caguirofie

哲学いろいろ

#208

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十八章b ただいま現在の《エネルギッシュな》史観の方程式展開そのものが コミュニスム(愛の火による共同主観)なのである

〔人間および自然が本質をそなえていること( Wesenhaftigkeit )すなわち人間が人間にとって自然の現存として また自然が人間にとって人間の現存として 実践的 感性的 直観的となったことによって 疎遠な一本質についての 自然および人間を超越する一本質についての問い――自然と人間との非本質生についての告白をふくんでいる問い――は 実践的に不可能となった。〕
こうした非本質性の否認としての(* 非本質性に対するさらにむしろ別種のA語理論による批判としての)無神論は もはやなんの意味ももっていない。
なぜなら 無神論は神の否定(* それは 宗教形態化した神 の否定)であり そしてこの否定を介して人間の現存を措定するからである。

  • 《この否定を介して措定された人間の現存》は 《自己のアマアガリ過程について直観的な 反対できない証明をもって》出発したのではなく むしろこの出発点へのささやかな始動・または現行支配的なA語共同観念と同列のいわば自己を楽しませるという意味での高慢による始動によって 〔反〕措定された人間の現存形態である。のちに見るように コミュニスムは この反措定=否定 の否定 すなわち A語を含めた人間の肯定であると述べている。

しかし 社会主義としての社会主義は もはやこのような媒介を必要としない。

  • 社会主義としての社会主義》とは A圏体制への批判としてのやしろの宣揚ではなく やしろ=社会でたしかにあるS圏としてのS圏 あるいは これを《自己のアマアガリ過程にあって 自己の史観において すでにいかなる媒介もなしに――それが 神によって生まれるということだ――可能であったように 樹立される内なるやしろ〔主義〕》ほかならない。マルクスの 表現は外に向かっている。ないし かれの思想全体から見て そのやしろの経済的な成り立ちに焦点をあてている。しかし――もちろん そのことも必要であろうが――かれ自身の《自己の出生》について見たその位置は 内面に向いており またこの内面〔のアマアガリ〕の確かさに立っているのである。そうでなければ このかれの文章は 単なるアジタシオン 単なるプロパガンダであるにすぎない。

それは本質としての(* つまり 真の本質の似像としての)人間および感性的な意識から出発する。

  • S者を離れないで そこから出発するということだ。S者の中にもA者を見て そのS‐A連関主体なる人間の根源 すなわち聖霊なる・あるいは御子キリスト・イエスなる・また父(神性の原理)なる神にもとづいて ということになる。ないし《意識》は この根源としての神を 時に捉えていないとしても そこにおいてかれが出発する歴史的時間のなかでは その出発が かれにとって生きた歴史時間となるというとき この歴史〔的〕時間への神の介入(人間にとっては 媒介の無)を うっすらと知っている。これは かれの意識において神を媒介とする出発ではなく また 人間の意識における人間の力による神の否定でも肯定でもないというほどに 《直観的な 反対できない史観の証し》のなかに介入する神 すなわち 《自己のこのようにして成る出生》のみちびき手・創造者の存在の 予感的な表象である。
  • もしそうでなく 何ものの介入をもここでマルクスが言っていないとするなら そう読む人があるとするなら この読者は マルクス〔のこの言葉〕を 自己のみちびき手・創造者として 介していることになる。この欠陥〔とわれわれは言うのだが つまり自己そのものを神の言葉としてしまう文体の欠陥〕は マルクスにある。だから マルクスは このわれわれが言うほうの創造者(創られずして創る本性)の介入を 言葉による表現としては すべて端折ったのである。なぜなら この内なるやしろにおける信仰は――その様態がいかなるものであれ ともかく―― かれとその社会には一般にすでに 抜き差しならない土壌となっていたからである。あるいは そのこと(創造者)に 肯定的に積極的に触れるなら それはただちに その信仰の宗教化を生む。ないしすでに宗教化されているものの中へ沈んでしまう であろうと見越したからである。
  • したがって逆に マルクスは そのかれの〔目に見えない〕信仰をではなく かれ自身つまりマルクスという一人格を このような表現形式を採ることによって 創造者すなわち神と為した。または そのようであると結果的にしろ 捉えられた。これは かれの属していない社会 つまり 西欧とは歴史的に異なった土壌を持つところ つまり 一般にアジア的な社会において 顕著な・そして 或る種の本質を作るまでにおおきな傾向である。と考えなければならない。これは 結果的に《周辺革命》とよばれることであり 正確には やしろの土壌としてのキリスト史観〔の有無〕の問題である。アジア的な社会は 或る意味では このマルクシスムによって キリスト史観の・もしくはいわゆるキリスト教の 洗礼を受けたことになると言うべきであろう。これは一つの本質的な議論である。また なお いささかショーヴィニスティックに響こうとも たとえば日本には 八重垣なるスサノヲイスムはあった。逆にまた 律法もあった。

現実的生活が もはや私有財産止揚つまりコミュニスムによって媒介されない 積極的な人間の現実性であるように 社会主義としての社会主義は もはや宗教の止揚によって媒介されない 積極的な人間の自己意識(* ないし史観)である。

  • 私有財産止揚 つまり コミュニスム》と言って コミュニスムは 《私有財産止揚》を積極的な内容とするかのように語っている。その詳細は 原文(草稿における前後の文脈)にゆづることにして まづそれは 《もっぱらのA者によるA語法律にもとづく私有(その限りでのS者所有)財産 この矛盾の止揚》のことである。ここでわたしたちが つけ足すようにしてでも言いたいことは 逆にむしろ ここでは・あるいは現代の一面としては より観念的になってもよいこととして もし現代では 部分的にだが一つの本質をもかたちづくる形として A者主導の私有財産制のもとでも ある程度 総体的に 量としてはその平等なるS者所有がもたらされて来たとするなら つまり 先進する社会とそうでないところとの関係もしくは〔人間的な〕原理ないし本質として搾取が(つまり 経済的な罪の共同自治が)免れないながら そのような一段階にあるとするなら この情況に限って言うなら むしろ富のではなく 観念の資本・たとえば知の私有財産制のほうが そこでのA者主導による《S‐A連関主体なる自己》の疎外の問題として より大きく問題だということである。
  • むろんこれが 富のつまり経済的な罪(時間知)の共同自治と連動していると言ってのうえでである。端的に言いかえると 知の私有財産制をも敷こうかといういわゆる人間の理論・思想・科学の再生産――むろんそれは 同じく本質的に 自己つまり知の私有財産制じたいを止揚する契機を持って為されていることに変わりはないが――が 共同主観の確立の先導者だと思われ行なわれているなら そうであるがゆえにそれは まだ 《宗教の止揚によって媒介され》ているコミュニスムだと言いたいのである。《宗教の止揚 つまりその限りで 無神論に立つ》知の再生産は 観念の資本の私有財産制を敷こうとするかのように また富・資本の私有財産制に対抗すべく 行なわれていると言ってもよいのである ついにまだ《八重垣》を作るというのではなく 《九重》のではなくとも 八重垣の解釈を行なっている。これは 史観ではなく 理論である。《ここが ロードスだ と言って 飛べ》という言葉を知っているという理論――それによる観念の資本主義 また 精神主義――なのである。
  • しかし 資本主義とは――富のでも その場合 よいが―― 生きた史観としての《愛》主義であった。この搾取や南北問題をかかえるキャピタリスムなる現実のやしろが 《ロードス》ではなかったか。

(つづく→2007-12-11 - caguirofie071211)