピラトもローマ皇帝も存在しないのが 実情である。ユダヤ人たち つまり アマテラス予備軍も このように アマテラス語の空虚なな論理の操作によって 主張を訴えることは 非現実的であり また訴えても無意味であることは むしろA者の人たちこそがよく承知していることである。また 同じことだが それにも増して イエスは ここ(現代)ではもはや 一人の人間として 存在しているのではない。現代人の誰か一人として 現在して イエスであるというのではない。また そう言うほどに 現代の歴史時間は まさに キリストの肢体そのものである。(そうでなければ またさらに 第二・第三のイエスが作り上げられるであろう)。このインタスサノヲイスムなるやしろ もしくはインタムライスム=インタキャピタリスムなるやしろ――これらが キリストの肢体であり それは わたしたち自身である――は もはや《殺せ。殺せ。十字架につけろ》と叫んでも 殺せるものでもない。現代では むしろそう叫ぶ人たちのほうへ その言葉はそっくりそのまま返ってゆくであろう。A 者がみづからの墓穴を掘るとは このことである。だからかれらは このことを承知している。
そこで この時点で イエスが死刑の判決を受けた裁判の日は 《過ぎ越しの祭の〈準備の日〉》であった。
(つづく→2007-12-01 - caguirofie071201)